第35話 脅迫
「まず……。俺のために怪我を負う事になり、申し訳ございません」
深々と謝罪すると、愛那が微笑んだ。
「好きな方を庇えたんですもの。私は本望です」
「あなたを刺した男は、うちの会社の社員だった者です。不祥事を起こして懲戒処分としましたが、関係者であった事に間違いありません。加えて、懲戒処分にした関係で、私を恨んでいた可能性も高いです。……それにあなたを巻き込んでしまい、申し訳なく思っています」
秀真の謝罪を、愛那はいつもの微笑みを浮かべたまま聞いている。
「女性の体に傷をつける事になり、言葉もありません。誠意を見せたいと思いますので、望みがあれば何なりと仰ってください」
真摯に告げた秀真に、愛那は目尻を下げてニコォ……と笑った。
その微笑み見た瞬間、秀真の体に悪寒が走る。
「――なら、花音さんと別れて私と結婚してください」
「…………何を……」
笑っているのに、目が笑っていない。
うつろな闇を湛えた目を向けられ、とんでもない事を言われて秀真は言葉を失う。
「先日お医者様から、お手洗いなどにも自分で行っていいですよ、と言われました。なのに私、歩けなかったんです」
微笑んだまま言われ、秀真の背中に冷や汗が浮かぶ。
愛那は狂気を孕んだ笑みを浮かべたまま、そっと秀真に手を差し伸べてきた。
「体の機能的には問題ないらしいのですが、心因性ですって。とても怖かったのですが、愛する秀真さんのためですもの。とっさに足が動いてしまいました。でも……怖かったです。冷たい刃が肉に埋まって、そこからカーッと全身が熱くなっていくんです。血が流れていくのが分かりましたし、ドクドクって脈打つ感覚もありました」
――なんだ、〝これ〟は。
目の前にいる、女の姿をした狂気を前に、秀真は怯えを感じていた。
「私、この先一生歩けないかもしれないんです。大好きな演奏会にも、車椅子になるでしょうね。……その時、花音さんと一緒の秀真さんにお会いするのかしら? 私が刺されたのを見たのに、花音さんは秀真さんと二人で歩いているんですね。その頃には、二人の間に可愛いお子さんがいるんでしょうか?」
愛那はあり得るかもしれない未来を口にしているだけだ。
だが秀真には、「そうなったら絶対にすべてぶち壊してやる」と言葉の裏で脅しているように感じられた。
「私は歩けなくなったのに、秀真さんと花音さんだけが幸せになるなんて、不公平ですよね?」
やんわりと、愛那が真綿で包むように脅してくる。
「瀬ノ尾グループの副社長さんなら、ここで私と結婚して責任を取ったほうが、世間体がいいんじゃないでしょうか?」
痛いところを突かれ、秀真は言葉を返せない。
それでも、花音と結婚したいという未来は絶対に諦められなかった。
「何をしたら許してくれるんですか?」
「いやですね、許すだなんて。私、怒っているだなんて言いましたか?」
突破口を見いだそうとしても、愛那ははぐらかして応じてくれない。
「花音に害をなす事だけは、絶対にやめてください」
「私がそんな事をする女に見えるんですか? 傷ついてしまいます」
歌うように言う愛那に、もう正論が通じるように思えなかった。
「第一、遠い札幌にいる花音さんの身の上に、何が起こるかなんて私に分かる訳ないじゃないですか」
「っ…………」
花音はもうすでに、愛那の手の者に見張られているかもしれない。
室内にいるというのに、秀真はとてつもない寒気を覚えていた。
「……花音にだけは手を出さないでください」
「いやですねぇ。本当に秀真さんったら、思い込みが激しいんですから。私はただ、『結婚してください』って申し上げているんです。……本当なら、女性の私から言わせるのではなくて、秀真さんからプロポーズされたかったんですけれどね」
大した言い合いをした訳でもないのに、秀真は疲弊しきっていた。
「……少し、考えさせてください」
立ち上がった秀真は、辞する姿勢を見せる。
「考えても考えなくても、秀真さんが取る行動は一つだと思いますけれどね。だって、私は腐っても胡桃沢商事の娘ですもの」
それは、言われなくても分かっている。
愛那は、日本八大商社に入る胡桃沢商事の社長令嬢だ。
本人も商社で働き、二十七歳ながら子供の頃から資産形成をして相当の財があると、以前に聞いた。
