第32話 消えたスマホ

「……本当に花音だ。ずっと夢に見ていたけど……、ああ……。ちょっと、こっちに来て抱き締めさせて」


 秀真は両手を広げ、花音は椅子の上に菓子折の入った紙袋とバッグを置き、「お邪魔します……」と彼の腕の中に収まった。


(あ……。秀真さんの匂いがする)


 いつも彼から香っていた匂いが、微かにだが感じられる。


 きっとこの香りは香水的なものなのだろうけれど、もう彼の体臭の一部になっているのだと思った。


「……あぁ、花音の香りだ」


 と、秀真が自分と同じ事を考えていたと知り、恥ずかしくなる。


「……私、匂いなんてしますか?」


「うん、俺だけが分かる、花音の甘い匂いがするんだよ」


 甘いと言われて安心したが、どうにも自分から匂いがすると言われると、変な匂いではないか心配になってしまう。


(早足で来たから、汗ばんでないかな)


 遅れてそんな事も心配しだし、花音は頃合いを見計らったふりをして秀真から体を離した。


「あの、これ。お見舞いのお菓子です。お口に合えばいいんですが」


「わざわざありがとう。気を遣わなくて良かったのに」


 改めて形式張った挨拶をし、花音は進められるがままにベッド横にある椅子に腰掛けた。


「凄い病室ですね。ホテルみたい」


 素直な感想を口にすると、秀真が苦笑いする。


「ここの病院には、家族で世話になっているんだ。主治医は祖父のような存在でもあって、今回過労で倒れたと言ったら、しこたま怒られた」


「ふふ……っ」


 春枝から聞いていたものの、ばつの悪そうな秀真を見ると、つい笑ってしまう。


「花音はいつまで東京にいるんだ?」


「あ、今日中には帰ります」


「え?」


 一泊二日ぐらいに思っていたのか、秀真は目を見開いて驚いたあと、「そうだよな……」と呟く。


 そして改めてまじめに頭を下げた。


「心配掛けてすまなかった。祖母と話をしたというなら、あらかた聞いていると思う。すべて自己管理ができていなかったのが原因で、その上花音にも心配かけてしまってすまない」


「いいえ、倒れたと聞いて心臓が止まったかと思いましたが、無事で良かったです」


「……ありがとう。……ダメだな。俺はこうやって、いつも花音の優しさと人の良さに甘えてしまう。今回の事だって、俺が事前に説明していれば余計な心配をかける事もなかったんだ」


 反省する秀真を見て、「そんな事はないですよ」と思わず言いかけた。


 だが今後、彼が自分と結婚する未来を考えてくれているなら……と、少し厳しめに意見を言おうと決めた。


「次に何かあった時は、一言でいいので連絡をもらえたらと思います。それだけで、『今は事情があるんだな』って思えて、きちんと待てますので」


「分かった。花音の言う通りにする」


「約束です」


 微笑んでその話を終わりにしたあと、花音は安心しきって大きく息をついた。


「……本当に良かった」


「すまない」


 重ねて詫びる秀真に、「それ以上謝らなくていいです」と言ってから、花音はもう笑い話にしてしまおうと、電話の事を話題にする。


「メッセージアプリは既読になっているのに、メッセージを送っても連絡がなくて……。一度電話をしてしまったんです。でも通じたと思ったら切れてしまって。私も、事情を知らなかったのでしつこく電話してしまって……。そのうち『お掛けになった電話番号は……』ってなったので、つい焦ってしまったんです。それで春枝さんに連絡をしてしまいました」


 花音としてはこうなった経緯を話したつもりだったのだが、秀真は驚いたように瞠目し、固まってこちらを見ている。


「……どうかしましたか? ……やっぱりしつこかった……でしょうか?」


 心配になってソロリと窺ったが、秀真はしばらく黙ったままだった。


 その表情がとても真剣なので、花音もつい息を呑んで彼を見守る。


 やがて秀真が、花音の言葉を確認してきた。


「すまない、電話をくれたのは何日の事だろうか?」


「昨日の朝です。時間は午前中の九時半ほど」


「その電話に、誰かが出た?」


「はい。ですが言葉は交わしていないんです。でも、車の走行音や生活音みたいなものが聞こえて、誰かが電話の向こうにいるのは分かりました」


 また秀真は少し黙ったあと、絞り出すように事実を告げる。


「……諸々、不義理をしていた事は改めて詫びたい。その上で、昨日、俺は花音からの電話を受け取っていないと伝えないといけない」


「えっ?」


 訳が分からず、花音は秀真を見つめる。


 けれどこちらを見る秀真も、混乱した表情をしていた。


「仕事用のスマホやタブレット、ノートパソコンは、さっきも言った昔からの主治医に言われて、秘書が全部持っていった。別途、私用スマホはこの部屋のどこかに置かれていると思っていた」


 雲行きが怪しくなり、花音は表情を強張らせる。


「最初はスマホを見る気力もなかった。その期間に連絡できなかったのは、心から詫びる。だがそのあと、起きて食事ができるようになってから、俺からも花音に連絡しようと思ったんだ」


「……スマホがなかったんですか?」


 思い当たった事を口にすると、秀真は難しい顔をして頷く。


「見舞いに来てくれた祖母や秘書に話を聞いても、知らないと言っている。入院時に俺に付き添って、手続きなどを取ってくれたのも秘書だったが、彼はベッドサイドの引き出しにスマホをしまったと言っていたんだ。……だが、それがない」


 花音は何も言えず、呆然として秀真の言葉を聞いていた。


「秘書が言った通り、充電器は引き出しに入っていた。長年一緒に仕事をしている秘書で、きまじめな性格や仕事ぶりも評価しているから、彼が嘘を言うなど思えない。万が一ミスをしたとしても、きちんと自己申告する人だ」


「じゃあ……、誰かが持っていった?」


 考えたくない事実を口にすると、秀真が苦々しく頷く。


「今までは、きっと家族が持っていったのでは……と楽観視していた。入院は一週間ほどで大した期間じゃないから、花音には少し待たせてしまうけれど、退院したらスマホを返してもらって連絡しようと思っていた」


 嫌な予感がどんどん胸の奥で膨れ上がってゆく。


「スマホは家族が持っていると思い込んでいたから、仮に花音から急な連絡があっても、対応してくれると思っていた。だから昨日、花音が電話を掛けて繋がったのに何の反応もしなかったというのは、家族じゃない可能性が高い」


「解約した方がいいんじゃないでしょうか?」


「そうする。毎日夕方には秘書が会社の事を報告に来るから、その時に頼んでおく」


 そのあとしばらく二人は考え込み、沈黙が落ちる。


「……あの、思ったんですけど、秀真さんが運び込まれてすぐって、誰かがお見舞いに来ていても秀真さんは気付かないじゃないですか」


「ああ」


「その時に誰かが病室に来て、スマホを持って行った……? とか。……こういう、疑うのは良くないですけど……」


「……看護師さんに訊いてみようか」

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