第3話 不運

「神音は神音と言います! 先輩の名前はなんですか!」

「…………」 


 突然の自己紹介に、透華は神音を一瞥する。

 されど間もなく、問いかけを無視して足を進めた。


 「失礼しました」とだけ言い残し、職員室の扉を閉める。

 無感情に職員室を後にすると、気だるげに、透華は小さく欠伸した。


「えっ、え! ちょ、ちょっと待ってくださいよー!」


 想定外の無視に唖然とさせられるも、神音は真っ直ぐに廊下を目指し――、


「錦戸さん? まだ話は終わってないですよ?」


 だが、担任教師に襟を掴まれ、肝を冷やす。

 背後から響く心胆寒からしめる声に、神音は冷や汗が止まらなかった。


 ギギギと、擬音を立てて、首だけ後ろに振り返る。


「えーっと……、なはは……、お話はまた今度ということで……?」

「無理に決まってるでしょ!」

「そ、そんなぁー! ご勘弁ですよぉ!」


 教師に襟を掴まれたまま――ギャーギャー喚くも抵抗も虚しく――神音はパーティションの奥へと連れ戻されてしまった。

  

 職員室に在室していた教師全員が顔をしかめるほどの騒ぎ声は、しかし、ぼやけた騒音として透華にも伝わっていた――。 


 陽の射す窓辺に、透華はそっと手を近づける。

 窓を撫でるように歩きながら、未だ響き続ける騒音に小さく溜め息を吐いた。


「……今日は、ツイてない」


 寝坊による遅刻に加え、抜き打ちの手荷物検査。

 そのせいで、放課後の自由時間までも奪われてしまった。


 今頃は家に帰って、買ったばかりのアルバムを堪能していたはずなのに……。

 

 肩を落とした透華は、再々度、溜め息を零す。


(今日はもう帰って、早めに寝ようかな――)


 だが不図、透華は階段の前で足を止めた。

 何心なく、下り階段と上り階段を交互に見やる。

 

「――いや。今日くらい、いいかな」


 打算的に、感情的に思考し、結論を出した透華は、肩から下げた通学鞄の両紐を力強く握りしめ、上り階段の方へと向かう。

 舵を切るように、上履きをキュっと鳴らした。


 二階から三階へ。三階から最上階へ。


 最上階最奥にある扉前まで来ると、透華は通学鞄から、兎のスラップがついたキーケースを取り出す。


 鈍い金属音を鳴らす鍵の森をかき分けて、屋上へ続く鍵を探し出し、差し込んだ。


 この鍵は、一年生の頃、不正に入手した鍵だ。

 屋上に入る機会があった際に、スマホで撮影した鍵の写真を業者に送って、密かに作ってもらったスペアキー。


 学校にバレれば停学どころでは済まないだろう。


 だからこそ必然、リスクを冒した理由があり――。


「……開いた」


 十数か月振りに訪れた屋上の風景は、飾り程度の柵だけがある単調なものだった。

 以前この場に来た時と、何も変わっていない。


 透華は鞄をドア付近に置き、大きく深呼吸した。


 高所であるがゆえの風の強さは、透華のブロンドを自儘に浮かせる。


「あ、あっー。……うん、風の音でよく聞こえない。今日はいいストレス発散日」


 夕光を顔に浴び、透華は自分の喉元に手を当てた。

 風を吸い込み、声のチューニングを開始する。


「あ、あっ。あーっ。んんっ……。おっけー……」


 軽く咳ばらいした後、透華は再度、風に耳を傾けた。

 

(風量よし……。音程よし……。じゃあ――)


 やりますか、と心の中でつぶやくと同時、透華は大きくブレスした。


 刹那――。

 汗の匂いが漂う学校に、人知れず、透華の歌声が響き渡る。

 玉を転がすような、天地を割るような。人の心を震わせる――天才的な歌声が。


「――――――」


 この声は、誰にも届かず誰にも知られない。

 ゆえに、この時間だけは誰からも干渉されない――。過去を忘れ、溜ったストレスを発散できる唯一の時間。


 今日はツイてる。

 強風で全く声が通らない。響かない。聞こえない。


 だからこそ――透華は、扉付近に潜んでいた気配に気づけなかった。

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