第3話 祖母からの手紙

 告別式がすべて終わったあと、父が運転する車で中央区にある自宅まで送ってもらった。


 花音は玄関先に置いておいた塩で身を清め、着替えて風呂に入る。


「……疲れた……」


 激しく運動した訳でもないのに、随分と疲れを感じた。


 雨は夜になっても続いていて、花音はいつものようにヘッドフォンを被る。


 無音の世界で安堵するはずだったのに、頭の中ではモーツァルトの『レクイエム ニ短調K.626〝ラクリモーサ〟』が流れている。


 無意識に指が動き、ズキッと強く痛んで手を止める。


 その痛みは、心の痛みでもあった。


 ――遅刻しないで、ちゃんと最初からお通夜に参加したかった。


 胸にあるのは後悔ばかりだ。


 ――五月の下旬に検査入院をするって聞いていたから、六月になって急変するなんて思わなかった。


 ――『いつもの検査か』って思って、お見舞いに行かなかったのが悔やまれる……。


 遅れて、安らかに眠っている洋子の顔を思いだし、涙が零れてくる。


「もっと……、ちゃんとできたら……っ。――――ごめんなさい……っ」


 呟いた声は震えて掠れる。


 外からザアザアと雨音が聞こえるのに溶けるように、花音の嗚咽が混じった。





 後日、母から連絡があった。


『渡したい物があるから、時間があったらお祖母ちゃんの家に来て』


 恐らく祖母の遺品についてだろうな、と思い、翌週末に花音は再び西区の祖母宅に向かった。


 Tシャツにジーンズとカジュアルな格好の花音が最寄り駅まで着くと、母が車で迎えに来てくれた。


 花音は運転免許は持っているものの、車は所持していない。現在は街中に住んでいて、会社に行くのに交通機関が密集しているので、車がなくても困らないからだ。


 祖母の家は豪邸とも言える広さがある。庭には松の木や手入れのされた庭木があり、プランターには配色を考えられた花も寄せ植えされている。


 祖母の家に入ると、家の中は少しゴチャゴチャしていた。


(形見分けとかもあるし、ごたついたのかな)


 祖母はピアニストとして華々しく活躍していたので、宝石や着物など高価な物も多数所持していた。形見分けや遺品整理をするのに、徒歩十分の場所に住んでいる長女の母が主に動くのは当然だったのかもしれない。


「弁護士さんに相談して、詳しい事はあれこれしてもらってるから、花音は心配しなくていいからね」


「うん」


 少し前まで祖母の家だったのに、今はその主がいない。


 この六年、元旦と盆の時に親戚で集まる以外では、ピアノ教室になっているこの家に寄りつかなかった。よそよそしく感じるリビングに慣れないまま、花音はソファに腰掛けた。


「お祖母ちゃんが、花音に手紙を残していたの。だからそれを渡そうと思って」


「手紙?」


 尋ねた花音の手に、母は一通の手紙を手渡す。


 封筒は水彩画でふんわりとした紫陽花の絵が描かれてあった。


 手紙を渡されたタイミングで電話が掛かってきて、母は忙しそうに対応する。


 その声を傍らに、花音は人気のない部屋まで移動し、祖母からの手紙を開く。


 封筒と同じ柄の便箋には、祖母の流麗な文字が書かれてあった。


『花音、元気ですか? 私はいま病院にいます。毎日する事がなくてとても退屈です。万が一の事を考えて……とお医者様が仰っての入院だけれど、歳も歳なので、この機会に皆に向けて手紙を書き始めました。』


 手紙の出だしはそう始まっていた。


『六年前の事は、もう気にしないでね。私は確かに花音に期待してしまった。けれどそれが花音を苦しめていた事実も考えるべきだった。あなたがリハビリをせずあれっきりピアノをやめてしまったのも、それだけショックを受けて前向きになれない環境を作った私たちに非がある。才能のある若者の前途を、私たちの期待が潰してしまった気持ちになったわ。本当にごめんなさい。』


(お祖母ちゃんは……、気にしてくれていた)


 事故に遭ったあの日、冷たく「花音の不注意のせい」と言われた気がして、彼女はずっと傷付いていた。


 しかし祖母もまた、自分の何気ない言葉や過剰なまでの期待が孫を苦しめていたと、あとになってから痛感したのだろう。


 けれど、気付いた頃にはお互いに遅すぎた。


 花音は心に壁を作り、祖母が外出に誘っても応じなかった。もしかしたら謝る機会を設けようとしていたのかもしれないが、花音は固く心を閉ざしてしまっていたのだ。


 あまりにすれ違いすぎてしまった自分たちに、花音は苦しげに呼気を震わせる。


 そして後半の文章を読んで、目を瞬かせた。


『少し内緒の話をします。この家……ピアノ教室では、昔から不思議な事がありました。花音も知っているように、誰もいない練習室からピアノの音が聞こえるなどの、オバケの話があります。そのオバケというのは、きっと私の一人目の娘なのだと思っています。』


 手紙にあった通り、この家のピアノ教室では、不思議な事がたびたびあった。


 洋子の家は三階建てで、一階はすべてピアノ教室になっていた。


 二階と三階が住居スペースだ。


 ピアノ教室では洋子や奏恵に直接教えを請う、グランドピアノがある部屋が二部屋ある。


 その他、アップライトのピアノが置かれている、防音の練習室も三部屋あった。


 この家にいる時、ピアノの音が聞こえ、誰か練習室にいるのかと思いきや、誰もいない……という体験を花音も何度か味わっていた。


 それだけでなく、うっすらとした子供の頃の記憶では、練習室で小さい女の子の幽霊を見た――気もする。


 だから洋子が手紙で亡くなった自分の長女だと思うと書いても、納得できる気がした。


 もっとも、大人になってから心霊的な体験はしていないので、今では子供特有の思い込みだったのでは……と思う時も多かったが。


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