第10話 瀬ノ尾秀真

 本来の運命なら、洋子が亡くなるのは六月九日だ。


 その日が近付く前に、花音はこまめに病院に通って祖母と話していた。


 洋子は「忙しいんだから、そんなに頻繁に来なくていいのよ」と言うのだが、嬉しそうだ。


 花音は友達や同僚からの誘いも断り、祖母の見舞いに通い詰めた。





 そんなある日、土曜日の午後に見舞いに行くと、見知らぬ見舞客がいた。


 病室に入る前、男性の声が聞こえる。


 てっきり親戚の叔父たちの誰かかと思って「お祖母ちゃん」と声を掛けて部屋に入ると、見た事のない美形の男性がこちらを振り向いた。


「えっ!?」


 部屋の椅子に座っていたのは、スーツを着た三十代前半の男性と、その祖父母らしい、洋子と歳の近い男女だ。三人とも身なりが良く、上品な雰囲気を発している。


「お孫さんですか?」


 こちらに背を向けて座っていた男性が立ち上がり、花音に向き直って会釈をした。


(わっ、背が高い……!)


 男性は立ち上がると、モデルかと思うほど身長が高かった。


 それだけでなく、スーツを着た上からでも体つきががっしりしているのが分かる。


 アメフト選手ほどムキムキではないけれど、適度に体を動かしているのだと一目で分かった。


 そして体の軸がしっかりしていて、立ち姿が美しい。


 洋子は本格的ではないものの、時々歌の生徒を受け持つ事もある。


 そのせいか「体幹がしっかりしている人は、声の通りもいいのよ」と言っていた。


 だから男性が通りのいい声で「初めまして」と挨拶をした時、祖母の言っていた事に納得したものだ。


「……は、初めまして。祖母の……孫の、……花音です。美樹花音と申します」


 紫陽花柄のワンピースにぺたんこ靴を履いた花音は、美形の男性を前に恥じらいながらも挨拶する。


 すると男性も感じよく自己紹介をしてくれた。


「初めまして。私は東京から洋子さんのお見舞いに来ました、瀬ノ尾せのお秀真しゅうまと申します。こちらは私の祖父の康夫やすお、祖母の春枝はるえです」


「ど……どうも。……東京から?」


 目をぱちくりさせ、混乱している花音を、洋子が手招きする。


「ひとまず、座りなさい」


 康夫と春枝は窓側に椅子を並べて座っていて、秀真は廊下側だ。


 スペース的に秀真の隣に座った花音は、彼から仄かに漂う香水のいい匂いを嗅ぎ、赤面した。


(どうしよう……! 意識しちゃう)


 しかも気のせいでなければ、隣から秀真がニコニコして花音の顔を見ている。


 ずっと彼氏のいなかった花音は、突然の美形に戸惑い、祖母に縋るような目を向けた。


「うふふ、秀真くん格好いいでしょう」


「お祖母ちゃん!」


 悪戯っぽく言った洋子の言葉に、花音は赤面して文句を言う。


 向かいにいる康夫と春枝も、笑顔で見守っているので余計居たたまれない。


「突然知らない人がいたから、びっくりしたでしょう」


 春枝が柔和な雰囲気そのままの声で言い、花音は軽く会釈しつつ「はい……」と頷く。


 その反応を見て目を細めてから、春枝は自分たちが何者なのかを説明してくれた。


「私たちは、洋子さんのファンなの。私たちが若かった頃、情熱的で情感たっぷりに演奏する洋子さんは、憧れそのものだったわ。彼女が一度舞台から姿を消したあと、どうしたのか残念に思って失礼ながらあれこれ調べていたの。そのうち、札幌に移住されたと聞いて、札幌で洋子さんのリサイタルがないか、ずっとチェックしていたわ」


