怪奇異話 『西瓜男』
ん口 アート
怪奇異話 【西瓜男】
玄関の奥にある居間には、この家の主の女主人が、ちゃぶ台の前に尻をぺったりとつけて座っている。
その額やこめかみから、汗が次から次へ噴いて湧く。空気中の埃のすべてが、肌にへばりつくような湿気だった。
「あのう」
人の気配に我関せず、また季節に関係なく熱い茶を啜っている女主人に、西瓜男はおずおずと声を掛けた。
「なんや」
女主人は見向きもせず返す。
「ここに来れば、その。迷いを晴らしてくれると聞きました」
「はあ?」
ようやく湯呑を置いて、女主人は初めてまともに西瓜男に目を遣った。顔は色白。唇はふっくらと膨らみ、頬と顎の丸さが幼さを醸し出す。
「誰や、そんなデマぶちあげたんは」
「ぶ、ぶちあげ……」
女主人の片眉が上がると、西瓜男の両眉は八の字に下がる。美しき対比である。
「そりゃあ、やっぱり俺ですよ」
と、西瓜男の背後に、二人目の男が現れた。西瓜男より頭二つ分は高く、肩幅も二倍はありそうだった。この大男の登場に、西瓜男は待ちわびたような顔をしたが、反して女主人は口を思い切りひしゃげる。
「お前は出禁や」
「お前呼ばわりとは、随分と品が下がりましたねえ。猫女郎様」
ギロリ、と本当に音が鳴りそうな強さで、女主人は大男を睨みつけた。だが、すぐに赤い唇を美しくしならせて、
「これは失礼しましたなあ。すっかり老けこまれたんで、どなたか分かりませんでしたわ。あんなちいこいお子さんでしたんになあ」
「いやいや、俺はガキの頃から大作りな方でしたよ」
受ける大男の表情は、晴れ渡った空のように爽やかだ。
「あらあ、せやけど随分と痩せはってたやろ? もうお体はええんですか?」
「ええ、お陰様で。お宅と違って毛玉を吐き出すこともありませんし」
女主人の眼光から散る火花で、危うく西瓜男は火傷しそうになる。
「あ、あのう」
西瓜男は、かそけき声で自分の要望を伝えようとする。
「ああ、ああ。そうです、そうですとも」
大男はようやく西瓜男の存在を思い出したようで、その薄い肩を掴むと、ずいと前へ押し出した。
「すっかり脱線してしまいました。今日はこの子をね、ちょいと頼もうと思って」
「はん! なんであたしが」
「なんでって、それが契約だからですよ」
その台詞は、女主人の熱を持った瞳を、一瞬で冷やした。それはがらんどうの洞穴のように見える。
「いつまでも埋まらない傷口は知ったことじゃないですけどね。約束は守ってもらわなきゃ困りますよ」
辛辣な言葉と裏腹に、大男は優しそうに微笑んでいる。まるで君を大好きだと伝える時のように。
はあ。
短いため息が響く。
「あんた」
低く気怠い声が、網のように西瓜男を捉えた。西瓜男の肩がびくりと跳ねる。
「相談って、その荷物のことかいな?」
女主人の伏せられた瞼から、長いまつ毛がすっと伸びている。その下を、緑掛かった瞳がすいすいと泳ぐように動き、西瓜男の腹の辺りで止まった。
西瓜男は、その名の由縁通り、丸く膨らんだ腹を持っていた。
*
「タダ飯は喰わさんで」
仁王立ちでいい放った女主人の主張と要求は分かりやすかったので、西瓜男は身重な体で暑空に放り出せれないよう、懸命に働いた。
幸い、西瓜男は幼年より下働きをしていたので、料理や洗濯はもちろんのこと、裁縫や日曜大工も得意としていた。どれも、彼のような貧しい家の出が生きていく為には必要なことだった。
「ふん」
西瓜男が軒先に立った第一夜に、早速腕をふるわされた料理を口にした女主人は、面白くもなさそうに一言そういった。
口をへの字にして、汚いものを触るように箸先でちょいちょいと確認してから口へ運ぶ。
それはどう見ても好感触とはいえない口調と表情で、西瓜男はこのまま路頭に迷う定めかと覚悟したが、翌日の朝食づくりも命じられたことでホッと胸を撫で下ろした。寝床は二階をあてがわれた。薄暗く急角度の、軋む階段を上がり切った真正面にその扉はある。建付けの悪い襖は、開けるのも一苦労だった。
「近付いたら、冥土に送る」
と、真顔で忠告もとい脅迫した女主人の部屋は、二階の長細い廊下の突き当りにあった。「入ったら」や「覗いたら」ではなく「近付いたら」という判定の厳しさが、女主人の激しい性格を如実に表していた。この分では風呂も入らせてもらえないのではと覚悟したが、女主人には行きつけの湯屋があるらしく、家の風呂は勝手に使えとのお達しだった。のだが……。
「はあ、疲れた……」
これも勝手に使えと言われた布団を、押し入れから引き落とようにして床へ敷く。膨らんだ腹に手を添え、しゃがみ、膝をつき、尻をつけてから、慎重に横向きに寝転ぶ。触れた頬に、じっとりとした湿り気が襲う。鼻孔に届くのはかびの臭い。どうやら女主人は、我が家を清潔に保つことにはまるで興味がないようだった。
入浴の許可が下りたので、夕飯の片付けの後、西瓜男は教えられた風呂場に向かった。戸枠の歪んだ、しみの浮いた木の引き戸を開けると、そこには腐海が広がっていた。湿気が狭い洗面所に充満し、木板の床は一部が腐って抜けている。
それは百歩譲って許すにしても、その穴から筋骨逞しい樹木が生え上がっているのはどういうことなのか。辛うじて天井は突き破らず、その代わりに首を曲げるように横方向へ伸び広がり、全体に大小の枝を張り巡らせている。
ぬめる木板を注意深く、そして不快感に耐えて歩き、風呂場への入口であろうガラス戸へ辿り着く。こちらは押すと中央で折れ曲がるタイプで、木の枝が掛からない一部をそっと押すと、まるで壁であるかのように動かない。致し方なく、慎重に一本足で立ち、片足で少しずつ体重を掛けていった。
ベキベキベキ、と、強力な糊が剝がれるような大きな音がしたかと思うと、急に足裏の手応えがなくなり、体がどうと前へ倒れた。片腕で腹をかばい、残った腕を振り回して何でもいいからと掴まった。幸い、体は倒れきる前に停止した。
ふうと息を吐き、腹を見る。なんの変化もない。痛みもない。打ち付けもしなかった。どの医者も『ここには何もない』と言った。過剰な脂肪はない。ましてや生命など、鼓動など、何も。ただ風船のように、球状の空洞が広がっているのだと。
「なんじゃ、これは」
腹が無事だったことに安堵した途端、周囲の光景が一斉に目に飛び込んできた。流れ込む情報量。黒いヘドロが床といわず壁といわず天井といわずへばり付いている様は、まさに地獄だった。脱衣所の点けっぱなしらしい照明が、木々の隙間から照らす程度の灯りでも、辺りの惨状は見て取れた。そういえばさっき、自分は何に掴まったのだろうと、とてつもない嫌な予感と共に自分の手を見た。手のひらを、モザイク状の何かがどろりと滑り落ちていった。悲鳴が出た。絶叫だった。
「やかましい!」
と、その時、きつい声が飛んできた。呆然自失のまま糸に引っ張られるように振り返れば、そこには女主人である。
「て、臭! なんや、このどちゃくそ汚くて臭い空間は!」
「なんや、って……」
紛うことなき、あなたのお宅ですが? と返したかったが、女主人はそれを許さず、
「あんた、責任取って、掃除しとき」
「は」
「まさか風呂入らんつもりか? 不潔な奴は、この家には置かんで」
「ふ」
「あたしは今から行きつけの湯屋に行くよってに、帰ってくるまでに終わらしときや」
「そ」
「戸棚の下に洗剤やらスポンジやら入ってるわ。じゃ」
手刀のように手を挙げて、女主人はひらりと身を翻し、消えた。すぐに追いかけ、いえなかった台詞、「は? 責任?」「不潔ってそれはどっちが」「そんな殺生な」を捲し立てたかったが、腹のことを考えると走る訳にもいかず、そもそも己の足裏が今どんな事態に陥っているのかを思い出す。
この悲惨な足裏で女主人の家を歩き回れば、どんな仕打ちが待っていようか?
