第42話 未来に向けて
「まぁ、愛那さんも俺もそうであるように、人間は汚い部分もあるっていう事ですよ」
そう言って秀真は笑い、「彼とか、彼も……」と、今後愛那のターゲットになりそうな独身男性や、若い既婚男性を例に挙げて架空の性癖があると語る。
勿論、彼らには事前に「胡桃沢愛那には気をつけてほしい」という説明をした上で、この場限りで架空の性癖があると話すのは了承済みだ。
彼らも社会的地位のある人物で、望んでいない女性から迫られては困っているのは共通した悩みだ。
そんな中で、少しでも「近づきたくない相手」を排除できるなら……と、喜んで話にのってくれた。
愛那は鼻の頭に皺を寄せ不快を示す。
蝶よ花よと育てられた愛那は、理想が高く自己憐憫的だと集めた情報で分かっている。
自分をちやほやしてくれる存在を求め、親の前では徹底的に〝いい子〟〝模範的〟である事を貫いたため、その反動が見えないところに出ていた。
彼女の汚点を目の前でぶちまけた挙げ句、秀真は自分を〝下品で嫌な男〟として愛那に印象づかせ、嫌わせる戦法を採った。
「もう……! やめて! 二度と私に関わらないで!」
バン! とテーブルを叩いて立ち上がった愛那は、帰ろうとする。
その手首を秀真が掴んだ。
「その言葉に偽りはありませんね? もし今後あなたが私に何かしようとするなら、この方々からの証言をマスコミにリークします」
彼の言葉に、愛那は顔を引きつらせる。
「絶対に! あなたには関わりません! 汚い手で触らないで!」
叫ぶように言い、愛那は唾棄しそうな表情で告げてから、男たちを押しのけて店から出て行った。
秀真は彼女が店から出るまで見送り、その姿が完全に消えてから溜め息と共ににっこり笑った。
「はい、ご苦労様でした」
彼の声に、男性たちが笑い出す。
「いやー、スッキリしましたよ。あの女、大っ嫌いでしたから」
「それにしても、これでいいんですか? 追い詰めるならもっと他の〝証拠〟も持ってますけど」
男性の言葉に、秀真は首を横に振る。
「今はこれで様子を見ます。恐らくもう二度と彼女とは関わりができないでしょうが、〝証拠〟はこちらで買った上で厳重に保管します」
「分かりました」
「今回はご協力ありがとうございます。残りの謝礼はご指定の口座に振り込みますので、あとは他言無用でお願い致します」
そのあと、男性たちは挨拶をして去って行った。
彼らが飲んでいた酒を払う事にしたが、軽い経費だ。
「……あぁ、疲れた」
一仕事終えた、という晴れやかな表情で呟き、彼はホールスタッフを呼んで新しくハイボールを頼んだ。
そしてスマホを取りだし、花音にメッセージを送った。
『花音、こんばんは。きっともう心配はないよ』
すぐに花音から返事が来る。
『こんばんは。本当ですか? 愛那さんと会っていたんですか?』
彼女の顔を思い浮かべ、秀真は自分がとても下品で嫌な男である演技をし、無事に愛那から嫌われたとメッセージを打つ。
愛那の過去については、花音の耳に入れれば彼女を汚してしまうと思い、話さなかった。
そのあと花音から送られてきたのは、キャラクターが大笑いしている動くスタンプだった。
『凄い戦法をとったんですね! 下品な秀真さん、見てみたかった!』
花音が大笑いしている様子を思い浮かべ、秀真も一人表情を緩める。
『勿論、ふりだから花音は信じないでくれよ?』
『当たり前です!』
気持ちは、とても晴れやかだった。
これで花音と何の障害もなく結婚できる。
あとは彼女が年末に東京に来た時、プロポーズをするのみ――。
運ばれてきたハイボールを勝利の酒として飲み干した秀真は、会計をして颯爽と帰路につくのだった。
あれから秀真が何度か札幌まで来てくれ、お互いの無事と、もう何も心配はないだろう事を確認した。
花音は実家に帰ったついでに祖母の家に行き、空き時間を見てあの練習室で梨理に向かって礼を言った。
その時、洋子に呼ばれて少し話す事になった。
「もう、ピアノは大丈夫なの?」
時を超えても、〝花音〟がいる世界では六年前にコンクールで事故に遭った過去は変わっていないようだった。
そして花音の一回目のお願いも使われたあとというのは変わっておらず、洋子は花音に励まされて手術を受けて今日に至っている。
勿論、秀真たちとの出会いもそのままだ。
ピアノについて尋ねた洋子は、知り合いからもらったイギリスの紅茶を品良く飲む。
いまだ、祖母にピアノの不思議な力と、梨理について話していいものか分からないでいる。
「……全部大丈夫かは分からない」
花音は正直なところを答える。
「秀真さんが私の目の前でピアノを弾いてくれた時、それまで音楽、特にクラシックは絶対に聴きたくないって思っていたのに、彼の音が輝いて聞こえた。『あぁ、音楽ってこんなに素晴らしいものだったんだ』って思えて、もう一度音楽に向き直ってみようと思った。……まだ、自分で以前のようには弾けないけれど、少なくとも音楽には罪はないと思えるようになったし、街角やテレビで聞こえても、以前のように具合が悪くなる頻度は減ったと思う」
「……そう。良かったわ」
「必要に駆られて、二回、ピアノの曲を最初から最後まで弾いた事はある。一回目はとても怖くて、それでも何とかしないとと思って弾いた。二回目は自分の事どころじゃなくて、無我夢中になって弾いた」
洋子は静かに頷く。
「あとになって、『弾けるじゃない』って拍子抜けした。六年ブランクはあったけれど、体が覚えていた。完璧ではないけれど、趣味として弾く程度なら差し支えないぐらいには弾けた。手も思っていたより全然動いた」
「良かったわ」
洋子は微笑し、もう一口紅茶を飲む。
「でもこれが、〝復活〟に至るかはまだ分からない。そこは、自分と話し合ってゆっくり考えてみる。……ただやっぱり、私は音楽が好きでピアノも好き。コンクールで成績を残せなくても、私が音楽を愛している事に変わりはない」
「そうね。私もそう思うわ。音楽は強制して奏でるものではなくて、内側から溢れる感情を音にしたもの。梨理の事があって何よりそれを大切にしていたはずなのに、私はあなたの才能を前に一時的にも忘れてしまっていた」
悔恨を見せる洋子に、花音は笑いかける。
「もう、いいよ。終わった事。……私たちは未来をみないと」
呟いて、花音は膝の上で指を動かした。
頭の中で流れたのは、あの日秀真が弾いてくれた『華麗なる大円舞曲』だ。
孫のそんな様子を見て、洋子は穏やかに微笑んでいた。
他にも家族や親戚には口うるさく「何か不調があったら、面倒でも絶対に病院に行ってね」と言い続け、このところ気持ちはずっと平和だ。
そして年末に仕事納めを迎え、一度帰宅して荷物を持った足で、花音は空港に向かった。
金曜日のクリスマスイブは、さすがに混雑している。
みんな考える事が同じで、空港は人でごった替えしていた。
無事に東京に向かう事ができ、例によって羽田空港まで迎えに来てくれた秀真と一緒に彼の家に向かった。
マンションに着いた頃にはクタクタで、お風呂に入らせてもらったあと、大人しく眠った。
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