後
秒針の音だけがする保健室で、与えられた課題を淡々と解き続ける。保健室に立て掛けられた傘は、私のくすんだ黒い傘だけだった。
笹部さんの勉強を見る時間がなくなったことで、課題は驚くほど迅速に進んでいる。すでに三日先の分まで終わってしまったほどだ。
問題を解くのに飽きてぼーっとしていると、三時間目の授業終了の音が鳴った。笹部さんが保健室にやってくる前は、一人で勉強していて何の苦もなかったというのに、今は時間が過ぎるのがやけに遅い。どうせ今日も笹部さんが来ることはないし、もう帰ってしまおうか。課題はもう終わっているから、誰にも咎められることはないだろう。そもそも、怒ってくれるほど私のことを見てくれる人なんて、どこにも存在しない。
教科書を雑に鞄へ放り、保健室の扉を開ける。すると、扉の外側で小さな影が飛び上がった。
「わっ!」
短く悲鳴を上げたのは、笹部さんだった。ちょうど保健室に入ろうとしていたところのようで、左手でスクールバッグの紐を握り、右手は開いて扉を掴もうとしている。二週間ぶりに彼女と会えたことに、私は安堵の息を吐いた。チラチラとこちらの様子をうかがうように見ているが、怒っているわけではなさそうだ。
「笹部さん……来てくれたんだ。さ、入って」
いつものアルミ机の前に笹部さんは座る。喧嘩別れした後で気まずい様子の彼女に、私は深々と頭を下げた。
「この間は、ごめんなさい。笹部さんの夢を教えてくれたのに、私は酷いことしか言えなかった」
「いえいえ。顔をあげてください。全然怒ってないですよ。私のために言ってくれていたんだって、分かってますから」
ゆっくりと顔を上げると、笹部さんは笑っていた。他人行儀ではない、心からの笑顔だった。いつも温かく優しい、私が一番安らげる笑顔。
先日の私の暴言は、そんな思いやりのあるものではない。私にはない希望を見ている笹部さんへの嫉妬を一方的にぶつけたものだ。それなのに彼女は、自分への激励だと汲み取っていたのだった。
「私も、
姿勢を正し、真剣な瞳で私を見つめる。夢を語ったときのようなキラキラとした瞳とも違う、私をまっすぐに捉えた眼差しだった。
「あのね、あの――」
瞬間、笹部さんは自分の口元を押さえた。笹部さんの発作だ。慌ててバケツを差し出すと、彼女は袋の中に吐いていく。いつもよりも嘔吐物の量が多く、赤いものが混じっていた。
吐いたものを処理して一度落ち着くと、笹部さんは再び私に向き合った。
「中断して申し訳ございません。お話、続けさせてください」
アクシデントがあっても、話を止めるつもりはないらしい。それほどまでに大切なことを、私に伝えようとしてくれている。
これから笹部さんが伝えようとしている内容を、私はなんとなく予想していた。けれど、言い当てることはしない。これもまた、彼女が前に進むための一歩なのだ。
「私、教室で授業を受け始めました」
笹部さんの言葉に、頭の中にいる冷静な自分が「やっぱり」とつぶやく。
今日、保健室に来た笹部さんは片手がスクールバッグが塞がり、片手は扉を開けようとしていた。雨の日だというのに、いつもの赤い傘を持っていなかったのだ。傘立ては各教室にあるのだから、きっと笹部さんは保健室ではなく自分のクラスに傘を置いたのだろう。
それから、不審だったのは彼女の嘔吐物だ。いつもより多く、赤いものが混ざった嘔吐物。これは笹部さんが直近で何か食べたことを物語っている。普段、朝食も昼食も取らない笹部さんが何かを口にするとしたら、それは調理実習だろう。自分から物を食べなくても、人から勧められたなら断ることは難しい。笹部さんは一年前の私と同じようにクレープを作り、一年前の私とは違って友人とクレープを交換したのだ。赤いものは、トッピングとして使用された苺だろう。
「これ、鎌田さんに食べて欲しくて作りました。先生に隠れながら調理実習用とは別に作ったものだから、ちょっと不格好かもですけど。受け取ってもらませんか?」
スクールバッグから出てきたのは、紙皿にラップで包まれたクレープだった。いかにも素人が作ったような、くたびれていて盛りつけの見栄えも悪い。けれど、どんな食べ物よりも、美しく見えた。
「誰かを助ける仕事をしたい。そう考えたときに、一番に寄り添いたいのは鎌田さんでした。鎌田さんはすぐに嘔吐してしまう私に嫌な顔ひとつせず、勉強を教えてくれました。きちんと話したことはありませんでしたが、鎌田さんもきっと私と同じで何かを抱えているのだと思います。もしもそれを払拭したい気持ちがあるなら、私と一緒に一歩を進みませんか」
笹部さんにうながされ、クレープを食べる。口にひろがる甘みと一緒に、ほのかなしょっぱさを感じる。そこで初めて、私が涙を流していることに気がついた。
私はどこか、彼女のことを下に見ていたのかもしれない。この狭い保健室では、私は勉強のできる優等生だった。笹部さんに勉強を教えることで、私は優越感に浸って満足していた。
笹部さんは違う。たとえ勉強ができない劣等生でも、教室に行くことを選んだ。私の教室で無視される程度の痛みよりも、いつも嘔吐してしまう笹部さんの方が何倍も苦しいはずだ。それでも自分の夢のために、重たい一歩を踏み出したのだ。私もその一歩を、歩めるのだろうか。
スピーカーから間延びしたチャイムの音が鳴る。次の授業が始まる知らせだ。
「教室、戻らないと怒られるよ」
涙を流す私のことが心配なのか、笹部さんは「でも」と尻込みする。笹部さんの両手を優しく包むと、彼女の温かい熱が私に伝わった。今度は、私が夢を語る番だ。それは笹部さんと比べたら、あまりにちっぽけな夢だった。
「今度は私が調理実習でお菓子を作るから。そしたら、食べてもらえるかな?」
周りの目に怯え、失言ばかりして、感情の制御も効かない――それが私。けれど私も、一歩を踏み出したかった。いつの日か、堂々と笹部さんの隣を歩けるように。
瞳に涙を浮かべながら、笹部さんは優しく笑った。
「はい、待ってます」
名残惜しそうな表情で、笹部さんは保健室を出て行く。彼女のいるべき場所に戻る。彼女の大きな背中を、私は見守った。
一人きりになると、私はアルミ机を畳み、ベッドを囲むカーテンを開けた。
窓の外を見ると、朝から降っていた雨はいつの間にか止んでいる。差し込む太陽の眩しい光が、私を照らしていた。
保健室の優等生と劣等生 天海エイヒレ @_rayfin
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