「……」
覚悟を決めなければならなかった。
どうせこのままでは眠れない。あの悪名高きGから始まる生き物を一目見たら、抹殺するまでは決して寝られないのと同じ心境だった。それに掃除が終わってないとなれば、駆逐されるのは我が身だった。
そろそろと、枝の奥に鎮座する洗面台に手を伸ばした。なんとか蛇口に触れることに成功し、思い切り捻る。ままよ。どっ、と詰まりが取れる音がし、水が迸った。最初は赤茶色かったそれは、次第に透き通った真水に蘇った。2つあるうち、赤い輪の付いた蛇口を捻ると、お湯も出た。
そこからは怒涛の、そして地獄の突貫掃除、もはや工事だった。
家族、特に扶養者としての両親というシステムがまったく機能していなかった家に育った西瓜男は、幼少の頃から殆どの時間を他人の家で丁稚奉公として過ごした。物よりも価値がない扱いも受けたことも、一度や二度ではない。屈辱にも、理不尽にも、不潔にも、少なくとも衣食住に困ったことのない者たちよりは免疫があった。
「丁稚根性見せてやる」
意気込んで、元より短い袖を、更にまくり上げる。枝に覆われた洗面台の下の戸棚を何とか開けてみる。確かに洗剤もスポンジもあったが、こんな軟弱な連中では、この腐海には立ち向かえようはずもない。生え放題、より取り見取りの枝を、少しの罪悪感を抱きながらボキボキ折り取り、その剣で汚れを文字通りこそげ取る。
何を削っているのか、もはやそれは誰にも分からなかった。これまで数々の家を掃除してきたが、これほどまでに未開の地と化した現場は初めてだった。それからは一心不乱だ。夕方六時という早めの夕飯から、果たして五時間後。無心でやっていたので、時間経過に驚いた。あれほどのヘドロに塗れていた洗面台と風呂場は、まだまだ掃除の余地はあるものの、表面的な汚れの殆どは落とされ生まれ変わっていた。
とはいえ、目に見えない細菌がわらわらといるであろう空間で、さすがに湯船には浸かれなかったが、温かいお湯で体を流すことはできた。シャンプー、リンス、石鹸の類も見当たらなかったが、とりあえずは良しとした。
数時間の激闘と細やかな勝利の後、この部屋に足を踏み入れようやく身を横たえられたのは、もう二十四時近くだった。先ほどまでの憑りつかれたような闘争を、夢の中のように思い返す。
西瓜男は今でも豊かではない。一文無しだった。医者に診てもらうのも、簡単な診察に乏しい全財産をつぎ込む形だった。明日、強力な洗剤やら石鹸やらを買う費用を請わねばならないだろう。そう思うと、またため息が出る。
と、無意識に撫でている腹の下で、何かが動いた気がした。反射的に腹を見る。もちろん外からでは、皮膚の向こう側がどうなっているかなど分かるはずもない。それでも西瓜男は凝視を止められない。
医師たちが何もないのだといったその空間に、けれど確実に何かが居る。西瓜男にとっては、それが揺るぎない事実だった。人はそれを妄想だ固執だというのかも知れない。けれど否定のしようがなく、それはこの腹の下で動いている。濃厚な気配が、学術的な、理性的なすべてを遠ざけた。
瞼が勝手に下がり夢に誘われ始めた頃、一階の方で戸を開く音が静寂に響く。意識の遠いところでトタトタと小さな子どもが歩くような足音を聞きながら、西瓜男は眠りに落ちていった。
*
「ほら、とっとと起きんか!」
カンカンカンカンカン! 耳をつんざくけたたましい音。西瓜男は、もちろん目覚めたくなどなかった。だが静寂が戻ることはなく、望むと望まないに関わらず、意識が鮮明になっていく。無理にこじ開けた細い視界に、見たくもないものが映る。仁王立ちで、片手に持ったお玉でもう片方の鉄鍋を打ち鳴らす女主人だ。
「はよ朝飯作らんな、わき腹の皮膚とあばら骨がくっつくでーー!」
分かるようで分からないワード選出。
「おはようございます」
なんとか体を起こし、すかさず閉じようとする瞼を擦りながら挨拶する。最近は腹のこともあって体を動かす機会が以前より減っていた。全身筋肉痛だ。
「おはようさん。さっさと朝飯作ったらんかい!」
最後に吐き捨て、女主人は踵を返して出ていった。自分の部屋に近付けば殺すといっていたのに、たとえ居候の貸し部屋とはいえ無遠慮にぶち入ってくるとは恐れ入った。
「誰のおかげで寝不足だと……」
昨夜の大激闘を愚痴ろうとすると、咎めるように腹の内側からぼおんと蹴り上げられた。
「はいはい。文句はもうやめます」
観念して、伸びをしながら大欠伸を一つ。腹に手を当てながら立ち上がると、足に何かが当たった。見ると紙袋が置いてある。かがむ姿勢は腹が圧迫されて苦しいので、なるべく頭を下げて顔を近づけると、袋の口から覗いていたのはシャンプーとリンス、ボディーソープの容器だった。思わず、女主人が去った戸口に目を遣る。笑いが漏れる。素直じゃない。
「そんで、あんたはここに何しに来たんや?」
今朝から女主人が揃えたらしい豊富な食材を、簡単に調理して朝食を拵えた。それを物凄い速さで平らげた女主人は、皿を下げようとする西瓜男に、前触れも気遣いも一切なく訊ねた。
「え」
西瓜男の動きがぴたりと止まる。
「え、て。あんた。わざわざ来たからには目的がある訳やろ。あたしに何を求めてんねん」
「それは。それはだから、ここへ来れば、迷いを断ってくれるって。そう聞いて」
昨日、ここを訪れたときに最初に述べたことを、西瓜男は繰り返した。
「問題いうんは、そのでかい腹のことか?」
女主人は、顎でくいと、出っ張った腹を指す。西瓜男はその鋭い視線から腹をかばうように、両手をかぶせた。
「ふん、取って喰ったりせえへんわ」
鼻を鳴らして、不機嫌そうにそっぽ向く女主人。尖らせた唇が、彼女を予想外に幼く見せた。そのことが、身を引いてばかりの西瓜男に勇気を与える。
「あの、この腹を、どうにかすることって出来るのでしょうか」
西瓜男の決死の問いに、女主人の大きな瞳が再び腹に戻った。途端、また不安に陥る西瓜男。
「どうにか、ゆうんは、つまりどうすることや?」
「そりゃあ、」
当たり前のことだと続けようとして、言葉を失う。どうにか。自分はこの腹がどうなれば、満足で、安心できるのだろう。
「一般的にはな、子どもが出来た時、その宿った先が出来ることは二つや」
女主人は細く白い指を二本持ち上げる。指を飛び越えた爪は、長く鋭く光る。
「一つは簡単。そのまま産む。もう一つは、」
西瓜男にはもちろん、その先の選択肢が分かっていた。
「生まれる前に、殺す」
透き通った声が、西瓜男の首をきゅっと絞める。
「そんな。僕は」
「殺すつもりはないわけか」
「も、もちろんです。この子を、この子を消すなんて、そんな今更」
腹の中から皮膚を蹴り上げ、腹部に無視しようもない重さを与え、そして、どうしようもなく『護らなければ』という想いに駆り立てるこの存在を、今更どうしてなかったことになど出来ようか。自分のこの手で、命の芽を摘む選択ができようか。
「そんなら、産むゆうことやな?」
それなのに、女主人の問いに即答できない自分は、なんと卑怯で愚かなのだろう。
「産む……。産みたい、です。確かにそれは。けれど」
腹に添えた手が、どうしようもなく汗ばむ。指先が震える。
「けれど、それは許されることでしょうか」
「自分の腹から自分の子どもを出すのに、誰の許可もいらんやろ」
「そうではなくて。そうではなくて……」
一言一言を口に出すのが、とんでもなく恐ろしかった。一つでも間違ったことをいえば、何かが、すべてが、崩壊する気がした。
「僕が、産んでいいんでしょうか?」
「お前が男やからか?」
「そもそも、医者は誰も、赤ん坊がいるだなんていいませんでした。これは僕の妄想で、あまりに強い思い込みで腹部に異変が起きているだけなんだって」
「でも、お前は後生大事に腹を護ってる。その理由はただ一つ」
女主人の尖った爪先が、天高くを指し、
「そこに赤ん坊がおるから、やろう?」
前へ倒れて、西瓜男の腹を指す。
ゴトリ、と。重い何かが転がる音がした。それは外側ではなく、西瓜男の内側で鳴り響いたのだ。命は、存在は、どこまでも重く。
「お前はただ怖いのと違うか」
女主人の声はひどく遠いところで反響する。
「己の子は可愛い。その未来をこれでもかと想像する。二人で、あるいは誰かを加えた家族で幸せに暮らす未来や」
未来。二人。誰か。
「でもふと、幸せな想像に影が差す。それは恐れや。えもいわれん不安や。赤ん坊はとても可愛くて、けれどとても脆い。赤ん坊が熱を出した時。苦しむ姿を、己は見とうない。甘いふわふわしたものだけ、感じてたい。でもそれが無理やと分かってて……」
「違います」
朗々と話す女主人を、西瓜男は遮った。
「そんなんじゃ、ありません」
確かに、怖い。愛したものが壊れるかもしれない、それがいつ来るか分からない。その、誰もが背負う恐怖。沼に足を取られそうになる。けれど。けれど。
「僕には、罪があります」
お腹の子の、耳を塞ぎたい。
「誰にも、誰にも決して、いわなかった罪です」
いえなかった罪。いえない。どうしても口に、できない。恐ろしい。心臓が震えるほどに。
「分かった」
まるで何事も起きなかったかのように、女主人は立ち上がった。あんなにたらふく食べたというのに、その腹はすとんとまっ平のままだ。
「それがお前の目的や」
そうやろ、と問いかけるように、西瓜男に大きな瞳を向ける。
「その罪を白状する為に、お前はここへ来たんや」
*
「やあ、久しぶりだね」
西瓜男が物干しにタオルを掛けると、そのタオルの向こうから大男の顔が現れた。
「どぉわ!!」
あまりにも唐突だったので、西瓜男は叫び声をあげて尻もちをついた。足元に置いていた洗濯かごが諸共倒れる。緑に囲まれた庭に、色とりどりの洗濯物がペンキのしぶきのように散らばる。
「ああ、悪いことをしたね」
大男は少しも思ってなさそうに、棒読みでいってから、それでも腰をかがめてきっちり洗濯物を拾い始めた。
「あ、ありがとう、ございます」
西瓜男は小声で礼をいう。大男はいつもにこにこしているのに、不思議な威圧感があった。何者にも有無をいわせないような。
「もうここへ来てから一週間くらい経ったよね」
「ああ……。そうですね」
あっという間の一週間だった。一度、お腹の赤子のこと、そしてここへ来た目的のことを話して以来、女主人は何もいわず、西瓜男は住み慣れた家のように平凡な家事をして過ごしていた。
「問題は解決したの?」
「え」
「あの人、ああ見えて結構やり手だよ。俺はなんか嫌われちゃってるけど」
大男の口調は相変わらず淡々としているのに、その横顔が存外に寂しそうで西瓜男はハッとした。どこか人間離れしたこの男が、急に身近な、平凡な男に見えた。
「ぼ、僕には。対等に、平等に喧嘩しているように見えましたけど」
「要するに、俺も女主人を嫌ってるんじゃないかってこと?」
「いや、それはその」
「ははは」
この上なく乾いた笑い声。
「それは誤解だよ。俺はあの人を気に入ってる。でも、」
「でも?」
「俺とあの人は、対等じゃない」
大男の言葉に耳を傾けるうち、洗濯物はきれいに元の場所へ帰っていた。
「あの人は、俺には逆らえない。契約が続く間は」
「え……」
さあーっと。すべての温もりが、風にさらわれたようだった。こんなにも日差しは痛いのに、空は黄金色なのに、この世には残酷さしか残っていないかのようだった。
「いやあ、懐かしかった。昔はこうしてよく拾ったもんだよ」
大男は一仕事終えたように腰に手を当て、のけぞった。
「洗濯物を?」
真空に空気の穴を開けるように、西瓜男は訊ねた。
「いや、小石」
「は」
「あれ、積むの難しいんだよ。知ってる?」
「いや、積んだことないです」
「それはそれは」
