第5話 六年ぶりのピアノに、祖母への思いを込めて
友達と駅で別れてから、花音は祖母の家に電話をかけた。
『はい、もしもし。海江田でございます』
遅い時間の電話だが、家政婦の
生前、洋子は大切な手だからという理由で、いっさい料理をしなかった。
再婚したあとは亡き祖父がピアノに理解を示し、家事を引き受けてくれたようだ。
やがて家政婦を雇うようになり、現在に至る。
現在の家政婦の安野という人は、五十代のふくよかな女性だ。
多少ミーハーな面もあるが、洋子をとても尊敬していて最期の時まで尽くしてくれていた。
洋子は亡くなったので、今後は支払われるべき金を受け取ったあと、契約終了させるのかもしれない。
または母を新たな契約相手として、現在の海江田家の管理人となる道もある。
当面は葬儀あとのゴタゴタが落ち着くまでは、安野は無人になった海江田家を管理する事になっていた。
「もしもし、安野さん? 花音です」
『あぁ、花音さん! その後お変わりありませんか?』
「はい。安野さんもお疲れ様です。その、これからなんですが、そちらに行っても構いませんか?」
『えぇ、構いませんけど……。どうかしましたか?』
「いえ。ちょっとした事なんです。特に何も用意しなくていいですから。確認したらすぐ帰りますので」
『分かりました。玄関の鍵を開けておきますね』
「はい。じゃあ、また」
電話を切ったあと、花音は地下鉄に乗って大通駅に向かい、乗り換えをして最寄り駅で降りた。
タクシーを拾って海江田邸まで向かい、遅い時間なのでチャイムは鳴らさず家に入った。
入ってすぐは天井の高い玄関ホールになっていて、シャンデリアが下がっている。
すぐ横手には階段とエレベーターがあり、そこから上階の住居スペースに繋がっていた。一階の他の部分は手洗い以外すべてレッスン室だ。
電気をつけ、花音は緊張しながら廊下を進んでいく。
練習室はA、Bがグランドピアノのある部屋で、CからEまでがアップライトピアノのある待機練習室だ。例の黒いアップライトピアノは、練習室Cだ。
「……こんばんは」
練習室Cに入り、電気をつける。
梨理がここにいるというので思わず挨拶をしたが、勿論誰も返事をしない。
花音は荷物をソファに置き、アップライトピアノの椅子に座る。
洋子が所持しているピアノは、すべて昔ながらの良い物だ。
『最近作られたピアノは白鍵が樹脂製の物もありますが、昔に作られた物はちゃんとした木製の鍵盤ですからね』
そう言っていたのは、祖母と古くからの馴染みの調律師だ。
花音は両手を広げて外側から内側へと、鍵盤を撫でてゆく。
ドクッ、ドクッ……と心臓が嫌な音を立てて鳴っていた。
練習室に入ってピアノを目にしてから、花音は異様な緊張状態にあった。
六年前の事件以来初めて、ピアノの前に座る。
白鍵を静かに押すと、綺麗な音がする。
「っ……!」
この六年ピアノを弾いていなかったので、自分のこの手が音を出したのだとにわかに信じられず、ギクッとして身を強ばらせた。
周囲が静かなだけあり、余計にいまの一音は響いたように感じられる。
「……梨理さん、ピアノを弾いたらあなたに会えるの? 願いを叶えてくれるの?」
口に出して尋ねても、誰も答えない。
鏡のように磨き上げられたピアノには、花音の顔が映っているだけだ。
「……弾いたら……、願いを叶えてくれるの?」
もう一度同じ言葉を呟き、花音は呼吸を荒げながら、とある曲のファーストポジションをとる。
(六年のブランクがありすぎて、弾けないかもしれない。手が痛むかもしれない。でも……!)
