文を遺す、彼方へ届く

nanana

文を遺す

1


 息をする様、書冊に読み耽る。合歓ネムは昔から、そういう娘だった。


「いつも字ばっか読んでてさ、楽しいのか?」

 晩春の昼下がり。縁側でうつ伏せに寝転びながら、いつも通り読書に精を出すその姿に、ふと問い掛ける。合歓は書冊へと落としていた視線を顔ごと持ち上げ、こちらを真っ直ぐに見据える。唐突に移した焦点が合わないらしく、二度ほど強く瞬きをしてから、問われた意味を咀嚼して、大きな笑みを浮かべる。

「すっごく楽しいよ。いつも」

 雲間から差し込む日差しの様に。路傍の花が咲く様に。言葉に偽りを感じる余地をまるで与えさせない、正しく満開の笑顔だった。

「そっか。俺は字、読めないからわからんけど。そんなに楽しいもんなんだな」

 言いながら、隣に腰掛ける。栞を挟み書冊を閉じ、合歓が体を起こし同じ様に座る。

「本の中には、世界があるんだよ」

「大仰な話だな。そうなの?」

「そうだよ」

 夕涼みにはまだ幾許か。柔らかな日差しを飾る穏やかな風に髪を遊ばせながら、合歓の視線はその先の空を見上げていた。

「沸き立つ様な活劇も、切なくなる様な悲劇も。連綿と綴られた歴史も、切り取られた思い出の一瞬も。ぜーんぶ、言葉っていう同じ枠組の中で一緒に在るんだよ。どこに行けなくても、物語や記録を読んで、それを通じて世界中のどこにだっていけるんだよ。素敵だよね」

 饒舌に語るその言葉に、本当の所、一切合切共感できたわけではなかった。自身が文盲だったから、というのは勿論あったろうが。世界を巡るのであれば直接この目で見、耳で聴き、体験する方が余程有意義である様に思えて仕方がなかった。物語の…あるいは誰かの単なる妄想でしか無い文言を世界と評するのは、それでもやはり大仰な話である様に思えた。

 けれど。永劫と刹那が同じ場所に在るという言葉は、とても素敵なものに感じられた。

 誰しもが不自由なく人生を歩めるわけでは決して無い。多くは見たいものを見れず、聴きたいものを聴けず、荒唐無稽な冒険譚などには縁もゆかりもないまま生涯を終えるのだろう。だとすれば尚のこと、言葉を通じて世界を旅するというのは、本当に、とても得難い物に感じられた。

「そうだな。凄い素敵だと思う」

 共感出来ないから否定、とするには余りにも夢のある話だと思った。

 俺の中には無い発想であったし、文字の海を渡って世界中…どころか昨日や明日、更に遠く離れた何処かへ往けるとするならば、確かに、実際の体験ですら及ばない経験であるだろう。

 実際。合歓は村の大人達の誰よりも博識で利発だった。それでいて決して内向的では無く、誰とでも分け隔てなく接せられる社交性も持ち合わせていた。幼心に、こういう人間が将来世の中を変えるのだろうと、半ば本気で思っていた位だ。


 そんな合歓はしかし、時折奇妙な事を口にした。


「文章が動いて、本から飛び出す事があるの」

 合歓が十二になった頃。ある初夏の季節、いつも通り縁側で本を読んでいたその姿に声をかけた際。合歓は心底困った様に、そんな事を言った。初め自分は、なんらかの比喩というか、例え話の一つとして、そういう表現をしている物だとばかり思っていたのだが。よくよく話を訊いてみてすぐに、そうではないことがわかった。


「書かれている文章にのめり込むと、そこに描かれている景色の中に自分も居るような感覚になるの。そこから更に没頭して没頭して…その内に今自分が生きてるこの世界と、本の中に描かれている世界の境目がわからなくなって…ぱっ、と気を取り直すと、書冊から文章がさらりと抜け出てしまうの」

 指で虚空にくるりと円を描く。どうやら書冊から抜け落ちた文章が宙を彷徨っている様子を示しているらしい。

「中々不思議な話だな。抜け落ちた文章はどこにいっちまうんだ」

「それが不思議なのだけど。捕まえようとしても溶けた様に消えてしまうし、殆どの場合は逃してしまうのだけど…抜け落ちた文章は書冊の中から抜け落ちるのだけれど、おかしな話で一晩経った翌日には元に戻ってるのよね」

 挙句動き出した文章は合歓以外には見えないらしく。翌朝には具体的な何かが残っている訳でもないそうで、「話す人話す人、信じてもらえないんだよねぇ」との事。

「別の人にもその話したのか?」

「それはもう、家族から親族まで出会う人みんなに」

 あっけらかんと言い切る。変なところで思い切りがいい。

 話の内容それ自体は、荒唐無稽の権化みたいな物で。正味なところ、真偽を確かめる事こそ不毛な空想に思える。そんな話を聞かされた周りの人間がどういう反応を示すか…想像出来ぬ訳でもないだろうに。

「それで?なにか実りのある話は聞けたのか?」

 まさか、と。肩をすくめておどけてみせる。

久世くぜの娘は文字ばかり追って、遂におかしくなったって専ら話題になっているらしいよ」

「そらそうだろうな」

 全く確かに。そんな噂が立つのも、まぁ仕方ないかと思わされる。それほどに、合歓の口にした話は浮世離れしていた物だった。実際自らも、この話の主が合歓でなかったなら、頭から信じる事が出来たか悩むところだ。

「突飛な話であることに違いはないんだから、何も馬鹿正直に話すこともないだろうに。理解を得たい、とかって訳でもないのだろ」

 元より狭い村の中で浮きがちだった少女が、突然奇譚の如き内容を声高に発すれば、奇異の目を向けられるのは必定。完全に孤立しかねないのではないか、と。

「それはそうだけど、ただ実際…少なくとも私からすれば本当に起きてるだけの事だから。見えないふりでお茶を濁すのも、かと言って変に偽って言葉を選ぶのも違う気がするんだよ。もしかしたら本当に私の頭がおかしくなってるのかもしれないし、或いは私にだけ見えている現実が事実存在しているのかもわからない。真偽の程がわからないなら、見えているままを伝えるしかないでしょ?」


 合歓は、孤立を恐れてなどいなかったのだと思う。そんなことよりも、強く大事に、大切にしているものがあったのだ。自らの人生に嘘が混じらぬ様に、偽る物のない様に。

 書冊を尊ぶ様に。自らの人生を尊ぶその姿は、とても気高いものに思えた。

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