第39話 あなたに会いたい

「お祖母ちゃん」


 十一月になり、夜はすっかり冷えているので花音は薄いコートを着ている。


 コートを着たままリビングに入ると、ロッキングチェアに座っていた祖母がこちらを見た。


 安野もいて、二人はお茶を飲みながらテレビを見て、寝る前の時間を過ごしていたようだった。


「花音。急だったわね」


「うん……。練習室Cの、黒いアップライトピアノ弾かせて。そう長い時間は掛からないから」


 心臓病で死ななかったこの世界の祖母も、あのピアノの不思議な力、梨理の事は分かっているのだろうか。


 様々な感情を込めて祖母を見つめると、彼女は穏やかな表情で頷いた。


「望むように弾けるといいわね。気持ちを込めて、聴かせたい相手に届くように弾くのよ」


「……うん!」


 祖母は六年ピアノから遠ざかっていた花音が、急にピアノを弾くと言い出しても何も言わない。


 けれど言葉の奥に彼女の想いが秘められている気がした。


 ――救ってみせる。


 祖母を救えたのなら、秀真だって救ってみせる。


 それ以上の我が儘は言わないから、愛した人が生きている世界にいさせてほしい。


 花音は祖母と安野にペコリと頭を下げると、踵を返し一階に下りた。


 暗い一階の廊下の電気をつけ、花音は練習室Cに入る。


「梨理さん」


 コートを脱いでソファに置き、花音は誰もいないこぢんまりとした練習室で彼女に呼びかける。


「以前は助けてくれてありがとう。お陰でお祖母ちゃんの命を救う事ができました。あれから、好きな人ができて結婚できるかもしれない事になりました。……でも、その人が殺されてしまったんです」


 姿の見えない梨理に語りかけながら、花音は静かに涙を流す。


「多くは望みません。私はただ、秀真さんに生きていてほしいんです。彼とただ一緒にいたいだけ……」


 歯を食いしばり、頬を濡らす涙を手で拭った。


「お願いします! 梨理さんにばかりお願い事を聞いてもらって、図々しいのは分かっています。私ができる事なら、梨理さんの望む事を叶えます。だから……、力を貸してください……!」


 誰もいない空間にバッと頭を下げたあと、花音はコンクールの時のように緊張してアップライトピアノの蓋を開けた。


 椅子の高さを調節し、座ったあとに楽譜のない譜面台を見つめる。


『気持ちを込めて、聴かせたい相手に届くよう弾くのよ』


 先ほどの祖母の言葉が脳裏に蘇る。


 ――伝えたいのは……。


 秀真、梨理の二人ともだ。


 愛していると、会いたいと伝えたい。


 あなたの声がもう一度聴きたいと、音色に乗せて届けたい。


 弾く曲を決めて、花音は両手を鍵盤の上にのせた。


 左手を黒鍵に滑らせ最初の一音を出したあと、花音の右手は滑るように動く。


 リスト『愛の夢第三番』。


 これも沢山練習した曲で、暗譜ならできている。


 左手の主旋律を美しく歌わせ、週間への想いをのせてメロディーを奏でてゆく。


 ――秀真さん。


 ――あなたに会いたい。


 ――あなたを幸せにしたい。


 涙を流し、視界が曇りそうになる中、花音は体で覚えている指運びで『愛の夢』を熱演する。


 一音一音を大切にし、秀真を愛しむ気持ちを込めながら鍵盤を弾いた。


 脳裏に蘇るのは、六月に病院で彼と出会ってから過ごした、半年近くの時間。


 誰に望まれてもおかしくない素敵な人なのに、秀真は花音を選んでくれた。


 梨理のピアノを弾いて戻った先で出会ったので、彼と自分は運命で結ばれているのでは、とすら思っている。


 ――お願い、もう一度秀真さんに会わせて。


 ペダルを踏み、高音から低音に向かう手が宙で弧を描く。


 熱を込めるクライマックス部分を弾いたあと、囁くような音量で穏やかに優しく指を動かす。


 手を交差させて弾く奏法でまた主旋律に戻り、ラストは祈りを込めて静かに、丁寧に音を押さえた。


(あ……)