お嬢様という肩書きがなくても、彼女は十分自立した〝強者〟なのだ。
愛那が本気になって金を使えば、花音は簡単に潰されてしまうかもしれない。
商社として関わる以外に、あらゆる方法で花音に害を与えられると考えていい。
秀真一人の問題なら、どうにかなったかもしれない。
だが花音や洋子たちに迷惑が掛かる可能性があるなら、何をどうしても防がなければならない。
暗鬱たる気持ちで病室をあとにした秀真は、駐車場に待たせてあった車に乗り、帰宅した。
『副社長が事件に巻き込まれたという事で、警察に金田の言い分を聞いてきましたが……』
その後、車内で秘書からの電話を受ける。
『金田は〝あの女に自分を刺すよう命令された〟と主張しているようです』
「…………」
暗くなった車内で、秀真は脚を組み溜め息をつく。
「愛那さんがどこかで金田と繋がりを持ち、自分の言う事を聞かせるよう手懐けたという事か」
『恐らく』
(……彼女ならやりかねないな)
愛那は傍から見れば極上の美人だ。
スタイルもいいし、頭がいいので人を不快にさせない受け答えも上手で、彼女と話した人のほとんどが「素敵な女性」という評価を出す。
ごく一部、野生の勘のようなものを持つ人や、少し前の花音のように、愛那から敵意を剥き出しにされた人はそう思わないだろうが。
秀真自身は愛那の美貌や頭の良さを認めても、女性としての魅力を感じなかった。
多才な人であるがゆえに、抱えている闇が大きそうだと初対面の時にピンときたのだ。
人間だから、どのような側面を持っていてもおかしくない。
だが付き合うからには、自分で自分の感情を御しきれる人に限る。
不機嫌になった時に、自分の美貌や魅力を盾にして許されようとする女性を、秀真は何人も見てきた。
だから愛那と初めて会った時に、漠然とした感覚だが「この女性に深入りするのはやめておこう」と思ったのだ。
逆に花音は表面的な感情の揺らぎがあっても、奥底にどっしりとした落ち着きを感じる。
なので秀真も、「彼女となら……」と未来を考えた。
今は花音と話すたび、メッセージを交わすたび、彼女の気遣いや言葉選びなどに、どんどん魅力を感じる。
――花音。
心の中で愛しい彼女に呼びかけ、秀真はギュッと目を閉じる。
「……彼女が自作自演で金田に自分を刺すよう命じたとして、その目的は俺との結婚か……」
分かりきっている結論を口に出し、秀真は溜め息をつく。
「……そこまでするほど、俺の事を知らないだろうに」
そのあとにボソッと呟いたのは、完全に独り言だ。
愛那とは本当に数度会って、社交辞令的に何度か食事をした程度だ。
もしかしたら演奏会で偶然会ったのを、あちらは運命だと思っているかもしれないが、秀真からすればたまたまの出来事だ。
お互い音楽に興味があるなら、都内の演奏会で顔を合わせるのも〝運命的〟など言わない。
秀真だって演奏会に行くたび、毎回決まった〝上流階級の面々〟と会っている。
『副社長はご自身が思っている以上に、女性にとっては優良物件なんですよ。見目麗しいですし、温厚で特に欠点がない。多少根暗ですが、夫にすれば将来安泰なんでしょう』
歯に衣着せない秘書の物言いに、秀真は思わず笑みを零す。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
『ありがとうございます。それは別として、金田の事は会長や社長にもご報告しました。恐らく今夜中には副社長にご連絡がいくのでは……と思っております』
「分かった。報告ありがとう」
一度秘書との電話を切り、秀真は溜め息をつく。
結局、スマホの事を愛那に聞けずじまいだった。
(面倒な事になりそうだ)
あの蛇のような女が、ちょっとやそっと周囲に怒られたからと言って、自分の意志を曲げるように思えない。
何より最悪なのは、本来なら子供の歪んだ行動を諫めるべき親が、愛那の言いなりになっている事だ。
(祖父母も、両親も、俺が花音と結婚したいと思っているのは理解している。許可も得ていて、今後に花音にプロポーズしたあとの予定も話している)
だから大丈夫だと自分に言い聞かせたいのに、どうしても嫌な予感は払拭できなかった。
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