大男は頬を思い切り持ち上げた。それは本当の笑顔に見えた。
「親孝行だね」
けれど今までで一番、悲しい表情に見えた。涙を流すよりずっと、悲しさが見て取れる時があるのは、どうしてなのだろう。顔のパーツのすべてが喜びを暗示する形をしていても、たとえ唇と涙袋が三日月形にしなり、頬がふっくらと膨らんでいようとも、それでも、そこから尚も漏れ出してしまうものがあるのは。
「ありがとう、ございます」
「いいって、もう。元はといえば、俺が倒させたんだし」
「じゃなくて」
「うん?」
「僕をここへ連れて来てくれて、ありがとうございます」
ああ、と、大男は、すっかり忘れていたことを思い出すようにいった。
「別にそんなの。俺はほんとに連れて来ただけだし。そんでもって、あの人に押し付けただけだし」
「でも、あの時、何処へ行けばいいのかぜんっぜん分からなくて。途方に暮れてて」
あの日、女主人の家を訪れる少し前、西瓜男は大男に出会った。西瓜男は、なぜそこにいるのかが、分からなかった。もう随分と長い間その場にいた気もするし、ついさっき、ワープでもするかのように降り立った気もした。
とにかく西瓜男は、そこに蹲っていた。何かから身を護るかのように。地面にしっかりと両の足裏がついているのに、まるで宙に浮いているかのような浮遊感がある。何かに掴まらなければいけない、何かにしがみついて、引き剝がされないようにしなければ。
その時、ひとつの顔がちらついた。自分の顔よりも見ている回数が多いのではと思うような、あまりにも馴染み深い顔だった。刃先で深く抉られたように胸が痛む。その顔が、口端を持ち上げたとき、その痛みはいっそう増した。痛くて痛くて、こめかみに汗が伝ってくる。赤子が励ます為か、あるいは窘める為にか、内側からぼおんと腹を蹴り上げた。
「大丈夫ですか?」
雨雲が被さるように、ふと、頭上が暗くなった。
「ご気分が悪いですか?」
気遣う内容に反して、やけに抑揚のない、低い声だった。顔を上げよう、と思った。大丈夫です、と返そうと。それなのに、どうにもこうにも声が出ない。喉が暇を貰ったように、
「ふうむ」
はあ、はあ、と途切れ途切れの西瓜男の息に、呑気そうな声が挟まる。
「立てるように、してあげましょうか」
はあ。はあ。苦しい。それは胸なのか、心なのか。
「少し荒療治ですけど」
はあ。はあ。
「あと、前払いです」
かあかあと、鴉が鳴く。何かの報せのように。それは忠告のように。
西瓜男の手首を、その声が掴む。西瓜男は抗うことなく、引かれるままに任せた。それはあまりに自然で、どこにも力みがなく、筋骨は柔らかで、あるべきようにして西瓜男は立ち上がっていた。
「体が軽いでしょう?」
目の前に、分厚い胸板があった。
「おっと、こっちです、こっち」
導かれるまま、西瓜男は顔を上げていく。分厚い胸板二回目、広すぎる肩幅、丸太のような首、そしてやけにシュッとした顔がそこにあった。首の幅と顔の幅がほぼ同じである。首が太すぎるのか、顔が小さすぎるのか。文字通りの大男だ。
「どうですか、体調は」
「あ、は、はい。良くなりました」
先まで沈黙を貫いていた喉が急に仕事をし出したので、西瓜男は喋りながら驚いていた。
「それは良かった」
大男はにっこり微笑んだ。
「それじゃあ、君には俺についてきてもらいます」
「え」
「いったでしょ、前払いだって」
「いっ……てたような?」
「いってたんです」
大男は笑みを貼り付けたままの顔で、西瓜男の腕を取った。
「さあ、行きましょう」
乱暴な所作ではなかったが、有無をいわせない強さだった。西瓜男は鼓動を大きくさせながらも、大男へついていかざるを得ない。ここで反抗して、暴力でも振るわれたら。身重の自分は絶対に敵わないだろう。そして、自分が負けるということは、お腹の子が危害を加えられることとイコールだ。赤ん坊は常に人質だった。
「あの」
「何処へ行くか、かな?」
「はあ」
「君の迷いをどうにかしてくれるところ、だよ」
「迷い」
「君は知らないだろうけど」
大男は西瓜男の腕を離し、今度は背中に手を添えた。大きな手のひらの熱が、肌に直接触れるようだった。
「この街へやって来るのは、みんな悩んだり迷ったりした人たちなんだ」
「迷いって……道に?」
大男は小さく笑う。
「まあ、ある意味そうだね? 人生もまた道だ。生と死も」
「はあ」
「あんまり響いてないなあ」
西瓜男のきょとんとした顔に、大男はまた笑った。よく笑う男だと思った。ズキリと、頭が痛む。先刻の顔が、再び浮かんで、風船が膨らんでいくように、体と心を支配してしまいそうだった。
「落ち着いて」
肩甲骨の間で、大きな手のひらが上下する。
「悩みと痛みは確かにそこにあるけれど、それは君自身じゃない。君とは別個の、君の手の裡にあるものだ」
西瓜男の脳裏に、自分自身が大男の手のひらの上に乗っている姿が滲んだ。
「想像してごらん。君の手のひらの上に、トゲトゲとした、そうだな、栗が載っているとしよう」
大男の手の上にいるちっぽけな西瓜男の、更にちっぽけな手のひら。その上に、タワシのような棘を持ったまん丸い栗が載っている。
「どうだい、手のひらの感覚は」
西瓜男の、幼少期から働き続けた手のひらは、分厚く硬い。ざらついていて、硬い。その皮膚を、栗の棘がごく浅く刺す。
「少し痛い」
「そうだ、痛いだろう。何故だか分かるかい」
「棘が尖っているから」
大男が、チッチッチ、と舌を叩く。
「いいや、違う。痛いのは、君が栗を持っているからだ。いらないなら、さっさと手放せばいい」
「手放す」
「ぶん投げる必要なんかない。ただ、こうやって手を傾けて」
コロコロと、皮膚を刺しながら、栗は転がっていく。
「少し痛いね。手放す時も、やっぱり少し痛い。でも、持ち続けているのと違って、いずれ終わる痛みだ」
遠ざかっていた自分という感覚が、徐々に戻ってくる。西瓜男は大男の手のひらの上ではなく、地面の上に立っている。
「まだ足がふらつくかな。さっきのは応急処置だったから」
大男の言っていることが、少しも理解できない。
「でも大丈夫。ここで、君の悩みも迷いも、解決するから」
目の前に、古い木造家屋があった。そうして、女主人と出会い、こき使われる毎日が訪れた。
「この間、女主人さんにいわれました」
「ほお、なにを」
「お前は何をしにここへ来たんだ、って」
「ふうん」
大男は面白そうににやにやした。
「それで君は、なんて答えたの?」
「僕は……」
カゴに戻った洗濯たちを、一枚一枚、また干し始める。
「あなたに会った時、僕は、ある人のことを考えていました」
大男のように、いつも笑っている、一人の男の顔。
「それは一体?」
「僕の……僕の、大事な人でした。親友で、小さい時からずっと一緒に過ごしていたやつです。僕の家は貧しくて、物心ついた頃にはもう、知らない家で雑用をさせられていて。そいつは、そんな奉公先にいた子どもの一人でした」
多くを持っているのに、その全部を捨てたがっているような人間だった。
「僕の何を気に入ったのか、そいつは名指しで何度も僕を家に呼んでは、食べ物でも服でもおもちゃでも、なんでも与えてくれました。普段食べられない甘いお菓子が、特に嬉しかった」
親友との記憶は、喜びと安らぎに満ちていた。奉公先でどんな理不尽な仕打ちを受けても、耐えられたのは偏に、親友との時間のお陰だった。冷たい時間が、温かな時間をより特別なものにした。
「仲、良かったんだ」
「仲は……良かった。良かったですよ」
タオルの一枚一枚が、はためいて陽を透かして、スクリーンのように映像を映す。記憶と、感情を。
「おい」
不意に、後ろからつっけんどんな声が飛んできた。
「これはこれは、お邪魔してます。猫女郎様」
大男が恭しく頭を下げた。見れば縁側に仁王立ちする女主人の姿。
「勝手に敷地に入って来んなや」
女主人のこめかみと眉間に、血管が浮き出る。
「そんなに怒ってばかりだと、血管切れて死にますよ。もうお年なんだから」
「黙れ。お前も似たようなもんやろが」
「ま、まあまあ、二人とも……って、ぐ」
慣れない仲裁に入ろうとして、西瓜男は両者からの視線に刺される。女主人からは黙ってろという視線。大男からは、楽しみを邪魔するなという威圧ある笑み。
「じゃ、じゃあ。洗濯物も終わったし、僕は失礼します。買い物に行かなきゃいけないし」
空になったカゴを持って、西瓜男は慌てて勝手口へ回る。
古びた台所に無事辿り着き、ガラスのコップに勢いよく水を注ぐ。飛沫が飛ぶ。温い水は、居心地の悪さを取り除くには爽快感が足りない。
「大体、若い同士で年齢のマウント取り合っても……」
先ほどお年だどうだといい合っていた二人に、違和感を覚えつつぼやく。そういえば、最初に大男に連れられてやって来た時にも、老けただどうだといっていた。
女主人も大男も、まだまだ年齢を気にするような見た目ではない。正確な年齢は知らないが、いっていても三十半ば頃ではなかろうか。西瓜男は、二人とも自分と同じような年齢だと思っている。
「はあ。買い物、行くか」
自分を励ますようにいって、女主人から支給された食費を部屋に取りに戻る。急な階段は、万一にも転ばないように、前屈みになって手を付きながら上る。
居候がいえたことではないが、巣窟と呼んでいい風呂を掃除を含む家事全般を惜しげなく負わせ、この急な階段についても触れないのは、仮にも妊娠中の人間への優しさに欠けているのではと思ってしまう西瓜男である。
「おや、お前、どこから入ったの」
部屋の引き戸を開くと、窓辺の文机の上に一匹の猫が乗っていた。見事な漆黒の毛並みで、日差しを受けてほっそりとした体全体が発光しているように見える。その毛に埋もれる、花柄の首輪。鈴が付いている。
「日向ぼっこには暑いだろ。こっちへおいで」
近付いて毛先に触れようとすると、黒猫はニャーと短く鳴いて、窓から飛び降りた。鈴の音が鳴る。
「あっ」
いくら猫とはいえ、ここは二階だぞと慌てて窓枠に飛びつく。見下ろすと、もう猫の影も姿もない。体が転がっていないということは、無事だったのだろうと安堵する。
急な階段を尻でおり、冷蔵庫と壁の隙間に入れているショッピングバッグ代わりのポリ袋を取る。もうあの二人は解散しただろうかと踵を返したとき、
「わあっ」
女主人がいつもの仁王立ちでこちらを睨んでいた。
「やめてください。心臓に悪いんで」
「自分の家で好きなようにして何が悪い」
「それはそうなんですけど。それはもうその通りなんですけど」
「お前、買い物は行ったんか?」
ギクリと肩が強張る。
「い、いえ。イマカラデスガ」
「どこの方言や」
「あ!」
誤魔化しの為に、必死で大声を張る。
「猫、見ませんでしたか?」
「猫?」
「さっき、二階の僕の部屋に入り込んでたんです。近付いたら窓から逃げちゃって。ちょうどお二人が話してたらへんに落ちたはずなんですけど」
「見とらん、そんなもん。それに、猫はここでは」
「おかしいなあ。真っ黒な綺麗な猫で、それから首輪。花柄の首輪をつけてたんです」
女主人の手が、信じられない速さで伸びて、西瓜男の襟ぐりを掴んだ。
「ぐえ」
「間違いなく、黒猫やったか」
「ぐぐ」
首が締まって答えられない。
「首輪。首輪をしてたんか? 花柄の?」
「ぐぐぐ」
限界だ。女主人の手首をバシバシと叩く。
「あ」
珍しくバツの悪そうな顔をして、女主人が手を離した。
「げほ、げえほ」
女主人からの心身両面の圧力が無くなり、西瓜男はどさりと床に突っ伏し咳き込む。そんな時も、腹をかばうのは忘れなかった。
「お前」
真上から、女主人の固い声が降ってくる。
「あいつに、魂を喰われたな」
「あい……つ……?」
魂を、喰われた?
