第8話 祖母の過去

「ねぇ、お祖母ちゃん。あんまり話したくないかもしれないけど、梨理さん……の事、聞いてもいい?」


「ん? どうしたの? 急に」


「ずっとピアノ教室でオバケ騒ぎとかあったし。何だったんだろう? って気になってはいたんだ」


「そうねぇ……」


 祖母はお茶を飲んでから尋ねてくる。


「花音はどこまで梨理の事を知っていたんだっけ?」


「最初の旦那さんとの子供で、八歳の時に交通事故で亡くなった……とだけ」


 花音の言葉を聞き、祖母は一つ頷く。


 そして、きちんと白髪染めをしている髪を手で梳いて、語り出した。


「一人目の夫……啓司けいじとは、音楽への情熱や好きな曲などが一致して、半ば勢いで結婚したわね。若さゆえもあったと思う。もちろん好きだったし、彼を一人の演奏家としても尊敬していたわ。でも私が妊娠したあとに、色んなものがズレてしまった。啓司は相変わらず演奏家として世界を駆け回っているのに、私には『家で母体を大切にしていろ』って言うの。ピアノは妊娠していても弾けたけれど、気持ちが不安定になって、今までとは違う生活に私は戸惑っていたわ」


 言われて、当時の祖母の状態を理解できる気がした。


 ピアニストでなくても、バリバリ働いていた妻が急に働けなくなると、ストレスを感じるのは当たり前だ。


「生まれた梨理はとても可愛かったわ。啓司は立ち会ってくれなかったけれど、私は『この子さえいればいい』とすら思っていた」


「……啓司さんは、どの程度家に帰ってきたの?」


「そうねぇ……。月に一度帰ってくればいい方かしら?」


「月に一度!? 出産したてなのに!?」


 あり得ないと思い、花音は少し大きな声を上げる。


 言ってからハッとして廊下の方を見たが、幸い注意する看護師はいなかった。


「まぁ、花音みたいに今の感覚の子はそう思うわよね。私も今なら『ナシだわ』って言えるわ」


 洋子は朗らかに笑い、遠い目で壁を見る。


「でもね、啓司が忙しいのも同じ演奏家だから分かるの。一度海外公演に行けば、練習期間も含めて何日も掛かる。おまけに一度ヨーロッパやアメリカに行けば、そのまま都市を変えて何公演も続くのが当たり前だわ。だから私は『仕方ない』って自分に言い聞かせて、一人で梨理と向き合っていたの」


「お祖母ちゃんの……お母さんは?」


 花音にとっての曾祖母はどうしていたかと尋ねると、洋子は微笑む。


「私は当時、東京に住んでいたの。私の母も東京だったから、もちろん家に来て色々手伝ってくれたわ。でも、私と母はあまり折り合いが良くないのよ。母自身はピアノの才能はなくて、父と結婚して私が生まれたあと、私に自分の夢を託すようになったわ」


 それも、よくある話だ。


 才能のあるなし関わらず、自分が子供時代にやりたくてもできなかった事を、子供に託す親は一定数いる。


 子供が有名になり、親が過度に干渉するようになれば、ステージママだの言われるのだ。


 洋子の母と言えば、大正の生まれになるのだろう。


 戦前の生まれで、沢山の子供を抱えて激動の時代を過ごしたのが窺える。


 その中で、贅沢品とも言えるピアノや音楽に憧れ、子供に夢を見ても仕方がない。


「ひいお爺ちゃんは、いい家の人だったんだっけ?」


「そう。私の父はアジアでお金を作って、戦後の貧しい日本でのし上がっていった人よ。きっと商才があったのね。周りからは成金と言われていたけれど、七十五年以上経つ今では実家は大した大企業として扱われているわ」


 聞く話では、祖母の実家は貿易業の会社をしているようだ。


 現在は祖母の甥が会長をしていて、一族の一部が役員をしているらしい。


 花音自身は札幌で生まれ育ったので、東京の遠縁については会った事すらない。


「母はベビーシッターを雇って私の子育てを手伝ってくれた。でもそのうち私の子育てに口出しするようになってきて、『もう関わらないでほしい』と言ってしまったの。母と酷い喧嘩をしたあとも、私は周りの人の手を借りて何とか子供たちと生きてきた。でも疲れていたのね。……ちょっと目を離した隙に、梨理は車に轢かれてしまった」


 そこまで話して、洋子はお茶を飲む。


「それも、梨理にはピアノの英才教育を施そうと思って、嫌がるあの子に無理にピアノを教えていた時だった。小学校が始まったばかりで、他にもっと遊びたい事があるのに、私はあの子に強制してしまった」


 祖母の後悔を知り、花音は唇を噛む。


「『お母さんもピアノも大嫌い!』と言って家を出て行ったあと、あの子はマンション前の道路で轢かれたわ」


「……ごめん……」


 思わず花音は祖母の腕を掴む。


 そんな孫に向かって、洋子は緩く首を横に振った。


「つらい思い出だけれど、もうある程度諦めはついているの。今は花音たちもいるし、私は幸せだわ」


 そう思えるようになるまで、どれだけつらい期間を過ごしただろう。


 想像を絶する苦しみに、花音は自分の質問を後悔した。


「そのあと、啓司とは酷い喧嘩をしたわね。私は子供を喪ったショックと、ピアノをまともに弾けないストレスで病んでいた。啓司は父親として『なんでちゃんと梨理を見ていなかった』と私を責めた。啓司は自分の都合で帰って来た時だけ梨理を可愛がって、あとの責任はまったく取っていなかった。都合のいい時だけ父親の〝役〟をしていい気になっていたわ。だから私も色んなものが爆発して、言葉の限り彼を責めてしまった。……結果的に、私と啓司の中は修復不可能になった」


 聞いているだけで、胸が痛くなる。


 花音が気まずい顔をしていたからか、洋子は軽やかに笑った。


「そのあと、私は心機一転北の地に行ったわ。東京の実家とも疎遠になって、私の事を知らない人が多い土地で一から始めたの。私にできる事は、ピアノだけ。子育てもあるから、まずはピアノ教室を開く事にしたわ。幸いお金だけは、たんまり貯めていた。当時はまだ広々としていた土地に、思い切って自分の城を建てた。それから札幌で生活しているうちに、あなたのお爺ちゃんと出会ったのよ」


 そこで自分の祖父が出て、花音は〝今〟の自分に繋がるルーツを知る。


「あとは大体、花音が知っている通り、あなたのお母さんや叔父さんたちが生まれ、この土地で家族を増やしていった」


 大変な苦労をしたのだな、と痛感し、花音は何も言えない。


「私が『楽しく学ぶのが一番』というスタイルで教室を経営している理由には、そういう背景があったの。……でも、今も昔も変わっていないわね。つい身内には厳しくなってしまう。それで花音ともろくに話せない生活になってしまって、とても後悔したわ」


「……もういいよ。話してくれてありがとう。……ごめんね」


 やりきれなくなった花音は、洋子の背中をさすった。

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