第37話 訪れた死

「少なくとも、あなたの言葉、考え方は正常とは言いがたい。あなたが自分を改めたとしても、俺はあなたと結婚するつもりはありません。最初から、そう申し上げています」


 愛那は能面のように無表情な顔で、しばらく秀真を見つめていた。


 美しい顔をしているのに、その瞳の奥には何も映っていない。


 ただうつろな闇があるだけだ。


「……どうしても私のものにならないと仰るの?」


「ええ、決して。ご自身にどのような力があっても、人の心まで動かせると思わない方が宜しい」


 終始キッパリと愛那を拒絶した秀真に、愛那は瞳に憎悪を宿し、表情ではとても麗しく笑ってみせた。


「――そう。残念です。あなたとはこれでお別れですね」


「……ご理解頂けて何よりです」


 話が終わったと思い、秀真は息をついて立ち上がった。


 愛那に会釈をし、ソファに掛けてあったコートを手に取る。


 そのまま玄関に向かおうとした時、リビングの隅にいた男性がスッと近付いてきた。


「見送りは結構…………」


 男に言葉を向けようとした時、秀真の脇腹にぶすりと何かが刺さった。


「………………は…………?」


 体の内部に異物が潜り込む違和感に、腹部への凄まじい痛み。


 ――刺された!


 そう自覚した途端、秀真は音もなくその場に崩れ落ちた。


「あなたが悪いんですよ? 秀真さん。私がこんなにプライドを捨てて『結婚してほしい』って言っているのに、断るから」


 愛那の声が背後から近付いてきたと思うと、うずくまった秀真の前にほっそりとした足が出された。


 視線を上に向けると、心因性で歩けないと言っていた愛那が、秀真の前に立っている。


「私の足を舐めて『一生奴隷になる』と誓うなら、救急車を呼んで差し上げます」


「……っ、誰、が…………っ」


 刺されてなお反抗する秀真は、渾身の力を振り絞って立ち上がろうとする。


「ぐっ……!」


 が、腹部に力を入れた途端に傷が痛み、くぐもった声を漏らしてまたうずくまった。


「そのまま死ねばいい。秀真さんなら、きっと死に顔も綺麗なんでしょうね」


 愛那が秀真の髪を優しく撫でてきた。


 彼女がここまでやるとは思わず、秀真は完全に裏を掻かれて窮地に陥っていた。


「このままだと失血死かしら? 可哀想」


 他人事のように言う愛那は、秀真の体を仰向けにして腰の上に跨がってきた。


「ねぇ、死んでしまう前に私と楽しみませんか? 秀真さん、とても男らしい体をしていて、以前から素敵と思っていたんです」


 秀真が刺されてこのままでは死んでしまうと言うのに、愛那は彼のシャツのボタンを外し、肌を露わにしようとしている。


 ――どうして見抜けなかったんだ。


 愛那が孕む闇がここまで深いものとは思っていなかった。


 心の奥底からねじ曲がっている人は、表向き善人で常識人の仮面を完璧に被っているのかもしれない。


 ――見抜けなかった俺の負けだ……。


 秀真は傷みと屈辱で目の前が真っ暗になるのを感じながら、心の奥底で花音に深く謝罪した。





 十一月三日の朝に秀真から「おはよう」と挨拶があったあと、また彼からの連絡が途絶えた。


 それでも、「当分はバタバタするから」と聞いていたので、その一環だと思い騒がないようにしようと決めていた。


 ――が、十二日金曜日の夜に春枝から電話があり、なぜだか嫌な予感がした。


 胸騒ぎを抱きながら、花音は春枝からの電話に応じる。


「はい、花音です」


 嫌な音を立てる胸を押さえ、花音はなるべく明るくふるまって返事をした。


『……花音さん? 少しぶりね。お元気?』


 話し掛けてくる春枝の声は、小さく細かった。


 さらに嫌な予感が増し、花音は彼女の声を聞き逃さないようにと、音量を落としていたテレビを消した。


「私は元気です。…………その、何かありましたか? …………秀真さんに」


 何事もない事を願って、冗談半分に笑いを交えて尋ねたつもりだった。


 だが花音の声色はどちらともつかない中途半端なものになり、余計気まずい空気になってしまった。


 春枝はしばらく黙っていたが、ゆっくり、現実を伝えてきた。


『秀真は、死んだわ』


「…………」


 その言葉を理解できず、花音は沈黙を返す。


(今、何て言ったの? しんだ? しんだ、って……。死んだ、の? 何で……?)


 理解できていない花音は、涙を流す事すらできない。


『発見されたのは、胡桃沢愛那さんのマンション近くのゴミ捨て場。彼女が雇っていた身の回りの事をする男が、自首したわ』


 それを聞いた瞬間、花音の中で「嘘だ!」と声がする。


 花音は秀真から、愛那が自作自演で金田という男に自分を刺すよう命じたと聞いていた。


 今回だって、その男が愛那の手下となって秀真に手を下したに決まっている。


「しゅ……っ、秀真さんは……? 秀真さんは……?」


 頭の中では愛那に対する警報を鳴らしていても、現実の花音は必死に秀真の〝今〟を追おうとしていた。


『ごめんなさい。……ゴミ捨て場で発見された時点で、死後数日経っていたようなの。警察が遺体を検査して、ようやく今日火葬できたの。……だから、葬儀に呼べなくてごめんなさい』


「………………は、…………い……」


 スッ……と世界中から音が消えたように感じられた。


 全身の感覚もなくなり、今日が何月何日で、電話がくる前に自分はこれから何をしようとしていたのかすらも、すべて頭から抜けた。


 ――秀真さんが死んだ?


 ――もう、この世にいないっていう事?


 ――冗談にしては……。


 そこまで思った時、心の中でもう一人の花音が反論する。


 ――春枝さんがこんなタチの悪い嘘を言う訳がないでしょう。


 ――肉親が『死んだ』と言ったのなら、事実に違いない。


 ――今は取り乱さず、春枝さんを気遣って、ご挨拶に伺っていいのか尋ねないと。


 心の中で様々な花音が言葉を交わし、会議をする。


 が、現実の花音は脳内でのったりと糸を引く意識のまま、春枝に何も反応する事ができないでいた。


『こんな事になってしまって、ごめんなさい。……あの子、今年のクリスマスには花音さんにプロポーズするって言っていたの……っ。……わた、……私たちも、……花音さんを家族として迎えるのを楽しみにしていたのよ……っ。本当なの。……っなのに、……ごめんなさいね……っ』


 あの朗らかな夫人が、電話の向こうで脆く泣き崩れている。


 彼女の泣き声を聞いて、花音は秀真が本当に死んでしまったのだと実感した。


 声が、上手く出せない。


 春枝に何とお悔やみの言葉をかけていいか分からず、花音は電話口でただ呆けるしかできなかった。


「…………心痛、お察し致します……。……落ち着いた頃に、……伺ってもいいでしょうか?」


『ぜひ来てちょうだい。……花音さんなら、私たち、心から歓迎するから……っ』


 そのあと、あまりに春枝が痛々しいので、また改めて連絡すると告げて早々に電話を切った。


 ――どういう事……?


「……どうして、……秀真さんが死んじゃったの?」


 ――愛那がやったに決まっている。


 心の中で、花音は決めつけてしまう。


 そのあと、花音は必死になってネットニュースを検索した。


 見つけたのは、『港区のゴミ捨て場に成人男性の遺体発見』という記事だ。


 記事では遺体は死後数日経っていて、多量失血したあとだと書かれてあった。


 他はどれだけ探してもニュースはなく、花音は興奮しきって眠れないまま、一夜を明かした。

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