『前払いですよ』
西瓜男の頭の中で、何故か、大男の声が響いた。
「あの男は閻魔。人の魂を喰う
*
この場所は、いってみれば巨大なボウルだった。
堅牢な西洋の城があるかと思えば、そのお膝元に四角いスーパーマーケットがある。瓦屋根の屋敷が続いたと思えば、どこまでも伸びる高速道路の上を数千の自動車が駆け巡る。
目についたものを、なんの精査もせずにただ放り込んでいったボウル。それがこの場所だった。
西瓜男は、近場のスーパーや商店の情報を少しずつ集めていた。どこが品ぞろえ豊富で質が良いのか。安さは大事だが、安かろう悪かろうではいけない。目先の最安値につられない心の強さが重要なのだ。子どもの頃から、丁稚奉公で人様の台所を預かってきた西瓜男には、自然と買い物への情熱が養われていた。
「ふふん、今日はいい買い物ができた」
両手に丸々と太った袋を持ち、西瓜男は上機嫌だった。人の行き交う雑踏の中、西瓜男の丸い腹を物珍しそうに、あるいは気味悪そうに見る者もいれば、気安く産まれるのはいつかと尋ねる者もいる。女主人や大男のように、重ねて会話する相手はいないが、それなりに社交もこなしていた。
「おっとっと」
人を避けようとして、ふらついた。女主人に支給された、踵の飛び出ている草鞋ではうまく踏ん張れない。袋いっぱいの戦利品より、優先すべきは腹の子だった。周りの景色がスローモーションのようにゆっくりと動く。自分の体が、徐々に前へ傾いていくのも明確に理解できる。だがゆっくりな時間の中では、肉体は自由ではない。ただ倒れていく自分を眺め、その後に必ず訪れるであろう痛みの衝撃を予感する。
ふと、視界の端に影が現れた。ぼんやりとした、頼りない影だった。その影は、すーっと滑るように西瓜男に近寄ってきた。スローモーションの世界で、影だけが自由自在に動いている。
懐かしい香りがした。それは例えるなら、雨上がりの、晴れた空のような香りだった。どこまでも澄み渡り、湿気た空気を一瞬で乾かし、決して灰色の雲を恐れない香り。
「 」
西瓜男の口が、勝手に影の名を呼んだ。途端、影は色濃くなり、輪郭ははっきりと形をとり、最後に、見慣れた笑顔がぱちりと嵌まった。
「久しぶりだな」
その一声で、彼と共有した時間のすべてが巻き戻された。紅葉のような手だった頃からずっと一緒だった。共に過ごした時間は、誰よりも多かった。このまま、ずっと同じ時を生きるのだと思っていた。なのに。それなのに。
すべての時を取り戻すように、影はぴたりと西瓜男にくっ付き離れなかった。
「ああ。この子が、俺たちの子だな」
影の、裕福な出に似つかわしくないゴツゴツとした手が、西瓜男の腹を撫でた。ドクリと、西瓜男の臓腑が波打った。
「そうだよな」
西瓜男の声は震える。
「そうなんだよな、きっと」
涙が出た。女主人に問い起こされた時、もう答えは出ていた。真っ先に、影の顔が頭に浮かんだ。なんの衒いのない笑顔が。すべてを持ち、すべてを捨てようとする笑顔が。
「どうしてだろう。なんで、僕の腹へ来たんだろう」
泣いて、鳴いて、泣き暮したかった。
「どうして。僕のところへなんか」
影を永遠に失ったはずのあの日が、陽炎のように揺れている。炎は西瓜男の身を
「僕は、お前を殺したのに」
なのにどうして、お前は笑うんだろう。
今もなお。
*
「まあた、なんか拾って来たんか」
女主人は口をひん曲げ、西瓜男の後ろにいる影に疑わし気な目を向けた。影は西瓜男から離れなかったので、そのまま帰路につく他なかった。
「いや、これは……」
西瓜男は咄嗟に言い訳を発っそうとしたが、
「お邪魔します」
影の、生まれつき裕福な者特有の、すべての人が当然自分に慈悲を尽くしてくれるという態度に掻き消された。自らが拒絶されたり、取るに足りない存在として扱われることなど考えたこともなく、満たされるのが当たり前で、自分の特権を自覚している。
「はあーーーー」
女主人が重いため息を吐いた。
「お前、変な奴に
「僕の幼馴染なんですよ」
「あのあかんたれといい、こいつといい、ろくな奴連れてこんな」
あかんたれという言葉の意味はよく分からなかったが、それが大男……もとい、閻魔を指すのだということだけは理解した西瓜男。
「ええっと、とりあえず今日のところはこいつも泊めてもらって……」
「もう余ってる部屋はないからな。お前の部屋で寝かしよ」
「え」
「ほんで、はよ
女主人は二階へ消えてしまった。
「お前と一緒に追い出されると思った」
あまりにアッサリと認められたので、西瓜男は拍子抜けした。影は気にせず、小石の散りばめられた土間や大木が渡された天井を見て、ほおと息を洩らす。
「古いけど、いい家だな。実家を思い出すよ」
由緒代々続く名家の、あの妙に物々しい、周囲に溶け込む気など更々ない屋敷を、西瓜男はぼんやりと頭に浮かべる。どこまでも続きそうな廊下を、骨董の並ぶ和室を、今思えば冷や冷やするほどの無遠慮さで遊び場に変えていた二人の子ども。
「何を作るんだ?」
「え?」
「晩飯。俺も手伝うぞ」
「い、いいよ。お坊ちゃんにそんなことさせられない」
「俺が料理できるの、知ってるだろう」
「お前が炊事場に入って来るたびに、どやされたのは僕だよ」
「ああ、婆やに。あれは悪かった」
からからと笑う影に、西瓜男の頬も緩んだ。昔からよく知る、邪気のない笑顔だ。何の代償も要求しない笑いだ。何も求めないから、何も与えなかった。そして、与えられるものはすべて、なんの疑問もなく受け取った。それでいいと思っていた。それが一番の正解だと思っていた。自分には何も返せないが、相手が求めていないのだから、それでいいのだと。今になって思えば、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。
本当は、鼓膜を揺らす声に、耳たぶを伝う熱に、気が付いていたはずなのに。
「 ?」
名前を呼ばれ、はっとした。影が心配そうに、こちらを覗き込んでいる。
「どうした? 具合でも悪いか?」
「いや……」
思わず目を逸らした。自分の罪を、互いが知っている以上の罪を、影に気取られそうだったから。
*
夕飯の支度はつつがなく済んだ。記憶と違わず、影は段取りよく調理を進め、西瓜男は殆ど、今日仕入れた食材と冷蔵庫の中身でできる献立を伝えるだけで良かった。
「さっきの話やけどな」
山盛りにされた鶏肉と野菜のからあげを、女主人はものすごい勢いで平らげながら、器用に言葉を発した。
「お前これ以上、閻魔に近付くな」
「誰ですか、閻魔とは」
反応は影の方が速い。
「いいから。お前が入ってくると、またややこしいから」
「水臭い。俺はお前のこと、全部知りたい」
影のなんの照れもない、さも当然だという口調に、女主人と西瓜男はほぼ同時に深いため息を吐いた。
「シンクロとは仲がいいですね。妬けます」
「もうこいつはほっとくけど」
女主人は影の本気とも冗談ともつかないふっかけを、ひらひらと手を振って払った。
「これ以上、魂を喰われたら、もうこの街から出られんくなるぞ」
この街というのが、暗号のように西瓜男の頭に響く。最初に会った時、大男もそういった。この街。
「出られなくなったら、何か困るのですか?」
影が、茶碗に山盛りの米をよそいながら、さも不思議そうに尋ねた。女主人は陰からしゃもじをひったくり、自分の茶碗に高層ビルのように盛り付ける。
「女主人さん、もうおかずないですよ」
西瓜男が進言すると、
「あほか。米はデザートや。おかずで米の味消してどないすんねん」
と、世の常識のように断言された。
「なるほど。それは新しい考えです」
影は妙に感心して、女主人に負けず劣らずの勢いで米を口の中に掻き込んでいく。西瓜男は見ているだけで満腹になる。
「っていうか、うっ……」
唐突に、喉元へ何かが逆流してくる衝動に襲われ、慌てて口を手で覆った。
「どうした?」
茶碗と箸を放り出した影が覆いかぶさるようにして、西瓜男の前方へ折り曲がった体を支えた。
「気分、悪い」
「戻しそうか?」
西瓜男は首を振る。分からないという意味だった。
「吐くんやったら風呂で、袋ん中に吐け」
非道の頂点のようなことを低くいい捨てながらも、女主人は素早くポリ袋を持ってきて、影の胸に押し付ける。顎をしゃくって、つまりそれは『運べ』ということだ。
影は頷いて、西瓜男の膝下と背に手を入れ、体を軽々持ち上げた。影は実に丁寧にそれを実行したので、西瓜男は揺れに煽られる心配はなかった。
風呂場に運ばれ、頭を下向きにした途端、蛇口を捻ったように胃の内容物が勢いよく喉を通って出てきた。胃酸の苦いような酸っぱいような味が口内いっぱいに広がる。涙で歪んだ視界に映る、先ほど食べたばかりの未消化の夕飯のグロテスクさが、気分の悪さを増幅させた。
食べ物や、食べることを想像しただけで、胸がぐわりとひっくり返るような気持ちの悪さが迫ってくる。
「大丈夫、大丈夫」
隣にしゃがんだ影は、悪臭のことなどまるで気にするそぶりもなく、袋に胃の中身をそっくりそのままぶちまける西瓜男の背を同じテンポで擦っていた。
「大丈夫、大丈夫」
赤子を落ち着かせるような口調が、西瓜男をやけに幼い気持ちにさせた。気分の悪さや辛さとは関係なく、ただ泣きたくなった。いつまでも泣いていたかった。
「つわりやな」
あらかた吐ききってしまい、陰に身ぎれいにされ、布団の上に伸びていた西瓜男を見下ろし、女主人はあっさりといい放った。
「すいません、明日になればマシになってるはずなんで、家事も……」
「出来る訳ないだろう。お前は寝てなきゃだめだ」
影が勢い込んでいう。
「おお、ようできた旦那やな」
女主人は腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。
「せやけど、ここには働かん
「そんな、」
「せやから」
反論しようとした影に、女主人は長い爪先を突き付ける。
「こいつの代わりに、お前が働け」
今度はぴんと、二本の指を天に向ける。
「お前自身の分も含めて、二倍分」
「いいですよ」
影は間髪入れず返した。
「おい」
「いいんだよ。俺は心も体も元気だ。それに、お前の為ならなんだってやるよ。それは俺の為でもあるんだから」
はあー。女主人が馴染みになった大きなため息を吐く。
「ほんなら、明日からこき使うからな」
ひらひら手を振って、女主人は戸口から消えた。影はふふと笑う。
「なんだよ?」
「いや、あの人、いい人だと思ってな」
「そりゃあ、悪い人ではないけど……」
手放しに同意できないのが西瓜男の心の狭さである。
「いや、いい人だよ。だって明日からって。別に今から何でもいいつればいいのに。夕飯の食器も片付けてくれてたぞ」
「まあ……」
「それに、結局俺のことも住まわているし。飯まで喰わせてさ。お人よしだよ、あの人」
他でもない西瓜男とていきなり押しかけ、当然のように居座っているのである。