 祖母にここまで熱烈なファンがいたとは知らず、初めて祖母の有名さを思い知った気がした。


 自宅にはもちろん、数え切れないほどの賞状やトロフィー、盾が並べられていた。


 勿論、花音だって幾つものコンクールを総舐めにしてきた。


 しかし如何せん毎日のように見ていた物なので、それがどれだけ凄い物なのか分からないでいたというのも事実だ。


「そうして、ある時に札幌市内のホールで、洋子さんのリサイタルがあるのを知ったの」


 ニッコリ笑った春枝の言葉を、洋子が笑いながら補足する。


「子育てが一旦落ち着いた頃、昔お世話になった方が『是非もう一度』と言ってくださったわ。その時にピアノ教室を続けながら、無理せず……という感じで、人前にまた出る事を決めたの」


 今でも、洋子のもとにマネージャーの男性が頻繁に訪れている。


 世界に名を馳せたピアニストなので、育休とはいえ急に姿を消せば世間が大騒ぎしたのだろう。


「その時に私たちは洋子さんに熱烈なラブコールをして、大きな花束をプレゼントしたの。『今でも大大大大ファンです!』って」


 笑う春枝は、本当に洋子のファンらしく、頬を赤らめ無邪気な表情だ。


「私も、春枝さんたちに勇気をもらったわね。『どうせ私の事なんて、もう誰も覚えていない』っていじけていた気持ちもあったの。だから余計に、純粋な好意の言葉が染みたわ」


 嬉しそうに微笑む洋子を、三人とも優しく見守っている。


 そして、秀真が口を開いた。


「私は祖父母から、洋子さんのリサイタルビデオやレコードを聴かされて育ちました。私も子供の頃から習い事として音楽に触れていたのですが、素人の子供が聞いても素晴らしいと思うほどの演奏でした」


 花音より少し年上ぐらいの秀真が言うので、やはり素晴らしい音楽が与える感動は、年齢を選ばないのだと思った。


「今回、私の両親は多忙なので来られなかったのですが、代表として孫の私が祖父母のお供を仰せつかりました」


 冗談めかして言う秀真の言葉がおかしくて、花音はつい笑顔になる。


「今では洋子さんとメル友になっているのだけれど、『入院した』って聞いたから、びっくりしてしまって……」


 春枝が言い、洋子が「だから検査入院よ」と笑う。


「この通り、ピンピンしているわ。安心して、札幌の美味しい物でも食べて観光して、東京でまた忙しい日々を送ってくださいな」


 洋子の言葉に、三人ともが微笑む。


(この人達、本当にお祖母ちゃんの事が好きなんだな……。こんな人がいて良かった)


 最愛の祖父を喪って、祖母は一時消沈していた。


 今ではいつも通りに振る舞っているものの、ピアノ教室も一か月休みにして、奏恵に任せたほどだ。


 洋子には全国、全世界に友人がいるけれど、この札幌の地まで訪れる人はそうそういなかった。


 遠方だというのもあるし、洋子と似た年齢の人は歳と共に多忙になったり、体の不調や、あまり遠出ができなくなったなどの理由があるのだろう。


 だからこそ、瀬ノ尾家の三人がこうして病院まで来てくれた事に、花音は孫として安堵と感謝を覚えていた。


 さらにその時、「まぁまぁ」と家政婦の安野の声がした。


「お客様が一杯ですね、大先生。瀬ノ尾様、お久しぶりです」


 安野は瀬ノ尾の事も知っているようだった。


 もしかしたらこの三人は昔から洋子を訪ねていたのかもしれないが、近場とは言え花音の実家は別の家なので、会う事がなかったと思われる。


 引きこもっていた時期ならなおさらだ。


「お邪魔になってしまうわね。そろそろ私たちはお暇します」


 春枝が言い、三人が立ち上がる。


(どうしよう。送って行った方がいいのかな?)


 そう思っていた時、洋子が提案した。


「花音。もし良かったら、瀬ノ尾さんたちに札幌を案内して差し上げたら?」


「えっ? あっ、はい!」


 言われて、気が利かなかったと一瞬反省する。


「いえ、いいんですよ。花音さんも今来たばかりですし」


 康夫が申し訳なさそうに笑うが、遠慮をしなかったのは秀真だった。


「私はぜひ案内してほしいです」

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