第2話 祖母の葬式

 洋子は世界を股に活躍していたピアニストだった。


 全盛期の頃に一人目の夫となるヴァイオリニストと出会い、一度音楽会から引退した。


 夫との間に最初の子供ができたが、その子供も八歳で世を去ってしまったそうだ。


 その後、洋子は悲しみを忘れるように再びピアノに打ち込んで現役復帰した。


 結果的に夫とは性格の不一致で離婚したそうだ。


 やがて洋子は一般男性と結婚し、尖っていた性格がかなり丸くなったらしい。


 舞台に立つ回数が減り、ピアノ教室での仕事をメインにしていった。





 その洋子が六月の上旬に亡くなった。


 母から知らせを受けたのは、六月十日の昼休みだった。


 昼食をとってデスクに戻り、午後の仕事の前にスマホを弄っていた時、母からメッセージが入った。いつもの気軽な文面とは違い、改まった文章だった。


『六月九日、お祖母ちゃんが心臓病で入院していた病院で亡くなりました。七十七歳でした。週末の土曜日、十八時半にお通夜をします。来てください』


 改まった文章でのメッセージを受けると、母が冗談を言っているのではないと分かる。


 また、六年前の事から音楽ともピアニストである二人とも距離をとっていたので、母と娘の間はぎこちない空気になっていた。


「どうしたの? 美樹さん」


 溜め息をついた花音に、隣の席の先輩が声を掛けてくる。


「祖母が亡くなったみたいで……」


「あぁ……。……ご愁傷様です」


 お悔やみの言葉を言ってくれた先輩に苦く微笑み返し、花音は葬儀に着ていく喪服を出さなければ……と考え始めた。


 洋子を喪った悲しみはいまだ感じられず、突然過ぎる訃報だからこそ、花音はまだ洋子がいなくなった自覚すらできないでいた。





 母に言われた通り、その週の土曜日に通夜、日曜日に告別式が行われる事になった。


 こういう時、色んな事が重なるものだ。


 土曜日には前々から高校時代の友人の結婚式があった。


 花音は午前中からシャンパンピンクのワンピースを着て、札幌市内のホテルに向かい、友人の結婚式と披露宴に参加する。


 音楽を聴いて多少具合が悪くなってしまったが、一応我慢できる範囲だ。


 披露宴が夕方に終わったあと、急いで中央区内にある自宅に戻り、着替えて通夜に向かう予定だった。


 だが――。


 着替えたあと地下鉄に乗るために最寄り駅に向かい、そこから大通駅まで行って、乗り換えをする予定だった。


 けれど乗り換え予定の大通駅東西線では改札近くでいつも以上に人が混雑していて、嫌な予感を抱いた。構内放送を聞こうにも、雑踏に紛れてよく分からない。


 改札横に駅員が看板を立てたのを見て、ようやく理解した。


(人身事故があったんだ……! よりによって私が行く方向で……!)


 あまりにタイミングが悪い。


 いつもなら人が亡くなったという事で「気の毒に」と思ったが、その心の余裕もない。


 腕時計をチラッと見ると、時刻は十七時五十分ほど。


 通夜は十八時半からだ。


(タクシーを使えばまだ間に合うかもしれない!)


 決めたあと、花音は踵を返して地上に向かう階段に足を向けた。





 が、全員同じ事を考えていたのか、近場のタクシー乗り場には長蛇の列ができている。


 土曜日だけに、その人数は多かった。


(あぁ……! もう!)


 両親に車で迎えに来てもらおうかと思ったが、どちらも今は葬儀前で忙しいはずだ。


 弟は東京から飛行機でやって来るので、迎えは不可能だ。


 友人や会社の同僚に頼むにしても、土曜日のこの時間帯なら何かしら用事が入っていて難しいだろう。


(もう……!)


 やきもきとしながらも、花音はタクシー乗り場で順番が来るのを待った。


 こういう場合、下手に動けば時間のロスをしてしまうのは、よくある話だ。


 ジリジリしながら花音は我慢強く待った。


 ようやくタクシーに乗る事ができたのは十六時十五分だ。


 慌てて運転手に西区にある催事場を伝え、花音はメッセージアプリで母に事情と遅刻するかもしれないという旨を伝えた。


(お祖母ちゃんの葬儀なのに、遅刻するなんて……!)