「僕、ちょっと反省するよ」
「なんの話だよ?」
聞きながらも、影は大体を分かっていっているようだ。面白がるように笑う。
「でも、少し具合良くなったようでよかったな」
「ああ……。本当だ」
影にいわれて、気が付く。先までは、この気持ち悪さから解放されるなら死んでいもいいとさえ思っていたのに。
「なんか……。全部が早送りなんだよな」
「うん?」
「最初は、腹がなんかむず痒くて、かぶれでもしたかなーって思ってただけで。そしたら、次の日からあれよあれよと腹が膨らんでさ。ああやって急に悪阻が来たり。普通の妊婦なら何か月ってかかるところを、僕は何日かで駆け抜けてるんだ」
想像妊娠について耳にしたことはあったが、男である自分にそんなことが起こるとは予想だにしなかった。それに、西瓜男には、これがただの精神的錯乱で片づけられる問題ではないという予感が当初からあった。
そう。あの日があったからだ。
あの日が、そのあまりにも恐ろしく醜く、重い罪を犯した日が、西瓜男の腹に命を宿すきっかけになったのだと、確信していた。
「この子がここへ来たのは、僕への罰なのかな」
「罰? どうして?」
それは気遣いや嘘ではなく、本当に意味が分からないという顔で、影は訊ねた。西瓜男はどう答えていいのか分からない。
「お前、記憶喪失にでもなったのか?」
「なんだよ急に。話が飛ぶな。俺が忘れてることなんて、ある訳がないだろう」
影は埒が明かないというように立ち上がり、押し入れからもう一枚の布団を持ってきた。
「寝られそうか?」
挙げ善据え膳のお坊ちゃま育ちの癖に、影はてきぱきと布団を敷き終えると、薄い毛布に潜り込みながらいう。
「冷房、きつくないか?」
「
「え?」
「お前に……いや、僕たちに、何が起こったか覚えてるか?」
空調のリモコンに手を掛けていた影は、一瞬なんのことかと固まり、ああ、と気の抜けた声を出した。
「あの愚直なる戦争のことか」
「それは国に起こったことで、僕たちに起こったことじゃない」
「そんなことはない。実際、俺たちは戦争に駆り出された」
「お前はいくらでも拒否できただろ。有力者の子どもだったんだから」
「それこそ、家に起こったことで俺自身に起こったわけじゃない。お前が戦争に取られる以上、俺はいかない訳にはいかなかった。まあ、特権はいくらでも使ったがな」
「その特権で僕たちは同じ隊に入って、そうしてあれが起こった」
「ああ、そのことが言いたいのか。まさかお前、そんなことで悔いたり、罪を犯したつもりでいるのか?」
気付けば、西瓜男は起き上がり、影の頬を張っていた。大きく膨らんだ腹は、少しも重さを感じさせなかった。寧ろ西瓜男に加勢するように、自分の存在を消していた。
「どうして泣くんだ?」
西瓜男の頬に、涙が伝う。
影は戸惑っていた。心底。
「俺たちは今、幸せじゃないか。お前はそうじゃないのか?」
西瓜男の両肩を掴み、けれど、ゆすぶりはしない。きっと西瓜男の体調と、腹の子を気遣ってのことだ。張られた頬を、押さえようともしない。自分のことはどうでもいいのだ。昔からそうだ。西瓜男になら、文字通りなんでも捧げた。なんでも。
「お前がどう思ってるかは分からないが、俺が戦争に行ったのは、お前の為じゃない。俺自身の為だ。お前と離れたくなかっただけだ」
「でもお前は僕を護った」
「それは……!」
影はもどかしそうに両手を振るって、けれど所在なさげに下ろす。
「最初は、お前を戦争に行かせないようにしようとした。だが、もう全土に爆弾が降って来るような戦況じゃ、戦場に出なくたっていずれは死ぬだろうと思い直した。だったら、街に残って死に手をこまねいているより、戦場に行って行方をくらませるほうが、まだ命を繋ぐ可能性があると思ったんだ」
一語一語を、西瓜男にしみ込ませるように強い口調で話す。それは怒りではなく、懇願だった。
「お前はよく知っているだろう。俺は肉親なんかどうでもいいんだ。確かに血は繋がってる。しかしそれだけだ。俺を赤ん坊の頃から面倒見てた婆やは、あの家では唯一面白い人だったが、それは愛情とは違う」
影は一通りのことを一通り、卒なくこなす子どもだった。けれど何をやっても、熱中するという事はなかった。物語の中で語られる愛情だの執着だの、そんなものとは無縁だった。いつも胸が冷たかった。いつも待っていた。何を待っているのかも分からずに。
「お前がうちへ来た時、俺には分かった。俺がずっと待ってたのは、お前だったんだと。初めて、愛が分かった。執着も分かった。お前が欲しかったし、お前が欲しがるものはなんでも与えてやりたかった。俺の人生のすべてが、お前なしでは回らなくなった。あの一瞬で」
西瓜男は、遠い昔の、まだ幼い影を思い返す。初対面の富豪の息子は、透き通った目を見開き、その瞳はきらきらと光り輝いていた。西瓜男は、その硝子のように美しい瞳が欲しいと、ぼんやりと思った。
何も持たない自分がその硝子玉を手に入れれば、きっと世界はひっくり返る。
その予感はこうして今、的中している。
「お前だけだ」
影が、西瓜男の手を取って、紙を丸めでもするように、隙間なく自分の両手で包み込む。
「俺が執着できたのは、失いたくないと思ったのは、お前だけだ。一緒にいたい……いや、それよりもっと……」
手に入れた硝子玉が、持ち主の西瓜男をこの上なく無垢なまなざしで見つめる。
「一つになりたかったんだ」
それが最後の希望であるかのように、硝子玉に水膜(すいまく)が張る。
「お前と俺と、分かれているなんておかしいだろ。だから、一つになりたかったんだ。それが自然だからだ。元の通りに、戻りたかったんだ」
影のこの独白がどこへ向かっているのか、西瓜男にも段々と分かり始めていた。しかしそこに謎が解けた解放感や、腑に落ちた気持ちの良さは皆無だった。
「お前が命を授かって、大変な時に一緒にいられないのは悪かった」
「なんで……」
なんでお前が謝る。そう問いたいのに、言葉は出ない。
「お前は俺を殺したと思っている。そうだろう?」
当たり前だ。だって僕は。
「でも違う。そうじゃないんだ。俺はお前に捧げたんだよ。この体を。血肉を。お前が俺を喰ってくれることで、俺とお前は一つになれた。そうだろう?」
影の肉に歯を立てたときの記憶が、鉄の味が、染み出る液体の感触が、肉を引き千切る時の顎の痛みが、生々しく蘇る。思い出してはいけない。罪悪感と涙と共に、浮かび上がって来たもの。その感情を、思い出してはいけない。
「お前は分かってくれるよな?」
あの時の涙は本当に、悲しみの涙だったのだろうか?
*
初めて会った時、その一瞬、あるはずのない鏡に自分の姿が映っていた。けれどその自分は、今までのようなくすんだ色はしていない。ばかりかキラキラと輝いて、その姿を余すことなく見つめたい欲望とは反し、影は目を眇めなければならなかった。
虚像の鏡は段々と薄れ消えて、実像である、頼りない、線の細い、生気に欠けて、荒れた手の、今まで誰にも手を包み込んでもらった事のない、誰にも気に掛けられて来なかった少年が立っていた。
頬が煤のような薄い灰色で汚れている。髪は脂っぽく艶もなく、ぼさぼさに荒れている。すべてを人形のように整えられた影と、目の前の貧しい少年との共通点は、傍目にはまったく見出されなかった。
それなのに、影の中には、目の前の少年と一緒になるべきだという声がこだましていた。それは比喩でも何でもなく、文字通りそうだと。二つの魂を粉砕し、混ぜ合わせ、たった一つの存在に戻るべきだと。
生まれて初めての、途方もない、地底からの欲求だった。喉がへばりつくほどの渇望だった。
今すぐあの頬に触れ、汚れを拭い、指通りの悪い髪を撫で回したかった。絡まった髪を一本一本ほどいて、甘い香りのする泡で洗い上げたかった。
その欲望を叶える条件が、影には既に、いや常に揃っていた。
「あの子を呼んで」
影がひと声そう頼めば、婆やはすぐに下男へいって、目当ての子どもを連れて来させた。影の両親は決して、末の息子の新しい遊び相手を歓迎したわけではなかったが、来るたびに身ぎれいに、そうして肉付きが良くなっていく子どもの姿に妥協したらしかった。今まで何にでも淡白だった末子が、憑りつかれたように彼を求めることに、気圧された形でもあった。両親は表面的な和に執着する人たちだった。
「人形遊びをしているだけだ。そのうちに落ち着く」
ある時父親が、末子の興味の変化を不安視した母親にそう語っているのを聞いた。影は見当違いな言葉を内心せせら笑ったが、元より理解を求める気もさらさらなかった。父と母を見ても、自分がその二人から生まれ落ちたということが信じられない。なんの実感も歓喜もなかった。ただ男に燃料を注入された女という機械を通っただけのことだった。
両親だけでなく、上の兄弟や、親戚や、使用人や、その他のどんな人間たちも、自分とはまったく違う、はなから相容れない生き物だと感じる。彼らと話し合っても、たとえ笑い合っても、影の心はいつもしんしんと冷え切っていた。雪よりも氷よりも冷たい何かが、影の中身をめいっぱいに占拠していた。
その極寒に、春の暖かな日差しが降り注いだ経験は、なんともいえない、生まれて初めての、涙ぐむような喜びに満ちた日々だった。実際、特別な彼と会っている時、特に最初のうちは、影はよく涙を流した。
「どうしたの?」
影が泣くと、少年は困ったように顔を覗き込んできた。幼い時は特に、影が泣くことで自分が叱られると思ったのかもしれない。少年にとってこの場に来ることは遊びではなく生活の糧だ。影は対等な友人ではなく雇い主だし、その機嫌を損ねれば文字通り明日から喰うものはない。
「今日、泊まっていってくれる?」
涙を浮かべながらいうと、少年はまた困った顔をした。少年に父親はなく、母親は病で臥せっている。愛情など一寸も注がれていないのに、彼は健気に小銭を稼いでは母親の治療や食事代にあてがっていた。影がいくらでも与える菓子や果物も、その場で少しだけ食べて、残りは母親にやっているようだった。
「お母さんが心配なの? それなら、うちから誰かを行かせるから」
そこまでいう段階になると、影の涙はもう本物ではなく、気を惹くための偽物だった。少年は影の姑息な手口を少しも疑うことなく、それならと小さく答えるのが常だった。影にとって、少年の母親など死んで当然の人間だ。どんな事情があるにせよ、特別な少年に十分な環境を与えなかったことで、その生存価値を失っている。遣いの者をやるのも、少年がここへ泊まった間に母親が死ねば、彼が気に病むだろうという一点のみによるものだった。
その母親が幸いに天寿を全うしたのは、二人が出会ってから数年が経ち、影も少年もすっかり背が伸び、うっすらとひげが生え始めたときのことだった。数日前から死期が近いと宣告されており、少年は影の元を訪れなくなっていた。
ならばと影は、婆やを連れて少年の住まいを訪れた。両親には近くをぶらぶらとするとだけ告げて。
