第9話 梨理とピアノ
祖母は微かに滲んだ涙を拭い、もう一口お茶を飲んで笑った。
「当時、梨理のために買ったアップライトが、練習室Cの黒いピアノなの。だからあのピアノを弾いていると、あの子と対話できる気がする」
すべてを聞き、花音は納得した。
亡くなった梨理も、きっと大好きな母に伝えたい事があったはずだ。
その想いが、あのピアノを通じて花音の時を戻したのかもしれない。
――と、「海江田さーん、そろそろお食事ですよ」と看護師が部屋を覗いた。
気が付けば、院内に食事の匂いが漂っている。
「……あぁ、ご飯……。ごめんね、すっかり長居しちゃった」
「いいのよ。話せて良かったわ」
本当はもっと話したかったが、何となくこの話を聞いた上でさらに留まるのはやめておいた方がいいと判断した。
「じゃあ私、そろそろ行くね。また近いうちに来るから」
「気を付けて帰りなさいよ? あなたはそそっかしいんだから」
「うん」
微笑んで手を振り、花音は病室から出た。
そそっかしいは、ピアノのレッスンの時によく言われた言葉だ。
速いテンポで正確に……と心がけるあまり、指が転んでしまう事が多々あった。
そのたびに洋子は「焦らないで、遅いテンポで完璧に弾けるようになってから、速くすればいいのよ」と言っていた。
外に出ると、夕焼け空がとても美しかった。西の方で空が紫から濃いピンク、オレンジ色へとグラデーションになり、雲の縁が金色に光っている。
(話せて良かったな)
駅に向かって歩きながら、花音は心の中で呟く。
この機会がなければ、また後悔して泣くところだった。
(けど、放っておいたら、お祖母ちゃんはまた心臓の発作で死んでしまうかもしれない。時間を戻っただけじゃ駄目なんだ。未来を変えないと)
果たしてそれが正しい事なのかは分からない。
しかし梨理が背中を押してくれて、今の自分がここにいる。
(運命に逆らう事かもしれないけれど、この世界に来てしまって戻る手立てが分からない以上、最善を尽くさないと)
祖母に気持ちを伝えてそれでゴールではない。
祖母の発作が回避できるものなら、その道を選んでより良い未来を得たい。
どんどん未来を変えていってしまう恐怖はあるが、何事もやってみなければ分からない。
(六年間弾けなかったピアノだって、弾けた。……今なら何だってできる気がする)
胸の奥に勇気を宿し、花音は駅の階段を上がった。
札幌駅直結のデパ地下で弁当を買い、自宅に帰る。
食事のあとゆっくり風呂に浸かりながら、花音はパンクしそうな頭を必死に整理させていた。
「梨理さんがどういう生い立ちで生まれて、亡くなったのかは分かった。きっと無念を抱えているだろう事も……」
花音は心霊ものを好んでいる訳ではなく、霊感のない人がそうであるように、基本的に興味がない。
少し不気味な事があると「嫌だな」と思って逃げるタイプで、自ら肝試しに行って怖い思いをしたがるタイプではない。
「でも何で私なのかな。やっぱり事故に遭ったっていうところ……?」
祖母は七人兄弟を産み、母の奏恵は長女だ。
姉妹三人、兄弟四人でそれぞれ子供がいるので、毎年正月や盆に集まる時は大所帯になっている。
ほとんどが札幌市内に住んでいるのだが、その中で花音だけがピアノで不思議な体験をした。
ふと、自分が消えた、洋子がすでに亡くなってしまった世界はどうなったのだろう、と思った。
二つの世界があり、それを花音が行き来する。
それぞれの世界には洋子や家族たちがいて、もしかしたら花音の行動一つで違う運命を辿るかもしれない。
「もともとこの世界にいた私は、どうなったんだろう?」
そう思うと、あまりに恐ろしくて風呂から上がったばかりなのに、ゾクッと寒気が走った。
「……きっと、下手な行動を取ったら駄目なんだ。それで……お願い事は三回まで?」
貴重な一回を使ったのだと思うと、余計に怖くなる。
運命を変える事が許されているのは、あと二回。
いや、『仏の顔も三度』『三度目の正直』とも言うし、三回目に何かが起こるかもしれない。
梨理は死者なのだから、下手をするととてつもない不幸が花音を呑み込む可能性だってある。
昔話はよく教訓として使われるが、〝三回までのお願い〟を失敗した強欲な者は、必ず痛い目を見ている。
「……何のために? 梨理さんは何を望んでいるの?」
一般的に、子供が亡くなって伝えたい事と言えば、親に「大好き」と言いたかった……などが考えられる。
けれどその真逆だってある。
梨理が洋子に恨みを晴らしたいと思っている可能性もある。
身内の事なので、洋子が実の子供に恨まれているなど考えたくない。
だが死後の世界の住人である梨理が、何を望んでいるかなど花音は分からない。
漠然と死者に怖いイメージを持っているからこそ、花音はこれから自分にとんでもない出来事が降りかかるのではないかと思い、身を震わせるのだった。
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