時戻りのカノン

臣桜

第1話 喪失

 目が覚めた時、美樹花音みきかのんは病室にいた。


(あれ……? 私……)


 札幌で生まれ育ち、大学は東京でピアノを専攻していた花音は、音楽一家に生まれ素晴らしい感性を持ち、たぐいまれな才能を発揮してショパン国際コンクールに臨んだはずだった。


 ポーランドのワルシャワまで来て、本戦にてピアノ協奏曲をオーケストラと共に弾く――はずだったのに。


 目に映るのは白い天井だ。


(会場……行かないと)


 起き上がろうとしてベッドに手をつこうとし、自分の手に違和感を覚えた。


「あぁ……!」


 酸素マスクをつけられた口が、絶望の声を漏らす。


 花音の手にはギプスがつけられ、どう考えてもコンクールに戻るのは不可能に思えた。


「起きた? 花音」


 それまで気付かなかったが、側には椅子に座った祖母洋子ようこと、母の奏恵かなえがいた。


 二人ともかつてショパン国際コンクールで受賞した、有名ピアニストだ。


 だからこそ、花音もこのワルシャワで輝かしい結果を残す事を期待され、彼女自身もこの上なく奮起してコンクールに臨んだのだ。


 それが――。


「私……。手が……」


 呆然として、あまりのショックに涙すら流せないでいる花音を、二人は気の毒そうな目で見てくる。


 責められるより、その目が何よりもつらかった。


「……迂闊だったわね。あなた、早朝にホテルを出てイヤフォンをしながら散歩をしていたでしょう? それでトラックに気付けず事故に遭ったのよ」


 洋子は溜め息混じりに事故の顛末を話す。


 大音量で課題曲を聴いていた花音は、確かに注意散漫だっただろう。


 その結果、一生を左右するコンクールを台無しにしてしまった。


 周りからは〝数年に一度の鬼才〟と言われ、予選でもトップ通過していた。


 幼い頃から花音にピアノの英才教育をしてきた祖母と母も、だからこそ落胆を隠せないでいる。


(私が、愚かだったから……)


 絶望した花音の耳には、そのあと祖母と母が何を言っていたのかすら入らなかった。


**


 茫然自失としたまま、コンクールには辞退を申し出て帰国する。


 大学のある東京には戻らなかった。


 音楽大学の学生ばかりが住む場所なので、誰かに顔を合わせればコンクールや怪我の話題になるだろう。


 花音の話題でなくても、友達が今日何の曲の練習をしただの、曲のこのフレーズが難しいだの、どうしても音楽の話題が出る。


 今はそれを耐えられる気がしなかった。


 花音は実家がある札幌に戻り部屋に閉じこもってしまった。


 実家にいても母のピアノがあるので、母がピアノを弾いている時は耳栓をした上でノイズキャンセリングのヘッドフォンをしている。


 通院する時だけは外に出たが、部屋に引きこもり、字幕映画ばかりを見ていた。


 とにかく音楽を耳にしたくなく、音をミュートした状態で映像と字幕ばかりを追っていた。


 このシーンには、どんな音楽が流れるのだろう?


 考えて頭の中で想像し――、やめる。


 家族の期待を裏切ってしまった自分には、音楽を語る資格はない。


 音を想像する事すら、自分には罪深い行為なのだと花音は思ってしまっていた。





 やがて花音は東京の音楽大学を中退し、札幌市内の食品を扱う中企業に就職した。


 大手企業は最終学歴が大卒以上を求めているが、中小企業はそこまで学歴を重視していないのが助かった。


 特に昇進したいという野心もなく、札幌市内で一人暮らしを始めた自分がそこそこ生きていけるのならそれでいいと思っていた。


 実家にはあまり帰らず、家の中では相変わらずヘッドフォンをして過ごす。


 そのようにして徹底的に無音を求めていたからか、たまにきちんとした音楽――特にクラシックを聴くと、具合が悪くなり、完治したはずの手が痛む事すらあった。




 その知らせを聞いたのは、札幌に蝦夷梅雨が降る六月上旬の事だった。


 コンクールを受けたのが二十歳の時だったので、あの忌まわしい事件から六年後だ。



 祖母、海江田かいえだ洋子が七十七歳でその生涯を閉じた――。


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