 仕方のない理由とは言え、あまりに不甲斐ない。


 土曜日で車道も混んでいたので、街中から抜け出るのに余計時間が掛かってしまった。


 結局、西区にある催事場に着いたのは、十八時四十分ほどだった。


 扉の向こうからは僧侶が読経する声が聞こえる。花音はそっと中に入った。


 会場には喪服を着た人が大勢いて、すすり泣きも聞こえる。


 立派な祭壇には白い花が波を作るように飾られ、その中央に祖母の遺影が飾られてある。


 花音のよく知る、柔和な微笑みが最後の写真となっていた。


 花音は頭を低くして式場の左右に並ぶ花の前を通り、母と弟の間の席に座る。

そして数珠を取りだして洋子に手を合わせた。


 焼香などはギリギリ間に合い、何とか最後の挨拶ができた。


「遅刻してごめんなさい」


 疲れた顔をしている母に改めて謝ると、「人身事故なら仕方ないわ」と言われる。


「タイミング悪いよな」


 社会人一年生、二十三歳の空斗そらとは身長が高く、美形と言える外見だ。


 空斗もピアノの英才教育は受けたが、その道には進まなかった。


 だが音楽は好きらしく、現在は東京のゲーム会社に入って音響関係の仕事をしている。


「花音ぐらいの年齢なら、週末に結婚式とお葬式が重なるとか、時々あるのよね。私も体験したから。人身事故も仕方のない事だし、気にしなくていいわ」


「……うん」


 母は普通に励ましてくれたのだと思うが、突き放されているように感じるのは花音の被害妄想かもしれない。


 あの事件があってから、母とはうまくコミュニケーションが取れていない。


 父と弟とは普通に接する事ができているが、音楽に関わる話題が出ると花音は無口になり、自然とその場から離れるようになっていた。


 一人暮らしをして仕事を始めるようになっても、たまに母から仕事、生活はどうかなどのメッセージを受けても、一言二言で終わってしまうのが常だった。


 催事場ではこれから食事が始まるようで、スタッフたちが会場の準備をしている。


 祖母は有名なピアニストだったので、参列者たちは大勢いた。中には会場に入りきらない人もいて、受付に香典を渡して焼香をして帰る……という人達も大勢いた。


 黒紋付を着た母は、父や親戚たちと一緒に挨拶をしている。


 ちなみに祖母より年上の祖父は、数年前に既に他界していた。


 花音はしばらくぼんやりと祖母の遺影を見てから、両親の斜め後ろに控えて挨拶してくる人々に頭を下げた。





 用意された懐石仕出し弁当をつつきながら、親戚や遠縁すぎて顔も名前も分からないおじさんたちが、ビールを飲んで大きな声で笑っているのを、花音は現実味なく聞いていた。


 食べ終わったあと、まだ祖母の顔を見ていないと思い、席を立って祭壇前まで行く。


 遺影を見て線香をあげ、手を合わせる。


 洋子は花音にとって〝先生〟だった。


 幼少期から高校生まで、花音は洋子にピアノを師事していたのだ。


 だからこそ期待され、祖母と娘である以上に先生と生徒だった。


 祖母は温和な性格ではあったものの、ピアノに対する情熱は人一倍強い。


 趣味として楽しむ初心者や子供には優しく接するが、プロを目指す者には厳しかった。


 しかし現役のプロであった祖母だからこそ、教えを請いたいという者が跡を絶たない。


 そんな最高の教育を受けながら、花音は〝失敗〟してしまったのだ。


 だからこそ、自分は祖母と母の期待を裏切ってしまったという罪悪観が強い。


 この六年はまともに言葉を交わせないまま、祖母はこうして帰らぬ人になってしまった。


(お祖母ちゃん、ごめんね。もっと、他に道があったかもしれない。期待に応えられなくてごめんなさい。――でも私、どうしたらいいか分からなかったの……っ)


 花音は手を合わせ、涙を滲ませる。


 肩が震え嗚咽してしまうが、周囲にいる人全員も祖母の死を悼んでいる。


 花音の涙だけが特別だと誰も分からず、彼女は手を下ろす。


 最後に花音は棺の小窓から洋子の安らかな顔を見て、また手を合わせてから席に戻った。


 その日の夜は催事場に泊まり、翌日は告別式だ。


 棺が霊柩車を兼ねたバスに乗せられる時、大勢の人が外で手を合わせていた。


 花音たちも紫とグレーの配色のバスに乗り、清田区にある焼き場に向かう。


 火葬場で祖母の棺を見送り、それから狭い待合室で弁当を食べ、時間を過ごした。


 約一時間半経って知らせがあり、向かった先には白い枯れ枝のような骨が残っていた。


(これが……、お祖母ちゃんだったのか……)


 祖母の形をした〝肉〟はもうない。


 若い頃は美貌のピアニストと評判だった顔も、ピアノを愛しんだ手も、七十七になってもスラリとした体も、もう――ない。


 気丈な母が肩を震わせて泣き、叔母たちの間からもすすり泣きが聞こえる。


 花音も泣く――と思っていたのだが、この場にいる母たちほど自分は悲しむ資格があるのだろうかと思うと、情けなさが上回ってどうしても泣く事ができなかった。


 祖母だった物のすべてが小さな壺に収まる。


 それからまたバスに乗り、同じ札幌市内とはいえ長い道のりを移動した。


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