少年の生家はひどいあばら家で、お世辞にも清潔とはいえず、影が嗅いだことのない饐えた臭いがする。
婆やが袂からハンカチを出して渡してくれたが、少年の前でそれを鼻に当てるわけにはいかない。影は終始微笑んで、粘土のような顔の母親を見つめる。母親の横たわる薄汚れた布切れの傍に正座している少年の背中を、ゆっくりと擦り続けていた。
影の家に数年通い続け、もう殆ど同居しているといっていい少年の背は、出会った頃の背骨の浮いた硬い皮膚ではなく、必要な脂肪と筋のついた柔らかい弾力のある皮膚に変わっている。彼を励ます気持ちが半分と、撫で心地の良さをいつまでも味わっていたい気持ちが半分だった。
母親の葬儀は、影の小遣いで事足りた。慰問者もいず、ただ燃やして骨と灰にしただけだ。母親の黒い煙が煙突から立ち昇るのを見ながら、少年は影へ礼を述べた。影はもちろん微笑んで、強い風で煽られ顔に掛かる少年の前髪を掻き揚げた。少年の瞳は乾いていた。
「これで、ずっと遊べるな」
もうすっかり背も伸び、肩幅は大人のそれとそう変わらないのに、影は本心からそういった。
「なんだよ、それ」
少年は笑って返した。影は少年の心が、とっくの昔に母親から離れ、自分のものになっていたことを心から確信し、そして更に、母親という重荷から彼が解き放たれたことに、満ち足りた気持ちになった。
気がはやり、母親の容体に手を加えようと考えたことさえあったが、今となってはよくもそんな馬鹿なことをと自分に失笑する。少年はそんなことを望まないだろうし、自然の摂理が葬ってくれることに人間ごときが手出しする必要もなかった。
二人が一つになることも、天の法に沿った宿命なのだから、なにも焦る必要もない。今は一緒にいることで、魂が分かれている孤独を補うことができる。完璧でないこの時をも楽しむべきなのだと、影は思い直していた。
そういった成長と心のゆとりが、影をますます自由な存在として世を闊歩させた。それに呼応するように、少年もとことんまで影に気持ちを許していった。そうなればもう、この世の全てを手にしたと同義だった。
「お前は本当に、屈託なく笑うよな」
影の微笑みを見る度に、少年は同じことを口にした。
「お前は無邪気だよ」
そんなこともよくいった。
聞く度、きっと少年は、自分と距離が近すぎて、精神的盲目に陥っているのだと思ったものだった。少し離れて俯瞰で見てみれば、影がまるで罪のない天使であるように形容することは絶対になかったはずだ。
実際、少年との交流に眉をひそめていた両親たちも、今や不気味なものでも目にしたように影から顔を背ける。それが面白いので、暇つぶしに理由を作って彼らの前に現れ、世間話をして、学業の好調なことを無邪気に報告し、笑顔を振り撒いてみもするのだが、彼らはただ俯いてこめかみに汗を垂らし、しみひとつないカーペットの模様を視線で射ていた。
少年と共に過ごせば過ごすほど、影は最初の衝動が間違いではなかったことを確信していった。自分と少年は、一つになるのだ。それは個人的な希求というよりも、そのように天から告げられているのだと思った。
ちっぽけな人間風情に、己の運命や身の振り方を決めることなどできない。すべては導きなのだ。
「それで具体的には、どういうことなのですか?」
ちゃぶ台を挟んだ先にいるのは、大木のような大男だった。
「うーん、これはこれは。し返しされたのかなあ」
大男は顎をのんびりと撫でながら、そんなことをいう。
「仕返しですか」
「いやあ、この間、おたくのお連れさんをね? あの女主人の元へアポなしで届けたものですから。その意表返しなのかなって」
「喧嘩する程仲がいい、ですか」
「だといいんですけどね。俺はすっかり嫌われているんですよ。おたくのところはいいですねえ、相思相愛のようで」
「いえ、同じですよ。あなたも私も下でしょう?」
湯呑をこちらへ押しやる大男は、影の言葉に首を傾げる。影は礼に頭を下げてから、
「惚れた弱みというやつですよ。こいつは厄介で、一度掴まってしまうと二度と逃げられないし、関係を逆転させることもできない」
「ふうむ」
大男は今度はせんべいの入った木の器を押しやる。
「おたくのお連れさんには、こないだ逆のことをいってしまいました」
「上だと思い込んでいたのですか」
「薄々気付いてはいたんだけど、認めたくなくて。認めたら、なんというか……勝ち目のない勝負なのが丸わかりになっちゃうからかな」
「望みがないのですか?」
「いいたかないですけど、そうですね。一生報われないって分かってるからこそ、嫌われてでも心に残りたいって思うんでしょうね。自分への嫌悪で縛りたいというか」
「いいじゃないですか」
影は気楽にいう。
「だって無償の愛などないですよ。少なくとも、人間同士では」
自分の欲に塗れた内面を、影自身が一番よく知っている。大男はまたもや、ふうむと唸って、腕を組んだ。影は面白がるように笑って、白い前歯でせんべいを齧った。
「で、魂を喰うとは、具体的にどういうことなのです?」
「え。ああ」
「あなたは閻魔さんだと。女主人さんから聞きました。それで魂を喰われただの、元の場所へ戻れなくなるだの」
「ああー。自分の情報が知らぬところで不特定多数に筒抜けにー」
「元の場所に戻れなくなると、何か困ることがあるのかと女主人さんに聞いたのですが、さらりと流されてしまいました」
「ううーん」
自身以上にマイペースな影に、大男は何度も唸らされる。
「あのねえ、そんなラフに、煎餅齧りながら喋るような話じゃないんですけどね」
「内容はどんなでも、喋るという行為にはなんら変わりないですよ。それに」
影は二枚目の煎餅に手を伸ばしながら、
「話してくれるまで、俺は帰りません。だったら早く喋った方が、お互い得ではないですか」
「俺は合理的な考えは支持しないし信じないたちでね」
「別にあなたに不都合なことはないと思いますよ」
「合理的なのは好きじゃないけど、面白いことは好きですよ。奇想天外で、この世に他の例を見ないようなお土産話は」
「なるほど。つまりは代金を払えという事ですね」
「この街では金銭はあまり大きな意味をもたない。大抵の人はここにいるのはほんの短い間だからねえ」
「だから土産話ですか」
影はパキリと小気味いい音で煎餅を折り取る。育ちの良さなのか頬を膨らませるばかりで音はしない。横幅の広い瞳を左右へゆったりと漂わせた。波間に揺蕩う小舟のように。そうして、煎餅の破片をすっかり呑み込んでしまうと、
「分かりました」
「よしきた」
大男はバチンと両手を合わせると、いそいそと立ち上がった。
「新しいお茶と、お菓子を持ってくるよ」
そこから影は、幼少期からの西瓜男との付き合いを掻い摘んで話し、彼が自分にとっていかに特別な存在か、そしてそこに理屈で語られる根拠などないことを伝えた。
「運命ってやつだね」
「出会いに限らず、すべては運命です」
「いいね。そういう話、好きだよ」
二人の体格のいい男が、頭を突き合わせ、少女が集まって企み事をする時のようにくすくすと笑っている。
「元道三年に戦争があったのはご存知ですか」
「ああ、もちろん。この街ではどんな話も筒抜けだから」
「本当に意味のない戦争でした。人々も街も大いに巻き込まれたし、俺たちも例外じゃなかった」
「お坊ちゃんに戦が務まったかな?」
「俺に限らず、誰にだって務まるものではありません。多少力自慢であろうとも、自分と変わらない生身の人間を殺し続け、それが正義とされるのですから。正気を保って生きてきた人間が耐えられるようなものではない」
「君たちが育った国は、ただでさえ人口減少の一途を辿っていたものねえ。戦争の時には、青年から働き盛りの者、引退生活を楽しんでいた壮年、果ては女性まで、綺麗にかっ攫われていった」
政府の最初の説明では、決して戦地に生身で投入されることはないということだった。時代は進み、過去の大戦のような人対人、あるいは人対兵器のような構図はほぼなくなっていた。戦地に投入される者たちに求められたのは、遠隔操作で敵陣に爆弾を投下することだけだった。安全は保障され、絶対に死ぬことはない。ただ普通の労働と同じように、人手が必要なだけなのだ、と。だからこそ、女性への徴兵までもが敢行されたのだ。
だが実際には、戦闘が始まって早々に本部基地が襲撃され、中で操作にあたっていた人員が一瞬で破片となって散った。しかし政府はその事実を隠蔽し、戦闘を続行。当初交わされていた戦争協定において、民間人への攻撃は固く禁じられていたが、そんなものはあってないような口約束だった。予想通り早々に市街への爆撃合戦となり、実に多くの国の老若男女が犠牲となった。
「時代が変わり、体制が変わり、人が変わり、もう戦争は繰り返されない、起こったとしても国民たちは参加を拒否するだろうと思っていました。だが結局は、見えない何かにもみくちゃにされ、本人の意志などいとも簡単に砕かれる。どんなに抗ったとしても、結局は弾丸の雨霰に晒されることになる。俺自身も含めて」
「それで結局、生身で戦地に投入されたわけ?」
「いえ、曲がりなりにも、政府は約束を守りました。他の国ではあったそうですが、俺たちの国では歩兵が突っ込んでいくような自殺行為は最後までなかった。ただ、基地は次々攻撃され、支援物資の飛行機や船も狙い撃ちでしたから。俺たちが餓えるまではあっという間でした」
「ああ……」
それは呆れのような、諦観のようなため息だった。
「俺と彼は、いち早くその場を離れました。残り僅かな在庫の争奪戦が既に始まり、今に生存権をかけた殺し合いに発展するのは分かり切っていましたから。
基地は政府曰く『絶対的に秘匿された場所』だったので、奥深い森でした。外に出た方が木の実なり雨水なり見つかるかと思ったのですが、不思議なほど何も見当たらなかった。それでも、木の葉の先の雨露を啜ったりしました」
「ああ……」
今度は、悲痛な響きだった。
「俺も彼も餓えて……だが元からの蓄えの問題なのか、精神的なものなのか、彼の方が衰弱が早かった。みるみる、骨が浮くような姿になってしまった」
影は、年月を掛けようやく豊かになった少年の肢体が、その何倍もの速さで出会った頃の骨ばった体に戻っていく様を思い出す。
その姿を愛さないわけではなかった。どんな姿であっても、彼は彼だった。問題はそんなところではまったくなかった。
「俺はただ、生きていてほしかった。彼に。俺と彼、どちらかが死ななければならないのなら、それは一寸の疑いもなく俺だった」
「死は怖くなかった?」
「死というより、俺がその場で恐れるべきは、彼と離れ離れになることでした。だが、俺にはもうその解決法が見出されていた。そして気付いたのです。今のこの状況はまさに、俺が希求し続けて来たものなのだと。そう、」
影の頬がばら色に輝き、艶やかな髪先が跳ね、
「運命、ですよ」
照り輝く唇がレモンの縁のようにしなる。
