第44話 幸せの時

 最高のクリスマスを終えたあと、翌日一日を挟んで二人は箱根にある温泉旅館に向かった。


 それから六泊七日、一月二日になるまで温泉旅館でゆっくり過ごし、秀真とイチャついて過ごした。


 一月三日には花音は札幌に戻り、仕事始めに備える。


 次の週末は成人式もあって連休になるので、その時にまた東京に行く予定を立てる。


 その時には秀真の祖父母、両親と挨拶をし、結婚の許可を無事に得る事ができた。


 康夫と春枝は心から祝福してくれ、社長として責任感のありそうな父と、キャリアウーマンの母からも歓迎してもらえた。


 一月末の週末には、秀真が札幌に来て、花音の家族たちに結婚の許可をもらい食事会をする事になる。


 弟の空斗も秀真と一緒に東京から戻ってきて、彼らはすっかり仲良くなっているようだった。


 花音は三月末にいま勤めている会社を寿退社すると上司に告げ、三月の終わりには同僚たちから「おめでとう」と飲み会を開いてもらえた。





 四月初めのある日、花音は東京行きを前にして洋子の家を訪れていた。


「秀真さんと仲良くね」


「うん。こうなれたのもお祖母ちゃんのお陰だよ」


「私がこうして元気でいられるのも、秀真くんが花音に私の事を話して、花音が検査を受けるよう言ってくれたからよね。巡り巡ってみんな繋がっているんだわ」


 歌うように言う祖母の言葉を聞き、花音は札幌を離れる前にどうしても……と思って口を開いた。


「私、梨理さんと練習室の黒いアップライトに助けられて、いまここにいるの」


 もううやむやにしない、とまっすぐ洋子を見ると、彼女はすべてを理解しているというように微笑む。


「……私ね、何度も不思議な夢を見たわ」


「夢?」


 問い返す花音に、洋子は穏やかに微笑んで告げる。


「夢の中で私は八歳のままの梨理と一緒にいて、花音を見守っているの。勿論、奏恵や他の子供たち、孫を見守っている時もあったわ。それでも、特に印象に残っていたのは花音の夢だった」


 テーブルの上にあるティーカップを見て洋子は息をつき、続ける。


「夢の中で、花音は私のお葬式に遅刻して悔やんでいたり、秀真くんを喪って酷く悲しんでいた」


 自分が〝過去〟に味わった事を言い当てられ、花音はギクリとする。


「お祖母ちゃん……それ……」


 花音がすべてを言わずとも、洋子は「分かっている」と微笑んだ。


「こうやって現実になると、亡くなった梨理やピアノの力を借りて、花音が自分の望みを叶える……というのは、人によって絵空事に思えるかもしれない。それでも私は夢の中で花音がとても苦しんでいたのを自分の事のように理解したし、あなたがどれだけの努力と苦しみを経て〝今〟の幸せを掴んだか分かっているの」


 祖母と梨理の間には、きっと花音には分からない強い繋がりがあるのだろう。


 論理的に説明しきれない事があっても、〝分かっている〟という事実だけでいいような気がした。


 洋子は紅茶を一口飲み、花音を見て目を細める。


「梨理は子供の頃、結婚式で花婿と花嫁を祝福するオルガニストになりたいと言っていたわ」


 いまだ語られていなかった実際の梨理の話を聞き、花音はハッとする。


「若い頃の私は、梨理に世界で活躍するピアニストになってほしいと願ってしまっていた。……それが厳しいレッスンに繋がって、あの子の反発を買ってしまったのだけれど」


 その結果、梨理が事故に遭ってしまった。


「梨理は夢の中でいつも、『花音と約束をした』って言っていたわ。だからあなたを特別に助けるとも」


「約束……?」


 身に覚えのない事を言われ、花音は焦って記憶をたぐる。


「きっと梨理を怖いと思わずに接する事ができていた、とても小さい頃なんじゃないかしら。よく小さい子供は前世の記憶を持っているとか、大人には見えないものが見えると言うでしょう?」


