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もう一つ。合歓が不可思議な事を言い出したのは、それから一年程経った頃だった。
「物語の世界から時々抜け出せなくなってしまう」という、これもまたいささか以上に奇妙な内容であった。
曰く。書冊に記された内容に没入し続けると、その内に現実の声や言葉というものが届かなくなるらしい。そして事今回に至っては実生活においても大きな弊害をもたらした。合歓は眠っているのか起きているのか不明瞭な微睡に沈む事が多くなっていた。
時に食事も取らず、外にも出ず。読み耽り、没入し、微睡むを繰り返す渦中で、緩やかに…しかし確かに、合歓の体は衰弱していった。
ただ、不思議だったのは。そんな最中にあって、当の本人に一切の悲壮感や焦燥感が見受けられなかった事だった。
「体が弱って、家の者達に迷惑を掛けるのは心苦しいばかりだけれど。でも私自身は全然、苦しくなんかないんだよ。むしろ、ずっと焦がれてた本の中の色んな世界がより一層身近に感じられて嬉しいくらいだもの」
相変わらず言葉に虚飾の色は無く。本人が言う通り、世話をしてくれている身の回りの人々への申し訳無さ以外に、彼女の心を苛む物はない様に見えた。
また少し月日が流れ。肌を撫でる風は幾分か冷たさを伴う、秋の入口の頃。家業の手伝いを済ませ、家路を辿っているところ、見知った顔を見つける。
「森先生、こんにちは」
声を掛け、腰を折ると。初老に差し掛かって尚、厳格な顔立ちをくしゃりと潰して、柔和な笑みを浮かべる。
「こんにちは、
森先生は随分と昔、合歓がまだ『普通の』本の虫だった頃から久世の家に勤める、住み込みの教育係だった。
「仕事の帰りかい?遅くまで大変だね」
「はい。一等寒くなる前に一通りを終えたいと、親父達が躍起になっているもので」
当たり前ではあるのだけれど。森先生は、村の大人連中とは大分印象の異なる人だった。その口から発せられる言葉はいつだって理知的で、相手への思い遣りに彩られていた。村の大人達からは「軟弱で偉ぶって、格好ばかりつけているペテン師紛いの男」等と裏で揶揄され、決して好ましくは思われていなかったが。自分は森先生の事が好きだった。
本来なら。学のない自分の様な童など、彼からすれば取るにも足らない存在であるのだろうに。彼はいつでも、立場も、目線も、自分に揃えて言葉を選んでくれていた。合歓がそうである様に、自分を確かに、対等な一人の人間として扱ってくれているその姿に憧れすら抱いていた。
だから。
「もし良ければ、少し話をしないかい」
そんな、恐らく初めての誘いを断る理由は、自分には何もなかった。
村に一箇所だけの甘味処。
「折角だから」と、森先生がご馳走してくれた団子を口に運ぶ。普段口にしない甘さに舌鼓を打っている所に、森先生が言葉を投げかけてくる。
「お嬢さんの事についてなのだけど。新羅君は彼女と仲が良かったよね」
お嬢さん、とは合歓の事だ。問われて、少し考える。
「昔馴染みなのでたまに喋りますけど、どうでしょう。凄く仲良くってほどではないと思います。そもそも合歓は、大体本読んでばかりでしたし」
改めて。仲がいいかと訊かれると、正直答えに困る。家が近所だったので、姿を見掛ければ声は掛けたし、そこそこに言葉も交わしたが、では友人なのかと自問すると…微妙なところだ。
「そうなのかい?私はてっきり…それこそ一番の親友なのかと思っていたよ」
自分の回答が本当に意外だったらしく、先生が大袈裟に目を見開いてみせる。
「彼女の見ている世界は私達とは少し違っていて…そのせいもあって、どうしても彼女の目線は書冊の中、自身の内面に向かいがちなのは知っているだろう」
遠回しに、合歓の語る奇怪な現象の事を言い表している事はすぐに理解出来た。確かに、合歓が、自分と先生以外の人間と話している所は余り見かけないかもしれない。特に、ここ一年位は輪をかけて。
「必然、話題の中心はそうした物語に傾きがちなのだけど…不思議と君の話題は少なくない頻度で出てくるんだ」
「そうなんですか」
それは初耳だった。どんな話題で名前を出されているのやら、気にならないでもなかったが。自分より遥かに忙しいはずの先生が、わざわざ時間を割いて自分を誘ったのだ。脱線した話題に言葉数を重ねさせるのも申し訳ない気がしたので、短い相槌を打つに留める。そんなこちらの配慮を汲んでくれたらしく、先生もまた短い間を挟み、口を開く。
「本題なのだが。本を読む事をやめる様に、新羅君からお嬢さんを説得してもらう事は出来ないかい?」
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