ドクッドクッと心臓が頭の中にあるようにうるさく響き、花音の緊張が高まった頃、彼女は意を決して指を動かした。
奏で始めた曲は、ショパンの『別れの曲』。
アップテンポの曲ではないので、ある程度余裕を持って弾く事ができる。
最初こそ鍵盤に込める力加減が分からず、情けない音になってしまったが、徐々に感覚を取り戻していった。
手は、拍子抜けするほど痛まなかった。
日々、会社でタイピングなどをしていたのもあるからだろうか。ピアノから離れていても、知らない内にリハビリはされていたようで、彼女の指は滑らかに動いていく。
(……楽しい)
そう。六年前まで、自分はこうやって十本の指を自由に動かして音楽を奏でていた。
音楽とは関わりのない友達からは、「指がそんな風に動いて音を奏でるって、凄いよね」と手放しで褒められた。
その時の花音にとっては当たり前の事なので、「ありがとう」とは言ったものの「普通の事なのにな」など考えてしまっていた。
けれどピアノから離れた今なら分かる。
一定水準以上の演奏ができる人は、凄い。
確かに六年前、自分は音楽業界の最高峰の一員になろうとしていたのだ。
「う……っ」
あの時の輝かしいばかりの毎日を思い出し、涙が出てくる。
懐かしい、戻りたいと思うかは分からない。
ただ、二十年間音楽しか知らない人生を送り続けていた。
恋愛もろくにせず、会社員が必要とする最低限のスキルや、パソコンの扱い方すら怪しかった。
何もかも捧げたピアノを自分から遠ざけ、祖母がいなくなった今になり、こうして奏でている。
今さら、と祖母は思うかもしれない。
六年ぶりにピアノを弾けたという感動と、説明しきれない複雑な感情。
それに翻弄され、花音は涙を流しながら情感たっぷりにメロディーを紡いでゆく。
(お祖母ちゃん、ごめんなさい……っ)
白と黒を映した視界が、涙でぼやける。
それでも花音は体に覚え込んだ指運びをし、ペダルを踏み、曲に没入して演奏した。
脳裏に蘇るのは、幼い頃からずっとピアノを教えてくれた祖母の顔。
厳しくはあったが、常にピアノへの愛が溢れた人であった。
ピアノ教室は「楽しく学ぶ」をモットーにし、祖母自身が有名なピアニストであった事から、常に盛況だった。
祖母はピアノから離れたところでは、少し世間ずれした品のいいお祖母ちゃんという感じだった。友達からはよく、「花音の家はお金持ちでいいな」と言われていた。
けれどそれはすべて、祖母や母が人生のほとんどをピアノに費やした結果だと思っている。
一日中練習するのは当たり前、普段ピアノの教師として生徒に教えている以外の時間でも、放っておけば食事を忘れるほどピアノに打ち込む。
花音や弟も、学校行事に両親がそろって来てくれないのが当たり前で育っていた。
毎回母に「ごめんね」とお土産つきで謝られていたが、そのうち諦めて何も期待しないようになっていった。
小学生ぐらいまでは「私はこんな人にならない」と怒っていたが、高校生になる頃には花音自身もピアノで頭がいっぱいになり、友達づきあいは二の次になっていた。
大学に入れば周りはライバルばかり。
本当に、音楽だけの人生だった。
祖母自身も、「私はピアノを弾く以外に、特技はないの」とカラリと笑っていた。
傲慢にならないよう、祖母はカウンセラーと月に一回話して、自分の気持ちを整理して過ごしていた。
プロになれば、それだけプライドが高くなる。
一人目の夫とは、それが原因で別れてしまったそうだ。
喪ってしまった梨理も含め、様々な失敗をしたからこそ今までの祖母があるのだろう。
そして、祖母はピアノに生涯を捧げながらも、奏恵や他の子供たちも育て、花音たち孫にも愛情を注いでくれた。
普段は「いて当たり前」と思っていた祖母の存在を、喪って初めて大きく感じる。
(子供の頃に憧れていた曲を、こんなにスムーズに弾けるようになったのも、お祖母ちゃんのお陰だよ)
心の中で語りかけ、花音は目の端からポロポロと涙を零す。
(ごめんね。私は良くない孫だったかもしれない。お祖母ちゃんにどれだけ愛されていたのか、自覚できていなかった。あれだけ期待して一流のピアニストに育ててもらったのに、コンクールで優勝する夢を叶えられなかった……っ)
こみ上げるのは、悔恨と悲しみのみ。
追悼の曲はクライマックスを迎えようとしていた。
(もう一度、ちゃんとお別れができたら……っ。お祖母ちゃんに、『ありがとう』ってきちんと伝えられたら……っ)
その時、このピアノが願いを叶えてくれるという、祖母からの手紙を思いだした。
(お願い……っ。お祖母ちゃんにもう一度会いたい……っ。ちゃんと、『ありがとう』って伝えたい……っ)
唇を引き結び、花音は声が出ないように泣きながら、最後の一音まで『別れの曲』を引き切った。
その途端、ふ……と全身にとても重たい疲れが宿り、思わず目を閉じる。
小さな拍手が聞こえた気がしたけれど、それもとても遠い場所からに思えた。
(お祖母ちゃん……)
目を閉じて、祖母を想う。
そのまま花音は場所を忘れ、祖母との思い出に浸った。
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