第36話 毒蛇
十月二十三日に愛那が刺された事件は、それほど大きな事件にはならなかったようだ。
秀真が関わっているので、もしかしたら瀬ノ尾グループの方で大事にならないよう取り計らったのかもしれない。
札幌に戻ってから一週間ほど、愛那が刺された事件がワイドショーなどに取り沙汰される事はなかった。
ハロウィンを迎える前に、スマホを新しくした秀真からきちんと連絡はあったので、ひとまず安心する。
ただ電話をした時にあまり調子が良くなさそうなので、ずっと心配はしていた。
加えて、愛那が刺されたのは、自作自演による可能性が高いとも聞いた。
『彼女は死ぬかもしれない怪我を負ってまで、俺を手に入れようとしている。並みの執着心じゃない、異常な心理だ。何をするか分からないから、札幌にいても身の回りには気を付けてくれ』
「分かりました。夜に一人で出掛けたりしないように心がけますし、安心してください」
花音が住んでいる賃貸マンションはオートロックだし、防犯カメラもきちんとついていて管理人、警備員もいる女性向けの物件だ。
それを伝えると、秀真は一応安心してくれたようだ。
『今回の事で、少しまたバタバタするかもしれない。また連絡が遅れるかもしれないけど、ごめん』
「大丈夫です。今回はちゃんと伝えてくれましたし、事情も分かっていますから」
そのあと、たわいのない話をして電話が切れた。
なるべく気にしないようにして、日常を送ろうと努力した。
時たま、あのピアノの事が頭をかすめるが、まだ取り返しのつかない状態になった訳ではないと、自分に言い聞かせる。
三回までなのだとしたら、自分のこれからの人生の中で三回だ。
そのうちの一回を、もう使ってしまっている。
(『何かあれば戻ればいい』なんて思っていたら駄目だ。後悔しないように、常に最善の事を考えて毎日を生きないと)
そう思うが、人間、自分がいま選択した事が正解かどうかなんて、あとになってからしか分からない。
毎日「これでいいのかな」と思いながら、花音は十一月を迎えた。
「愛那さん、頼む。俺との結婚は諦めてくれ」
彼女の病室に足を運んだのは、何回目だろう。
十一月三日に愛那を彼女の自宅まで見舞った秀真は、車椅子を傍らに、ソファに座った彼女に頭を下げた。
場所は愛那が所持しているタワーマンションの一室で、リビングの端には彼女の身の回りの事をしているらしい男性が立っていた。
「責任を取らないと仰るの?」
いつもの、どこか夢見心地な声が秀真を責める。
愛那の声を聞くと、まるで蛇が素肌を這ったかのような感覚に陥った。
ざらり、と心の奥底にある嫌な感情を呼び起こす声だ。
「責任は感じています。ですが俺の心を縛ろうとするのはやめてください。こんな事をして結婚しても、あなたにいい感情を抱けるはずがない」
もっともな事を言っても、愛那はキョトンとした顔でまったく理解しようとしていない。
金曜日の見舞いから四日の間で、秀真は家族や秘書たちから愛那について情報を得ていた。
いわば彼女は生まれながらのお嬢様で、自分の意に沿わない事がなかったらしい。
彼女自身賢い人なので、求められるがままに勉強し、〝お嬢様のお手本〟として育った。
親から見れば反抗期もなく、美しく健康に育ち、学校の成績も良く、さぞ自慢の娘だろう。
だからこそ愛那の両親も、彼女が望めばどんな願いでも叶えてやろうと思っても仕方がない。
だがそれは親の欲目だ。
見えない部分で愛那がどれだけ異常な言葉を口にし、行動をしていても、最終的に親の耳に入る情報が操作されていれば、〝何の問題もなかった〟事になるのだ。
そこまで、愛那という女性は狡猾で頭が良かった。
「お見合い結婚でも、結婚後に上手くやっている夫婦は幾らでもいます。私は秀真さんの事を愛しています。きっと秀真さんだって、私の愛情の深さに気付くはずです」
「……あなたは、俺の事を何も知らないでしょう。少ない回数、社交辞令的に食事をしただけ。俺はあなたを異性として見ていないし、そういう目的で接した事もない。あなたが一方的に気持ちを大きくさせているだけです」
話の通じない相手に、さすがの秀真も苛立ちを隠せないでいる。
「私と結婚したら、瀬ノ尾グループはより強固な会社になります。それでも?」
「俺は損得勘定で結婚相手を見つけようと思っていません。そういう相手を探していたなら、もっと早く政略結婚していたでしょう。両親も祖父母も、俺の気持ちを尊重してくれていたから、好きな人が自然にできて『結婚したい』と報告するまで待っていてくれたんです」
秀真の言葉を聞き、愛那は頬に手を当てて憂うように息をついた。
「天下の瀬ノ尾グループの経営者も、随分甘っちょろい事を考えているんですね」
「他人の家庭の事は放っておいてください」
「私、優秀な赤ちゃんがほしいんです」
「は?」
子供を道具としてしか見ていない発言に、秀真はギョッとして思わず声を漏らした。
「私は女性としてとても優秀だと自負しています。美しいし頭もいいし、健康そのもの。資産だってあるし、実家は太い。秀真さん、あなたも同じです」
自分を〝条件〟でしか見ていない愛那に、秀真は嫌悪を抱いた。
「今まで私に求婚してきた男性は、私の外見と実家を見ていました。ですが私は求められるだけ? 私も求めたらいけない? 私だって見目麗しい男性を毎日見て過ごしたい。美形の夫との間に生まれた子なら、きっと深く愛せると思うんです」
彼女の言葉を聞いて、秀真はうっすらと彼女の育った環境を察した。
愛那は素のままの自分を愛してもらって育ったのではない。
彼女自身が幼い頃から〝演技〟をして〝いい子〟で育ったから、〝模範的ないい子〟として愛されただけなのだ。
その箱庭のような愛情を、愛那は自分の家庭、子供にも繰り返そうとしている。
――反吐が出る。
心の中で呟き、秀真は表情を険しくする。
「愛那さん。あなたの育った環境をとやかく言うつもりはありません。すべて想像でしかないし、それをあなたに押しつけるのは失礼だ。ですが仮にあなたが抑圧された生き方をしてきたとして、その呪いを自分が築く家庭や子供に押しつけるのは間違えている。あなたは結婚や子供を望む前に、もっと自分自身を見つめて、カウンセリングに通うなどして自分を救った方が宜しい」
秀真が厳しい言葉を放った時、それまで常に微笑みを絶やさなかった愛那が、スッと真顔になった。
「私の育ち方が間違えてきたって言うんですか? 私を異常者だと仰るの?」
どうやら彼女の地雷を踏んでしまったらしいと気づき、秀真は腹を決める。
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