第3話 異獣

 食事の後、璃津だけが昌代に呼ばれた。

「大奥様がお呼びよ」

 それだけ言うと、璃津を従えて廊下を歩いた。

 璃津達の部屋がある二階は、ある程度散策したが、一階の奥へ行くのは初めてだった。前をいく昌代は黙り込んで歩いたが、明らかに機嫌は悪かった。

 部屋の前まで来ると、昌代は璃津を見て言った。

「くれぐれも失礼の無いように。大奥様はご病気な上に、旦那様を亡くされてお気持ちも沈んでおられますからね」

 璃津は頭を下げた。

 通された部屋は老人の住む空間――と言う印象では無かった。二面ある巨大なガラス窓と扉からは夕闇が見えたが、明かりが多く灯された部屋のどこにも闇は無い。飾られた絵画も明るい色調の物ばかりで華やいでいる。

――花の絵が多いのね……。

「こちらよ」

 昌代に言われ、見ると巨大な窓の傍にこれもまた巨大なベッドが置かれ、そこに一人の老婆が横たわっていた。

「来なさい」

 昌代に手招きされ、慌てて隣に並んだ。ベッドの老婆は静かに璃津を見つめていた。

「大奥様、お加減はいかがですか?」

 昌代は老婆の顔を覗き込んだ。老婆は、昌代を見ずに「随分良いわ」と答えた。その声は、老婆と言うには嗄れも無く、むしろ若々しささえ感じられるものだった。

「それはよろしゅうございます。普段は新しい家政婦などお目通りもされませんのに、今回は会ってみたいなどと仰って、私は心配しておりました。大奥様のお加減に障るようなことでもあれば――と」

 それには応えず、老婆は璃津に向かって言った。

「あなたが?」

 昌代は驚き、璃津を見た。老婆の関心は世辞には無く、ただ璃津に向いていた。

「ここへ」

 手招きされた。やむなく昌代はそこを退き、窓際に立った。老婆は昌代の紹介を待たず、璃津に直接言った。

「真柴章子と言います」

 それに璃津は深く頭を下げて応えた。

「瀬尾璃津と申します。この度、真柴様のお屋敷で働かせて頂くこととなりました。若輩で経験も浅い者ですが、家政婦長のご指導の下で一生懸命努めさせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします」

 様子を見ていた昌代は、安堵の色を見せた。その昌代に、章子は驚きの言葉を掛けた。

「昌代さん、もういいわ。少し二人だけにして」

「は?え……いえ、ですが……」

 新人家政婦と二人で何を話すことがあるのか、昌代は困惑した。

「いいから、用が終われば瀬尾さんは帰します。だから、向こうに行ってなさい」

 穏やかな声だが、異論を差し挟む余地のない物言いだ。昌代は不承不承という感じで頭を下げ、璃津を一睨みすると部屋を出て行った。

 静まりかえった部屋で、二人の視線はしばらく絡み合っていたが、章子が微笑みを浮かべた。

「お詳しいのだそうね?こうしたことに」

 その目は自分の指先を見ている。章子の言う〈こうしたこと〉の意味は、璃津には分かっていた。

「詳しいと言えるかは判りません。ただ、結果的にそうなっている感じです」

 章子は微かに頷いた。

「その話し方の方が自然ですね。私の前では是非そうして。お世辞や丁寧すぎるのって、息が詰まるの」

 シワ深い顔に浮かぶ上品な笑みを、璃津は可愛らしいと感じた。

「助かります。私も上品に振る舞うのって結構疲れるので」

 目が合い、互いに微かに笑った。

「草上さんとは古いお付き合いなんですよ」

 章子が言った草上とは、多方面の会社を経営する草上春也のことだ。富裕層への家政婦派遣も手掛けている。璃津は草上の顔を思い出し、顔をしかめた。

「私は社員ではありませんが、草上さんから一通りは聞いています。大切な方だから、ご期待に添うように――と」

 章子は小さく頷いた。

「はじめに草上さんに相談したのはね、夫が――真柴久三があんな事になるよりも前なの。そして今朝あんなふうに――。だから即座に草上さんに連絡させていただいたの」

 怪異は長く続くことがある――璃津は頷いた。

――特に家に憑いたものとかは、しつこいから。

「あなたの存在は彼から聞いたのよ。なんでも、あなたはとても古い血筋の方なんですってね。そして、不思議なことに精通してらっしゃると」

「草上さんとは或る意味では協力関係にあるのも事実ですが、プロモートを依頼した覚えはないんですけどね」

 璃津は肩をすくめて見せた。草上春也は、璃津にとって敵か味方か計りかねる存在だ。表向きは富裕層相手の様々な事業を展開するやり手経営者だが、璃津の〈正体〉を知る、数少ない人間の一人だ。それでいて自分に付いては徹底した秘密主義の、璃津曰く〈いけ好かない〉やつだ。

「善意の方なのよ」

 それ自体は強ち嘘とも言えない。璃津は草上の、いかなる時も笑っている顔を思い出した。募金箱には必ず札を投じ、迷い猫の飼い主を探すために獣医の受付に張り紙を依頼する男ではある。が、聖人君子かと問われたら、璃津は〈即座に否定出来る〉と思った。

「偏った人物です」

 無表情でそう言う璃津に、章子は深く問うことはしなかった。

「本題に入らせてください、真柴さん。ご主人の死に関して、何かお疑いのことがあるというふうに草上氏から聞いていますが、それはどういった内容なんですか?」

 章子は即答せず、手元にあったリモコンでブラインドを下ろした。

「それが私の専門分野かどうか判断させて頂かないことには――」

「異獣――と呼ぶそうですね」

 章子は璃津を見てはいない。指先を見つめながら、静かに続けた。

「草上さんから教えて頂きました」

 一般人に余計な話を――璃津は舌打ちしたかった。

 だが、璃津の思いを感じたように、章子は言った。

「私が食い下がったの。どうしても教えて欲しい――と」

 璃津は章子を見つめた。穏やかに微笑む老婆に、不思議な可愛さを感じていた。

「ちゃんと順序立ててお話しします。可能な限り簡潔に。でも、少し長くなりますよ?」

「結構です。確信が持てたなら、私も仕事がしやすいので」

 章子は頷き、顔を上げた。その目は、天井よりも遙か遠い場所を見つめているようだった。

「私と主人は〈いとこ〉同士でした」

 章子はゆっくりと話し始めた。

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