「うん……」


 そういうものの、洋子の言う通りずっと小さな頃だったからか、梨理の幽霊と会話をした記憶はない。


「きっと大丈夫よ。あなたはこのまま秀真さんと幸せになっていいの。梨理が力を貸したからこそ、花音はこうやって秀真さんと結ばれる未来を築いた。それが答えだと思うわ」


「ありがとう。そう思いたい」


 今年のお盆は、親戚と一緒に例年通り墓参りをした。


 梨理も眠っているという墓に手を合わせた時、洋子を救えた礼を心の中で告げた。


 けれどそれ以上にもし梨理が望んでいる事があるのなら、叶えたいと思っている。


「……私が結婚式のオルガンを弾くといいのかな?」


 彼女の望みについて語るが、洋子は緩く首を横に振る。


「梨理は花音と常に一緒にいる訳じゃなくて、見守っているだけだと思うの。だからあなたの結婚式を誰よりも楽しみにしているはずだわ」


「うん……」


「ああ、それとね。秀真さんから打診があって、結婚式の時に演奏をしてもらえないかと言われたから、勿論快諾したわ」


「ほ、本当!?」


 前から秀真が「結婚式に洋子さんが何か演奏してくれたら、最高だな」と言っていたのは知っていた。


 花音もいずれ結婚式が近くなったら、祖母に話してみようと思っていたのだが……。


「きっとその時、梨理の願いも叶うんじゃないかしら」


 どこか遠くを見て言う洋子の声に、花音もそうであればいいなと思い頷いた。





 諸々の準備を終えて四月の中頃には、花音は東京に引っ越す事になる。


「今までお世話になりました」


 それまで暮らしていた賃貸マンションも丁度いい時期に引き払い、少しのあいだ花音は実家で寝起きしていた。


 ある晴れた日の土曜日、花音は新千歳空港で両親と洋子、安野に頭を下げる。


「何かあったらすぐに連絡するのよ」


 洋子に言われ、花音は「うん」と頷く。


「空斗の事も宜しくね。姉弟仲良く、東京で支え合って生きていきなさいね」


 母の奏恵の言葉にも、花音は頷く。


「うん。空斗に彼女ができないか、見張っとくよ」


 悪戯っぽい花音の言葉に、全員が笑った。






 やがて時間が迫り、花音は家族に一旦の別れを告げて搭乗した。


 秀真と会ってから東京には二度行っていて、飛行機に乗るのにも慣れてきた。


 花音はイヤフォンをつけてクラシックチャンネルを聞き、シートに身を任せて一時間四十分ほどのフライト時間を過ごした。





 東京での新生活は、まず周囲の道や交通機関を覚えるところからだった。


 以前に言っていたように、秀真は一軒家を購入するためにすでに色々手を回しているらしい。


 最終的に康夫の知り合いの資産家が、歳を取って子供、孫なども住まない家を手放すという話を聞き、そこを買い受ける事になったそうだ。


 屋敷とも言える家は老朽化が進んでいて、一度取り壊して新築するらしく、引っ越しまでにはまだ時間がある。


 その間、元麻布にある彼のマンションで同棲し、一人でも買い物ができるよう慣れていく途中だ。


 最初は東京に来てからの職探しを一番に……と考えていたが、春枝たち瀬ノ尾家の人々との歓迎会で思いとどまらされた。






『花音さんは、仕事をするつもり?』


 秀真の母に尋ねられ、花音はしゃぶしゃぶ肉を慌てて咀嚼して呑み込む。


『はい。特に秀でた技能はないのですが、事務仕事をするのに必要な資格は一通り取得していますので、いずれどこかで……と思っています』


 連れて行かれたしゃぶしゃぶ屋はもちろん個室で、ライトアップされ整えられた中庭を望みながらの食事だった。


『それなんだけどね、私たちはもう少しあとでもいいんじゃないかしら、って思うのよ』


 春枝におっとりと言われ、花音は『はぁ……』と彼女たちの主張を聞く。


『ハッキリ言ってしまうとね、花音さんが必死に働かなくても、秀真一人の稼ぎだけでも大丈夫だと思うの。その前に、二人の思い出を作っておくとか、子供に関する事とか、若いうちにできる事があると思うのよね』


『はい……』


 彼の母が言うとある種の説得感がある。


 秀真の母自身、瀬ノ尾グループの社長に嫁いで良かった事、不自由に感じる事があったのだろう。春枝も同じだ。


 だから、先輩二人の言う事にはきちんと耳を傾けようと思った。


『何も、早く孫の顔を見せろと言っているんじゃないわよ? 私だってそういう圧の大変さは分かっているつもりだから』


 春枝に微笑まれ、花音は頷く。


『母さんたちの言う通りだと思う。確かに秀真は多忙だが、いずれ私から社長の座を継いでもっと忙しくなる。そうなる前に、可能な限り若い二人でしかできない事をしておくのは、大切だと思う。時間が経つと共に資産は増えるが、老後には体力がなくなっている……とよく言われる。遊び歩けとは言わないが、今のうちに後悔のないよう過ごすのは私も賛成だ』


 秀真の父にも言われ、花音は『ありがとうございます』と頭を下げる。


『まぁそのうち、嫌でも婚約パーティーとか結婚パーティーで忙しくなるし、政財界の奥様方のお茶会にも呼ばれたりするから、ぶっちゃけ働いてる暇なんてないと思うわよ』


 秀真の母がカラカラと豪快に笑い、とんでもない事を口にする。


 怯えた花音の背中を、隣に座っている秀真がそっとさすってくれた。


『色々面倒な人に挨拶しないとならないのは本当だけど、きっと母と祖母が味方になってくれるから大丈夫だよ。……そうだよな?』


 秀真に言われ、春枝と秀真の母は『勿論よ!』と笑ってみせた。

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