SANGI 参議・小野篁伝

大隅 スミヲ

無位、篁

無位、篁(1)

 時は平安。京のみやこ小野おののたかむらという男、ありけり。

 この男、かつては正五位しょうごいのげの官位にあり、刑部ぎょうぶ大輔だいふという役職についていた殿上人てんじょうびとであった。


 しかし、いまは訳あって無位むいであり、着ているのも黄色の直垂ひたたれ小袴こばかまと、庶民と変わらぬ格好である。

 住まいも以前暮らしていた平安京たいらのみやこの左京にある屋敷ではなく、右京のはずれにあるであった。


 ただ、この男は人から好かれていた。偉丈夫いじょうふと呼ばれるほど身体は大きく、よく目立つ。そのため、市中を歩けば人々から「篁様、篁様」とよく声を掛けられる。以前は、などという奇妙なあだ名で呼ばれたりもしていたが、いまの篁の方が庶民たちから親しまれているように思えた。


 その日は朝から漢詩の書き写しを行い、和歌をいくつか詠んだりして過ごし、昼過ぎになってから市中へと出掛けて行った。

 蓄えがあるというわけではなかった。少し前まで、隠岐の地に遠流おんるとなっていたのである。そのため、篁には財産と呼べるような金銭的なものが何もない。


 唯一頼れるのは、妻であるふじであるが、篁はその藤を頼ろうとはしなかった。

 藤に頼る。それはすなわち、義父である右大臣・藤原ふじわらの三守ただもりに頼るということになってしまう。

 婿が元罪人で現在は無位だというだけでも迷惑をかけているというのに、さらに生活ができないから金を貸してほしいなどという申し出を出来るわけがなかった。

 そのため、篁は持っていた着物や書などを売り払い、その日の生活費をなんとか工面したりしていた。


 妻である藤との離縁はしていないものの、平安京みやこに戻ってきてからは、ほとんど顔を合わせてはいなかった。屋敷は元々別であり、篁が足しげく通っていた。これは当時の文化がそういうものであり、夫婦はともに屋敷には住まず、夫が妻のいる屋敷に通うというのが当たり前であった。

 無位である自分が、どのような顔をして、右大臣の娘のもとへと通えば良いのだろうか。

 篁という男は、そういうところを気にしたりするような男でもあった。


 その日の篁は、東市ひがしのいちに顔を出し、家から持ってきた弓と矢、そしてえびらを売って、その金で川魚の干物を購入することができた。


 家に戻ってからは、書を読み、そして床の上に寝そべっていた。

 古い家だった。建て付けも悪く、風が吹けばガタガタと揺れ、隙間風が入ってくるし、雨が降れば雨漏りをするような家である。それでも、住める場所があるだけましだと、篁は思っていた。

 従者は、いるわけがなかった。ろくが払えるわけもない。そのため、身の回りのことは全て自分でやった。

 食事も米を研ぐことからはじめ、火を起こし、そして炊く。

 酒がほしいと思うことはあったが、酒を買うほど生活に余裕はない。

 日が暮れ、とばりが降りると、篁は闇の中で過ごした。本当であれば明かりを灯し、書を読みたいところだが、それは節約のために我慢する。

 その代わりに、拾ってきた木の棒で作った太刀を振ったり、ひとりでできる武芸の稽古に励んだりした。

 そして、夜も更けると、何処かへと出掛けていくのである。


 火の明かりが無ければ、平安京みやこといえども真っ暗であり、頼れるのは月明かりだけだった。

 右京の家を出た篁は、平安京みやこを横断するように左京へと向かい、朱雀大路を進むと羅城門らじょうもんから外界がいかいへと出る。


 羅城門では篝火が焚かれており、多少の明るさはあるものの、手入れのされていない羅城門の姿はどこか不気味であった。

 夜中に羅城門から外界へ出る人間などは、あまりいない。

 特に篁が向かっている鳥辺野とりべのなどは、夜に向かうような場所ではなかった。


 鳥辺野。そこは平安京みやこ風葬ふうそう地帯である。

 風葬というのは、死体を野にさらし、朽ちていくのを待つという、死者の弔い方であり、当時はこの風葬が主流であった。風葬は疫病の蔓延や害獣、害虫を増やす原因にもなっており、高僧空海などは朝廷に風葬を辞めるべきだと進言したこともあるといった記述が、続日本後紀などには残されている。


「もし――――」

 篁が夜道を歩いていると、どこかから声が聞こえてきた。

 慣れているのか篁は、その声が聞こえないかのように無視を決め込んでいる。


「もし――――」

 また声がする。

 しかし、篁は無視をする。


「もし――――。どうして、振り向いてくれないのじゃ」

 篁のことを追い越すようにして、巨大な顔が目の前に現れた。

 その巨大な顔は女の顔であり、顔は半分ほど溶けてしまっている状態であった。


「やめておけ。私は急いでいるのだ」

 うんざりしたような口調で篁はいう。


「どうして、そんなことを言うの……。ねえ」

 巨大な顔の女は口を大きく開けた。その唇は耳まで裂けており、歯は鋭く尖っていた。


「やめておけと言ったはずだぞ」

 今度は強い口調で篁は言った。その目つきは鋭く、口を大きく開けたのことを睨みつけている。


「私をと知っての狼藉であろうな」

 篁は、はっきりとした口調であやかしに言った。


 その言葉を聞いたあやかしが、たじろぐのがわかった。

 腰にいた太刀へと篁が手を伸ばそうとする。


 しかし、それよりも先に、あやかしの方が姿を消してしまった。

 もはや、小野篁の名前は鳥辺野では魔除けに使えるほどとなっていた。


 なぜ、篁の名が鳥辺野ではあやかしにまで浸透しているのか。

 それは、この先にある六道辻ろくどうつじに理由があった。


 六道辻にある小さな寺、珍皇寺ちんのうじ

 この寺の境内にある古井戸。そこが今宵の篁の目的地である。

 誰もいない境内へと歩みを進めると、篁はその古井戸を覗き込んだ。

 闇の中、古井戸の底は見えていない。

 篁は井桁いげたに足を掛けると、古井戸の中へと飛び込んでいった。

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