第2話 巨大な傷
使用人が食事を取る部屋はキッチンの隣にあった。そのキッチンの広さに、璃津は驚いた。
「どこかのホテルの厨房みたい!」
各人で運んだ夕食を前にして、紗絵は笑った。
「大企業〈マシバ〉の宗家のお屋敷だもん、このくらい当たり前なんじゃ無い?」
スープを啜ると、隣に腰を下ろした通いの家政婦・鈴木珠代が紗絵を肘で突いた。
「そんな話し方してると、また昌代さんに叱られるわよ?『なあに?何処で育つとそんなにぞんざいな話し方が身につくの?』ってね」
中年の丸顔の女は笑いながらブールをちぎり、茄子とモッツァレラのグラタンをのせて口に放り込んだ。
「そりゃあ人の前での話だ。飯食ってるときやなんかは別に良いだろ?どんな話し方したって!でっけえお世話だ」
庭師だという横井和夫が頬杖をついて苦笑した。食べているのはチキンの蒸し焼きだが、璃津も嗅いだことの無い香りが立ち上っている。その視線に気づいた横井は璃津に皿を見せた。
「ここってさ、小洒落た〈賄い〉ばっかりなんだよ。カレーとかラーメンとかさ、住み込みさんがそういうの食いたくなったら、休みを使って駅前あたりまで行くしか無いから、覚悟しときな」
言葉はぞんざいだが笑顔が絶えない。
――いい人ばかり、というのは本当みたいね…。
璃津は頷き返し、クラムチャウダーにパンを浸した。
他にも離れた席で数人が話しながら食事をしていたが、仕事の関係で、普段は皆バラバラに摂るのだと教えられた。
「今夜は特別。まだ刑事がお屋敷の中をうろうろしてるけど、もう一度何人かに話を聴きたいんだってさ!ジジョーショーシュってやつ?ほんと、参るよね!でもお陰で仕事の終わりが早くて助かるけど」
紗絵は笑い、他の者達も頷いていた。
「刑事?そういえばパトカーが沢山いましたよね。何かあったんですか?」
それとなく訊ねると、珠代が苦い顔で言った。
「それがさあ、あったなんてもんじゃ無いのよ!大きな声じゃ言えないけどね……」
その視線が横井に向けられると、横井は唇を尖らせて黙り込んだ。
「事件って奴よ」
代わりに紗絵が言った。
「ドラマみたいだけどさ、殺人事件――っての?」
「え!」
璃津は驚いて見せた。
「怖がらなくて良いよ。警備も増えたし、そもそも私たちなんて庶民は狙われやしないしさ」
そりゃそうだ――と横井が呟いた。だがその顔は苦い物を噛んだようだ。
「横井さんは見ちゃったもんね」
紗絵が話を向けると、横井は「そうなんだよな」と呟いた。
「だから俺が疑われてるんじゃ無いかなって」
それには珠代が笑った。
「なわきゃないでしょ!なんで横井さんが大旦那様を殺しちゃうの?得も無いのに」
璃津以外の全員が「そりゃそうだ」と首肯した。
「それによ?社長が亡くなったのって夜中なんでしょ?横井さん、家に帰ってお屋敷には居なかったじゃないの。それでなんで犯人になれるのよ?警備員が三人も常駐してるこのお屋敷に忍び込むなんて、プロの泥棒だって無理よ!」
「だってよお……第一発見者っての?それだしさ……」
紗絵が同情する様子で横井の顔を覗き込んだ。
「虫くらいしか殺せそうも無いのにね、横井さん優しいから」
横井は頭を掻き、一本前歯の欠けている顔で笑った。
「これからその事情聴取があるんですか?」
璃津の問いに、紗絵が首を横に振った。
「ううん、終わったよ。璃津が部屋に居る間に、順番にね。って言ってもさ、朝一番で訊かれたことの繰り返しみたいで、意味があったとも思えないんだ」
それも同感らしく、横井と珠代も頷いた。
「困ってるんじゃ無いの?テレビでもやってたけど、犯人に繋がる糸口が見つけられず――みたいに」
「にしても不気味だよね、大旦那様の死に方――」
食べ終えた珠代が溜息を吐いた。
「どんなだったんですか?」
璃津が言うと、横井が璃津を見た。
「食事中には聴かない方が良いと、俺なんかは思う…」
チキンを残して横井は項垂れた。代わりに答えたのは、紗絵だった。
「刺されてたんだって」
「包丁か何かですか?」
「ううん、なんかね、もっと大きい物みたいよ?」
「刺さって――その刃物はあったんですか?」
横井に尋ねると、横井は首を横に振った。
「いや……。朝一で庭に出てみたら池に何か浮かんでたんだ。それが大旦那様らしいんで、慌てて屋敷の警備員に言って、それで警察が駆けつけてさ。水の中から引き上げるとこも見てたけど、身体にも、辺りや池の中にも刃物なんか無かった。て言うかよ、屋敷の何処を探したって出てこなかったんだよ。そんなでっかい刃物なんか」
「大きな――刃物……」
呟く璃津に横井は続けた。
「んな物は犯人が持って帰ったに決まってらあ」
そこでまた項垂れた。
「用具小屋っていう、横井さんが普段詰めてる小屋があるの。そこにならカマだの、なんか知らないけどナイフの類いもあるんでしょ?」
尋ねる紗絵に、横井は力なく頷いて見せた。
「でも、傷はそんなもんじゃ付かないくらいに大きかったっていうじゃない?」