 急に眠気と疲れが訪れ、花音の目蓋を閉じさせる。


〝あの時〟と同じだ。


(お願い、……連れて、…………行って……)


 せめてピアノの蓋だけは閉じようと思ったのに、指一本動かせないまま花音の体はガクンと傾き、壁の方に向けて倒れる途中――――水に溶ける砂糖のようにかき消えた。





 誰もいなくなった練習室Cに、洋子が訪れる。


 階上にいても微かに聞こえていたピアノの音色が聞こえなくなり、頃合いを見計らって下りてきたのだ。


 洋子は挨拶もなく花音が姿を消した事について何も言わず、微笑んだまま黙ってピアノにキーカバーを掛け、静かに蓋を閉める。


 花音が脱いだはずのコートも、ソファには残っていない。


「梨理、……あの子を守ってあげてね」


 語りかけた亡き娘の姿は、見えない。


 だが洋子はこのピアノを弾く時だけ、梨理が姿を現し話しかけてくれる時間を過ごしていた。


 そんな中、梨理は花音の事をとても気に掛けていた。


 ――事故に遭って可哀想ね、梨理みたい。


 ――花音ちゃんなら、私、お願いを聞いてあげてもいいよ。


 不鮮明な、夢の中のような声だけれど、確かに梨理の意思はそう洋子に語りかけていた。


「私はどうなってもいい。若い子たちの未来が、常に開けていますように」


 呟いた洋子は、テーブルの上に置いてあったスマホで孫に電話を掛けた。


 数度のコール音のあと、〝花音〟の声がする。


『もしもし? どうしたの、お祖母ちゃん』


「急に声が聞きたくなって。今どうしてた?」


『ん? 普通だよ? これから適当にテレビを見て寝るつもり』


「たまには遊びに来てね」


『うん、分かってる』


 その様子から、洋子は電話の向こうの彼女は、秀真と出会っておらず、梨理の事もこのピアノにも関わっていない花音だと推測する。


 見えざる力が働き、花音が消えた世界には、世界に何も影響を与えない花音が別の世界から現れる。


(私は〝ここ〟から、見守っているからね)


 花音との電話を切ったあと、洋子は何でもない顔をしてリビングに戻った。


「急にどうされたんです?」


「戸締まりが気になったから、下りてみたの」


「それなら、私に言ってくださればいいのに」


 安野に言われ、洋子は微笑んでロッキングチェアに座った。


 テレビを見ながら、洋子は自分の頭の中から、花音が秀真と仲睦まじくしていた記憶が薄れてゆくのを感じる。


 ――これでいい。


 ――別の世界であの子が幸せになれるのなら……。


 そのあと、洋子は薄れゆく記憶に逆らわず、いつものようにテレビに目を向けた。





 ハッ……、と目が覚めると、周囲は暗い。


 花音は仰向けになって寝ている。自分の部屋ではなく、窓の外からは遠く喧噪が聞こえた。


 すぐ近くに人の気配がしてそちらを向くと、秀真が静かに眠っていた。


「っ……秀真さん……!」


 ――生きてる!


 花音は思わず彼に抱きつき、静かに嗚咽した。


「……ん……。花音……?」


 目を覚ました秀真は、手を伸ばして枕元の電気をつけ、花音を抱き締めてくる。


「……どうした? 悪い夢でもみた?」


「秀真さん……っ」


 花音はベッドの上に座り、彼に力の限り抱きついた。


 そのうち涙はどんどん流れて止まらなくなり、体も酷く震えてくる。


 子供のように泣く花音を、秀真は何も言わず抱き締めてくれていた。

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