OROCHI
狭霧
第1話 真柴家
だらりと下げた手足から、それが人間であることは分かる。シルエットから、大人の男だというのも。だが、それはあまりにも異様な光景だ。
満月を背景に、それは浮かんでいる。数メートル下は池だ。男の足は地にも水面にも届いてはいない。
男を浮かび上がらせているのは、男の腹に入り、背から突き出た〈太い何か〉だ。それは男の身体を貫通し、男が動きを止めてもなおユックリと蠢いていた。その動きは、一匹の大蛇にも似ていた。
「こんなに若い方が応募してこられるなんて、ね」
そう言い、家政婦長だという女はソファーに腰を下ろした。手にしているのは履歴書だ。
「真柴家で家政婦長を務めている朝永昌代といいます。お掛けなさい」
勧められ、丁寧に頭を下げて腰を下ろした。
「せお……りつさんと読むのね?お年は――」
瀬尾璃津は膝を揃え、お辞儀をした。
「二十一才です」
「それで派遣家政婦の経験が二年ということは、高校を出てすぐに業界に入ったと言うこと?」
昌代は値踏みするように璃津を見回した。身体の線は華奢に見える。小柄で、眼鏡を掛け、一見すれば年代には見合わない地味さを醸している。昌代はそこを気に入った。
「まあ、派遣元の北東京支部さんとは長いお付き合いだし、間違いはないと思うので採用させて頂きましょう」
履歴書を封に戻して言った。
「はじめは誰か付けますから、その人から教えてもらいなさい。いきなり難しいことまではしなくて良いけれど、基礎的なこと一つ一つを疎かにせず、しっかりと身につけるようにね」
璃津は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「住み込みの家政婦はあなたの他に二人居ます。そうね、彼女に付けるのがいいわ」
一人で納得し、昌代は携帯電話を手に取った。
「お屋敷はとても広いのよ。だから連絡にはこれを使います。あなたにも貸し出しますから、絶対に手元から離さないようにね――あぁ、芦川さん?第二応接まで来てくれる?ええ、お願いね」
しばらくするとノックをし、女が入ってきた。
「紹介するわね。今日からあなたと同じ、住み込みで働いてもらう瀬尾璃津さんよ。これは芦川紗絵さん。年は瀬尾さんよりも二つ上かしらね?それでね、芦川さん、お部屋のこととか教えて上げて欲しいの。ここでの暮らし方や、お仕事のことも当面は瀬尾さんのことは芦川さんに任せますから、きちんと学ばせて上げて?慣れてきたら私も仕事を教えていきますからね」
立って聞いていた紗絵は深々とお辞儀をすると、璃津に声を掛けた。
「お部屋に案内しますね」
璃津は慌てて立ち上がると昌代に深く頭を下げ、連れだって部屋を出た。
「緊張した?」
広く長い廊下を行きながら、紗絵は悪戯な表情を璃津に見せた。
「そうでも無いですけど……」
「誰も居ないところでは普通にして良いのよ?一日中緊張してるなんて、出来っこないもの!」
笑う紗絵に、璃津も笑顔を返した。
「芦川さんは――」
「紗絵で良いわよ」
璃津は苦笑し、頷いた。
「じゃあ…紗絵さんは、ここ長いんですか?」
「まだ丁寧過ぎね……まあいいわ。うん、高校出てからだから、今年で五年かな?父親がちっちゃな会社やってたんだけど、倒産したの。大学への夢も露と消えちゃったし、それで親戚の紹介で業界に入ったわけ。でもまあ良かったと思ってるわ。ここって待遇良いし、お休みもちゃんと取れるし、なにより昌代さん以外はみんな優しい人ばかりよ」
後方を親指で指し、舌を出して見せた。
「昌代さんは使用人の中でも一番の古株でね、さっきは初対面だからあんなものだけど、とにかく細かいし、うるさいの!色々いわれると思うけど、めげないでね?仲間は一人でもいて欲しいし、特に年も近いから大歓迎だわ!だってさ、もう一人の住み込みって中川嘉子さんっていうんだけど、私の母親より上でね。おとなしい人だけど、話も合わないし、退屈なのよ。あ、ここが住み込みの使う部屋よ。プライベートは尊重されてるから安心してね。ただし――あ、入ったら判るか!」
話し好きな紗絵に面食らっていた璃津の目の前でドアが開けられた。正面に広い窓があった。
「日当たりも良いし、バスとトイレも完備。でも、ここが少し問題なんだけど、共用なの」
「共用?」
手招きした紗絵に付いていくと、隣室に続くドア無しの開口があった。中を覗いて璃津は「あぁ、そうなんですね」と納得した。
「同じ間取りで二部屋繋がってるのよ。そこに二人で暮らすわけ。勿論プライベート時間の余計な干渉は無しよ。廊下への出入り用のドアもそれぞれにあるしね。お風呂とかは相談で使う感じ」
「紗絵さんは?」
「うん?ああ、私は今こっちの部屋を使ってるの。散らかってて恥ずかしいけど。瀬尾さん――璃津さんだっけ?」
「年下だし、呼び捨ての方が気楽です」
そう笑うと紗絵も笑い返した。
「うん!じゃあお言葉に甘えて。璃津の部屋は私の隣になるわね。だって――」
顎で壁の先を指した。
「五十六才のお姉さんと一緒よりは二才上の方が良いでしょ?」
二人は笑い合い、手を取り合った。
荷は後で届くと告げると、運び込む手伝いするから――と言われた。
「今日は楽にしてて!当座の指導は任されたから、私的には楽にしてて欲しい。どうせ明日から地味に忙しいしね。と言っても、激務ってほどじゃ無いから安心してて。お料理はコックさんが居るし、他にも通いの家政婦が一人居るの。だから、仕事は慣れ具合で分担よ。でも私が教えてる間に慣れてくれたら、昌代さんに見られても十分やれるはずだから!」
「よろしくお願いします、先輩!」
顔を合わせ、笑い合った。自分は仕事があるから、夕食までは部屋でゆっくり過ごしてて――と告げて紗絵は出て行った。一人部屋に残った璃津は、窓際に立った。コの字型の屋敷の中央に庭がある。璃津は窓を開けて風を入れた。
「うん……微かに匂う」
屋敷の前には警察車両が数台あった。せわしなく出入りする私服の刑事と、鑑識課――と書かれたジャンパーの男達を大勢見た。男達はその多くが庭で何かしている。璃津は池を見つめた。そして振り返り、紗絵の出て行ったドアを見た。
「良い子だけど、あの子からも微かに匂ってたわ。確かにこの屋敷には――」
初夏の風が庭の木々をザワつかせていた。
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