「餓えは絶好の機会でしたが、彼が完全に痩せ細ってからでは駄目だった。人間は弱りすぎるとものも食べられなくなりますから。だから気付いたその時がまさに決行の時でした」
あの時の高揚感は忘れもしない。
「俺は彼に、俺の肉を喰い、血を飲み干すよう頼みました。そうすれば彼は助かり、そうして、俺たちは一つになる。分裂された魂が、ようやく統合される時が来たのです」
痛みはなかった。いや、痛みさえも恍惚と取って代わった。皮膚に犬歯が突き立てられ、その刃先が少しずつ脂肪に食い込み、肉を捉え、引き千切る感触。愛しい者の細胞と文字通り混ざり合う感覚。鼓動が絶えても、毛布に巻かれたような、とてつもなく心地よい温かさに包まれていた。
「そして一番、幸福だったのは……」
影の申し出にそんなことはできないと涙を流した彼は、けれど最後には受け入れた。そうして、影に齧りついた彼の、これまで肉体に隔てられていた想いが、直接に流れ込んできた。というより、それは影自身のものと一体になって、どこからが影のもので、どこからが彼のものなのか、殆ど境界はなかった。
けれど、彼が影へ向けた、様々な形容しがたい、しかしとにかく優しい、岩の間から染み出て来るような想いは、ありありとそこにあった。影と同じくらい、彼は幸福だった。
そうしてその幸福感は、影を食べる間中、続いていた。
「一番幸福だったのは、彼が俺とまったく同じ気持ちを共有していたことです」
*
目覚めた時には、もう陽が高かった。一体何時間眠っていたのかと、西瓜男は今にも壁から落ちそうな振り子時計に目を遣る。時刻は午後二時を回っている。
昨夜は、影といい合いのようになり、気まずいままに眠りについた。なかなか寝付けず、かといって腹の重みに寝返りも打てずにまんじりとしていると、その気配を察したように影の体温が後ろから迫った。
無意識に背を向けていた西瓜男の脇から、影の、優美な曲線を描いた腕がするりと侵入し、出っ張った腹を両手で包み込んだ。次いで、猫が縄張りを主張するように、西瓜男の首筋に額が押し付けられ、ぐりぐりと左右に動く。
懐かしい感覚だった。まだ世界が、たとえ見せかけだとしても平和と恩恵に満ちていた時、二人でこうして眠っていると、時が止まったように感じていた。
不安も、かといって幸福もなく、ただ何にも脅かされない空間が辺り一面に広がる。空虚でありながら、猛烈な光に包まれているような、なんともいえない時間。
知らぬ間に、西瓜男は眠りに落ちた。
「ううーん」
寝たまま、伸びをする。脚を攣らないように、ふくらはぎに力を入れ過ぎないよう気を付ける。ぼおん、と、みぞおち辺りを内側から蹴り上げられる。赤ん坊も起きたのだろうかと腹を撫でると、応えるように腹の虫が鳴った。そのタイミングを狙ったように、何処からか味噌の香りが上ってくる。
「おはよう、ございまーす……」
空腹に釣られ、一階へ降り、恐る恐る居間の暖簾から顔を出すと、食卓に女主人の後ろ姿がある。居間の色調が以前より明るく感じ、ふと見回すと、部屋の隅々までが綺麗に磨き上げられているのだった。
「おお、起きたか」
台所と繋がっている戸口の暖簾をくぐって、影が現れた。両手に料理の乗った盆を持ち、女主人が胡坐を掻いて座っている食卓に着地させる。
「飯は食えそうか?」
「ああ……そうだな……」
長く眠ったのが良かったのか、それともすべての経験が超速で駆け抜けているからなのか、胸の気持ち悪さや食べ物のにおいへの嫌悪感は綺麗に消えていた。それを証明するかのように、ぐうう、とまた腹が鳴る。聞き留めて、影が笑った。
「ちょうど今できたから、喰おう」
いいながら、西瓜男の背を押して、座るのも腰を支えて甲斐甲斐しく世話する。
「お前の旦那はよう働くぞ。ええの拾って来たな」
横目で見ていた女主人が、いいながらもう箸を手に持ち、湯気の立ったみそ汁を啜った。
「悪かったな」
影に振り向いて詫びる。昨日のことへの謝罪なのか、家事を任せきっていることへの謝罪なのか、自分でもよく分からない。影の笑顔は相変わらず屈託がなく、昨日のことなどきれいさっぱり忘れてしまったかのようだ。幸い、西瓜男の叩いた頬に跡はない。
「お前には休養が必要だから」
笑みを浮かべたまま、影は西瓜男の隣に腰を下ろす。
「あーらら、これはこれは。いいにおいがすると思ったら。ちょっと遅いお昼時でしたか」
西瓜男と影が揃って箸を手にしたところで、また違う顔が暖簾から覗いた。
「帰れ」
振り向きもせずいったのは女主人だ。
「ひどいなあ。俺も今日は方々働きに出て、もうお腹ぺこぺこですよ」
闖入者である大男は、まったく怯むことなく居間へ足を踏み入れ、大袈裟に腹をさする。
「食べていってください。たくさん作りましたから」
そんな大男ににこやかに声を掛けるのは影だ。
「やっ。さっきぶりだね」
「ええ」
二人は互いに手の腹を見せ合い、親し気に言葉を交わす。大男は自然、空いている女主人の隣へ腰を下ろした。女主人は隣の気配のシャットアウトに努めるように、ペースを上げておかずをかっ食らっている。茶碗は伏せたままで、やはりおかずを食べ終わった後にデザートとして食べるらしい。追い出すまではしないところがお人よし、付け込まれる由縁なのだろうか。
「いやあ、勢揃ろいって感じですね」
大男は悪びれもせず山盛りにされたおかずを口に放り込み、上機嫌でいった。
「四者面談……いや、四者会議かなあ」
いいながらも、合間合間に、旨いだの器用だのと褒め言葉を挟み込む。
「いつの間に大男さんと仲良くなったんだよ?」
西瓜男が肘で影を突っつく。
「やきもちか?」
「馬鹿」
「お前が寝ている間に、少し会ってもらった。この間のことを聞きたくてな」
「こないだ?」
「俺が君の魂を喰ったって話だよ」
二人の会話に大男が割って入る。
「君も聞いたんでしょう、この人に」
大男は隣の女主人を指さす。女主人は〆の米に移行済みで、喉に詰まらせないのが不思議なほどの速度で米を吸い込んでいく。
「その上、黒猫まで見てる」
「あ……。あの時、聞いていたんですか?」
矢継ぎ早に喋る大男に、西瓜男がようやっとという感じで対応する。
「立ち聞きといえば聞こえが悪いけど、ちょっと前までこの人とお喋りしてたからね。まだ近くにいただけのことだよ」
確信犯的に微笑む大男。
「黒猫が何か重要なんですか?」
西瓜男はそれ以上掘り下げず、話を元へ戻した。
「君の恋人にはもう話したけどね。黒猫はここでは案内人だよ」
「こ、こいび……」
「おっと、そっちに驚くのか。だってあんな劇的なノロケ話を聞かされたら、誰だってそう思うじゃないか」
「ノロ……」
西瓜男の首の付け根から赤い色がせり上がり、頬や耳までのぼせたように真っ赤に染まる。
「お前、何いったんだよ?」
「俺だって無暗に喋ったわけじゃない。話せば教えてくれるっていうから」
女主人にならって米を単品で掻き込んでいた影は、さも当たり前のようにいってのけた。
「だから何を」
「重要なんはそこやない」
いつまでも話が進まないことに飽きたのか、それとも米に飽きたのか、女主人が久方ぶりに口を挟んだ。
「黒猫は、お前をこの街からまた別の場所へ運ぶ為の案内人や」
「別の場所?」
自分だけが尋ねるのを聞いて、この話が分からないのはどうやら自分だけらしいと西瓜男は気付く。
「人はな。生と死を分けたがる。生きている間、死はどこまでも遠くて、自分とは無関係で、簡単には訪れんもんやと思っとる。だってそう思わんと怖いやろ。毎日、明日死ぬかもしれんと思いながら暮らされへんやろ。せやけど……」
女主人はようやく箸を置く。かちゃりと、小さな音が鳴った。
「生きるんも死ぬんも、ほんまは物凄く近いことなんや。表と裏で、絶対に離れられへん。その事実が受け入れられんで、迷ってこの街へ来る。でもいつかは、迷いにも終わりが来て……人は死を受け入れて、上へ行くんや」
西瓜男の中で、もやもやと得体の知れなかったこの街が、少しずつ形を成していく。どこかで気が付いていたはずのことが、答え合わせのように詳らかになる。
「でもな、たまにまだここへ来るべきじゃないのに、迷い込む奴がおる。まだ呼ばれてへんのに勝手に来る迷惑な奴や。それがお前」
いつぶりかに、女主人の長い爪先で指された。
「本来なら、ここに居つく前に元の場所へ強制的に引き戻されるはずなんや。それをこの馬鹿が、お前の魂を喰ったお陰で、お前はここに居座っとる」
「あれは人助けですよ。物凄く苦しそうにしていたんだから。ねえ? それに、喰ったっていっても、ほんとにほんとに一部ですよ。塵くらい」
「苦しくて当たり前や。隣町の住人が、ここの空気と合うわけないやろ。お前がいらんことせんかったら、そのまま元の場所に戻ってた」
「でも苦しみや迷いは残ったままですよ。あの混沌を抱えて、正常に生きていけるとは思えないですけどねえ」
二人の間にお馴染みの火花が散る。
「あのぉ」
西瓜男が、火花の飛沫に当たらないように注意しながら、恐る恐る手を挙げる。
「つかぬことをお伺いしますが。女主人さんは、どうしてこの街にいるんですか? もうずっと住んでいるような雰囲気ですけど……」
行き着けの湯屋まであるのだから、少なくとも来たばかりではないのだろう。
「いーいことを聞くねえ!」
大男が文字通り飛び上がって、手まで叩いた。
「この人はねえ……」
「噂話がしたいなら、せめて本人のおらんとこでせえ」
女主人はすっと立ち上がり、音もなく居間を出ていった。
「え、あ……」
「いいよいいよ、ほおっておきな」
虚を突かれて、後を追おうとした西瓜男を、大男はひらひらと手を振るだけで止めた。
「あの人はね、恋人を待ってるんだよ」
「恋人……」
「まあ、そう呼んでいいのかは分からないけど」
大男は嘲笑するようにクスリと笑い声を上げて、
「俺もねえ、会ったことはないんだけど、顔が綺麗なことだけは知ってる。この街にも色々な情報が来るからねえ。知ろうと思えばそれぐらいは」
「そりゃあ、気になるでしょう」
黙々と白米を掻き込んでいた影が、ようやく満足したのか口を挟んだ。その口調が面白がるような響きなので、西瓜男は一人首を傾げる。
「まあまあ、俺には手加減してくれないと」
大男は笑顔でいなしてから、
「その男がこの街へ来たらね、あの人に教えてあげる約束なんだ。こう見えても俺は、一応はこの街を仕切る役目だからね。どんな連中が来るのか、俺には分かるんだ」
西瓜男は、初めて女主人を訪れた時、大男が女主人に【契約】と口にしていたことを思い出す。
「それで、上ですか……」
「あ、覚えてた? その話。今されるとちょっとバツが悪いんだけど」
「なるほど。それで上なわけだ」
「やめてよ、君までさあ」
事情を知っている影に煽られ、大男は苦笑いする。
「つまり、女主人さんは特例なのですね。通常なら隣に帰るか、ここに留まるなら近いうちに階段を上らなきゃいけない」
「さすがは俺の友達。理解が早い」