珠代が助け船を出した。それほど横井の表情は辛そうだった。
「横井さんの用具の管理がどうとかって話でも無いんだし、実際使われたわけじゃ無いんでしょ?だったら、あんまり気にしちゃダメよ」
紗絵も横井に言ったが、横井は食事の手を止めてしまった。それを見て、紗絵も璃津も食べるのをやめた。
「警察から何か言われたんですか?」
璃津が訊ねると、ようやくまた顔を上げた。対人の仕事では無いと言うことで、横井は髭を伸ばすことを許されている。普段ならばいかにも職人という雰囲気を醸すのが、こうなると逆に裏寂れて見える。
「そういうわけじゃ無いんだけど、刑事におかしな事を訊かれてさ」
「おかしな事?なにそれ?」
紗絵をチラリと見て、横井は短い溜息を零した。
「俺ホラ、剣道やってたろ?」
珠代と紗絵が同時に「知らないよ、そんなの」と返すと、横井はコントのようにガクリとして見せた。
「まあいいや……やってたんだよ、高校卒業まで。二段まで行けたんだぜ。県大会にも……」
「だから、それがどうしたのよ?」
紗絵に促された。
「だからさ、やってましたよね?って訊かれてさ」
「そのどこが変なことなの?」
紗絵は首を傾げた。
「いや、その先があるんだよ!それでな、刀剣の収集は趣味なんですか?って」
「とうけん?なにそれ?犬がケンカする、あれ?」
「そりゃあ闘犬!俺が言うのは刀剣!」
「おんなじじゃ無いのよ!」
「字が違うっての!俺が言ってるのは、刀の刀剣!」
紗絵と珠代はようやく理解した。
「ああ……それね?え?横井さんってそういう趣味があったの?」
横井は鼻の頭を擦った。
「趣味なんかじゃねえよ。一本だけ持ってんだ。じいさんの形見って言うか」
「自治体に登録してあるんですね?」
三人が璃津を見た。璃津は慌てて笑った。
「あ、私の田舎のおじいちゃんも同じ趣味で……それで知ってるだけです」
三人同時に納得した。
「そう。調べたら判ったってんだよ、刑事がさ」
「高い物?」
珠代が身を乗り出した。
「いや、全然。名もねえ奴。でもまあ、刀剣は刀剣だ」
「その刀剣がどうしたって言うの?」
紗絵が訊くと、横井は首を傾げた。
「それがさ、今どこにあるかとか、そういうことさ」
女達は顔を見合わせた。
「昼過ぎに、俺って出掛けたろ?家に行ってたんだよ。刑事と。登録してある奴を見せろって」
紗絵は顔を曇らせた。
「まさかさあ、それ使って大旦那様を……」
横井はふふんと鼻を鳴らした。
「刑事もそう考えてたんじゃねえかな。でも、見せたら渋い顔して帰ってったよ」
「なんで?」
紗絵に向かって横井は得意そうに言った。
「ボロッボロに錆びてっからな。あんなもんじゃあ豆腐だって切れねえよ」
紗絵と珠代は顔を見合わせて笑った。
「そもそも!俺が見た大旦那様の傷ってのは、刀剣の刺し傷なんて代物じゃ無かったぜ!なんていうか……もっとこう、でかいんだよ」
ぽかんとする女達に、横井は得意げに説明を始めた。
「いいか?刀ってのはさ――」
そう言い、手近にあった未使用の割り箸を手に取った。
「鞘からこうして抜くだろ?するとほら」
前にかざして見せた。
「一番先を〈切っ先〉って言って、そこの幅をサキ幅って言うんだ。それに対して手元近くのツバのこの辺を元幅って言ってさ、普通は少しサキ幅が狭くなるわけさ。でもな、いくらでかい刀ったって人が持って振るうんだから当たり前な大きさじゃ無きゃ使えねえだろ?普通は三センチそこらなんだよ。それが……」
女達は言葉を待った。横井は数秒黙っていた。思い出している様子だった。
「俺は近くに行けなかったんだけども、水から上げたときにはもう血なんて一滴だって流れて無くって、それだけに傷がハッキリ見えたんだよな」
「普通の刀傷じゃあ無かったんですね?」
璃津の問いかけに、横井は大きく一度頷いた。
「ありえねえくらいにデカかった」
そう言い、割り箸を袋に戻した。
「どのくらいでした?」
紗絵と珠代は何故そんなことに興味があるのか判らず、璃津を見た。璃津の目は真剣そのものだった。横井はぼんやりとした視線で璃津を見て言った。
「七、八センチかな」
横井の言う標準的な日本刀から言えば、倍だ。
「刀なんかじゃ無いんじゃない?」
紗絵の言葉は至極もっともな意見だと珠代も思った。
「そうだろうな。俺も日本刀なんてもんじゃねえと思うんだ。でもなあ、ナイフってのも変だろ?だってさ、背中まで抜けてるんだぜ?そんな長くてでかいナイフなんかあるもんかよ。それに、そんなことができる奴って誰だよ?プロレスラーだって無理だぞ」
横井と紗絵、そして珠代は黙り込んだ。普段働く屋敷で起きた奇怪な殺人事件に、顔には不安が見て取れた。璃津はその深く暗い眼差しを見られないよう、半眼に伏せて食事を終えた。
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