影のまとめに大男は指を鳴らす。
「それって……」
西瓜男が物思いにふけるような顔つきでぽつりという。
「何か……リスクはないんですか? 別の場所へ送り出されるはずの人が、同じ場所にずっと留まっていたら……。なにか、歪みが起きたりしないんでしょうか」
「君も鋭いねえ。さすがは俺の友」
大男はまた指をぱちりと鳴らす。
「リスクについては、俺も正直分からないね」
大男はくるりと目を回して、
「前例がないし。俺を取り立ててくれた師匠というか、先代の閻魔は、たぶんそういうことはしなかっただろうな。頭固かったし。記録も残ってない」
肉親のことを話す時のように、口さがない。
「それは……」
「無責任?」
いい淀んだ西瓜男に、大男はからかうような声を向ける。
「確かに無責任だね。だけど、それを望んだのは、何でもするからと追いすがったのはあの人自身だよ。
もちろん、魂がどうなるか分からないって話はしたよ。それでもあの人は少しも揺らがなかった。俺は人助けしたつもりだけど」
大男はその時のことを思い返す。追い詰められ、ただ一点のものを切望するその顔は、大男の心のどこかを強く打った。降って湧いたように目の前に宝石を突き付けられ、断る術はなかった。自分の心を奪った者の心を、己自身も奪いたかった。それがたとえ仮初でも。
「それは無責任ですよ」
影が場違いなほど気楽な声でいった。
「一体誰が、人の生の責任を負えるのです」
*
「すいません」
「前触れもなく謝るなや」
「すいません……」
縁側で一人、長い煙管をくゆらせていた女主人に、西瓜男はいつも通り遠慮がちに声を掛ける。風は生ぬるく頬を過ぎて、湿り気を残したまま消えてはまたどこからかやって来る。吹き消しても吹き消しても、最果てもなく湧いてくる。
「座るんかい」
「あ、すいません」
「謝りながら座るんかい」
「すいません」
こまめに謝りながらも、西瓜男は腰を落として女主人の横に収まる。影が、あの人はお人好しなんだと笑ったのを見てから、西瓜男の遠慮も形式上になっている嫌いがあった。
「あの。つかぬ事をお伺いしますが」
「またお伺いしますか」
「どうしてその人と、離れてしまったんですか」
西瓜男は一世一代の告白でもするかのように、形式ばって聞いた。女主人の顔は見なかった。西瓜男は、女主人が泣くかもしれないと、どうしてだか思った。そうしてこの人は、泣いている姿を見られたくないだろうと思った。だから見られなかった。
「さあなあ」
女主人の声と共に、視界の端で、細長く柔らかな、真綿のような煙が吐き出される。
「あたしは……。あたしは一緒に、来るつもりやった。でもきっと相手は、そうじゃなかったんやろうな。それだけの話や」
その口調は、投げやりとも違う、諦めとも違う、ただ受け入れていた。痛くて痛くて仕方がないものを、ただ正面から、なす術もなく受け止めていた。
「せやけどな。待つことを、
今度は頭上へ、煙が吐かれる。それは龍のように天へと昇る。
「魂は。いつか、腐るのかもしらん。もう、上へも行かれへんのかもしらん。きっと何かの間違いやと、そうであってほしいと、その証拠がほしいと、もうどのくらい、あほみたいに求め続けたんか」
龍の背中に乗って、誰かの、幾重もの想いが天へと昇る。誰の手も届かない、その場所へいく。
「そうですか」
西瓜男は、声が詰まらないように気を付けながら、言葉少なに返した。しばらく沈黙し、それからようやく意を決したように、女主人の横顔を見る。彼女の頬に水痕はなかった。そのことが余計に、女主人の孤独を浮き上がらせているようだった。
「さっき、あいつがいったんです」
「お前の熱狂的恋人か」
「こ……い人かはともかく」
西瓜男はまた顔を染めないように努力しながら、
「あいつ、妙に涼しい顔でいってましたよ。誰が人の人生に責任を負えるんだって。もし、人の人生をどうこうできるなんて思っているなら、たとえそれが善意からでも、おこがましすぎる考えだって」
「若いのにドライやなあ」
女主人は鼻を鳴らすように笑う。その笑いに中身はなく、ただ空洞で、ただ痛い。
「だから、僕、思ったんです」
初めて興味を持ったように、女主人は西瓜男を見た。
「僕は、ここにいます」
真正面から、女主人を見た。女主人もまた、真正面から、西瓜男を凝視した。
「確かに、誰かの人生の、それはつまり命の、責任なんて取れる訳ないんです。どんな人も、人生は最後の一片まで、自己責任なんです。それはどうしようもない事実で、変えられないことで……」
しどろもどろの西瓜男の言葉を、女主人はただ黙って聞いている。
「でも。やっぱり、助けることはできるって、思うんです。それはなんの保証もない、無責任な援助かもしれないけど、それでも、望むなら、誰かの役に立とうとすることはできるって。
たとえ結果的に、助けられなかったとしても。ありがた迷惑だったとしても。それでも、助けたいって気持ちは、どうしようもないから。人を、体を、心を、どうしようもなく動かしてしまうから」
頭の中に浮かんだことが、掴む前にするりと逃げそうになり、慌てて追いかけては、乾いた喉を無理に潜らす。
「僕は、そばにいたいです。あなたのそばに。僕じゃ役不足で、おこがましくて、全然、これっぽちも求められてないかもしれないけど。あなたには、誰かがいた方がいいって思うから。それは僕じゃなくていいんだけど、今はせっかく僕が目の前にいるんだから、僕で間に合わせませんか」
最後までいいきり、口をきつく結ぶ。早まった鼓動が、全身くまなく血液を巡らせ、指先がかっかと熱い。女主人は最初と寸分違わぬ顔で西瓜男と向き合っていたが、やがて唇の片端を不格好に持ち上げて、痙攣するように身を捩って頭を下げた。
「え! どうしました! 大丈夫ですか!」
西瓜男は慌てて、半身を折る女主人の肩に手を掛け、顔を覗き込む。それをきっかけにするように、女主人は弾けるようにのけぞって、声を出して笑い始めた。西瓜男はただ呆気にとられて、女主人の初めて見る満面の笑みを眺めた。
「お前……お前は、最初から変やったけど」
目尻に浮かんだ涙を、女主人は長い爪先で拭いながらいう。
「今が一番おかしい。お前があたしを助ける義理なんかない。自分をこき使った相手に、なんでそんな気ぃ起こすんか。あたしにはまったく分からん」
くくく、あははと、女主人の笑いは発作のように止まらない。
「そ、それは」
急激に羞恥心が湧いてきた西瓜男は、その波に吞まれまいと、慌てて言葉を継ぐ。両手が無意識に振り回される。
「それは、あなたが、僕の罪を、白状させてくれたから……」
「あたしはなんも聞いてない」
「それはそうだけど、それでも、僕に罪を見る度胸を……」
「度胸!」
もうなんでも笑いに変わってしまうように、女主人はやたらめったらに笑う。
「違うんです。僕は、僕の罪は、僕が思っていたようなことじゃなくて。それは確かに罪だったけど、でも、それは表面的な、大義名分みたいなもので。あなたにいわれて、考えて、初めて分かったんです」
頭の中で、色々なものが溶けていく。今まで、その触れたくないもの、見たくないものを閉じ込めていた檻が、女主人の笑いの地震で、がらがらと崩れ落ちていく。
「僕は、あいつにずっと申し訳ないって、ひどいことをしたって思っていて。それが罪だと思っていて。だけどそうじゃなかった」
西瓜男はそっと、膨らんだ腹の縁を撫でる。
「僕は結局、謝罪や罪悪感より、怖かっただけなんです。この子が来たって分かった時、ただ怖かった。いつか将来、この子が僕がしたことを知った時、自分が拒絶されて糾弾されるのが怖かったんですよ。愛しいこの子に、この世にたった一人しかいないこの子に、自分やあいつの面影を持ったこの子に、冷たい目で、軽蔑した目で見られるのが、怖かったんです。それが一番だった。結局、自分のことしか考えてない。それが僕の罪だった」
女主人は、西瓜男にいった。西瓜男がここへ来たのは、罪を白状する為だと。その言葉が時限装置のように、西瓜男の中でちくたくと作動し始め、そうして、檻の存在を彼に気付かせた。
「あほやなあ、あんたは」
あまりにも優し気な顔で、女主人はいった。
「そんなもん、誰でもそうや。それで罰されるなら、もう人間なんか一人も生き残ってない」
女主人は、想いも一緒に吐ききるように、長く長く煙を天へと伸ばした。
「あんた、花柄の首輪を見たゆうたやろ」
「え、ああ……。黒猫の……」
全身が発光したような見事な毛並みの黒猫の姿を、西瓜男は思い出す。
「それはなあ……。ひょっとしたら、あたしの待ち人のもんかもしれん」
「え……」
「最後に、ここへ来ようと約束したとき、相手の男がゆうたんや。
あっちへ行ったらどうなるんか分からんから、もしかしたら、違う姿になってるかもしらんから、だから互いを違わんように、目印を持っておこうって」
女主人は徐ろに袂に手を入れて、何かを取り出した。手のひらを開いて、西瓜男に差し出す。そこに乗っていたのは、花柄の首輪だった。
「これ……」
「どうや。同じもんやったか?」
惹きつけられるように、西瓜男は首輪に手を伸ばした。布地が薄桃色の、小花の散った可憐な模様だった。そしてその中央に、小さな金色の鈴がついている。
後光の中に浮かび上がった、その模様を思い出す。ちりりと鳴った鈴の音が鼓膜に蘇る。あ、と声が洩れた。
「これ……です。たぶん。うん、いや、絶対これ、これですよ!」
西瓜男は舌をもつらせながら、必死でいいきった。女主人は、ひどく意外な答えを聞いたように目を丸くさせたが、すぐに頬を緩めて、そうか、とひと言、ため息をつくようにいった。
「捜さないと……。ね? そうですよね?」
落ち着き払った、何かに満足したような女主人とは反対に、西瓜男は焦って言葉を継いだ。ここで話を終わらせたくない。
「あほか。こんな広いところ、どう探すねん」
「閻魔さんに助けてもらえば……」
「あいつに頼るんやったら、死んだ方がマシや。それに……」
「それに?」
「来てたんやったら、閻魔に分かるはずや。さすがにあのあかんたれでも、そこまでいけずなことせんやろ」
「いけず……」
「ええねん。今はそれだけでええわ。破片が。破片があったから。それでいい。今は」
『今は』と繰り返す意味が、西瓜男には分かる気がした。
「いやいや姫君たち、すっかり場が温まってますねえ」
ふいに、背後に気配が立ち上った。西瓜男は瞬間的に振り返る。のっぽで大柄な、二つのシルエットが並ぶ。
「いやー。お互いジェラシーですなあ」
大男が、穴の開いたうちわでぱたぱたと顔を仰ぎながら、影へ投げかける。
「いやいや、まったくですね」
影は笑顔で受けた。
空は高く暗く暑く、無数の龍がとぐろを巻く。
おわり
怪奇異話 『西瓜男』 ん口 アート @hzmskt8
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