第33話 深く刻まれた、忌まわしき過去の記憶

 このように、実際に起きた状況からいえること。口ではそう言っているが、全くもって確証はない。いつなんどき豹変人格転換するかも分からず、見ている方は冷や冷やもの。止めに入ろうにも臆病な性格のためか、吒枳たきは落ち着きなく見守るのみ。



楼夷亘羅るいこうら…………」

「――ったくぅ、吒枳たきは心配性だなぁー。それじゃぁ、こうしよう!」


 切なげに表情を浮かべる吒枳たきを気遣っての行動だろう。唐突にも髪紐を緩める楼夷亘羅るいこうらは、両手を組み込み自らの手首を巻きつける。 


「な、これだと心配いらないだろ」

「――ええ‼ 何やってるのさ楼夷亘羅るいこうら。心配いらないって、正気なの? それだと、殴られちゃうよ!」


「殴られるって、俺のことか? そんなわけないだろ。いつも修練を共にしている吒枳たきなら分かってるはずだ」

「そりゃ、そうだけど……」


 神経質に考える吒枳たきのことを想い、楼夷亘羅るいこうらは両手を縛り后土こうどの攻めを受け流す準備を整える。こうして回廊から少し離れ、中央の開けた場所まで徐々に移動を始めた。それは動きやすく立ち回る戦略だろうか、こう捉えれば状況も納得できる。しかし、本来の目的は違うように思われた。


 何故なら、体術に優れた楼夷亘羅るいこうらのこと。どのような場所であろうが、拳をかわすなど容易いはず。だとしたら、考えられることは1つ。周りの院生に迷惑をかけないよう、人が少ない中庭を選んでいると思われる。ゆえに、こうした瞬時に判断をする姿は、天性の素質といっても過言ではない。


 一方、対照的な后土こうどの態度といえば、一点を見つめ眼前の者しか判断できていない様子。これらのことから言えるのは、戦わずして状況は既に見えている。不争の心得を重んじる者こそ、本当の勝者といえるだろう……。


「――っの野郎、よそ見してんじゃねえよ!」

「おや? 私のことを気遣ってくれているのですか? でしたら、案ずるに及びませんよ。そのように感情むき出しでは、目を閉じていても気配は感じとれますからね」


 ひょっとしたら、それは挑発しているのではなく、心を惑わせた戦略の1つなのかもしれない。后土こうどの攻めには、明らかに隙や無駄な動作が多すぎる。これでは体術を得意とする楼夷亘羅るいこうらでなくとも、悠々と受け流すことが出来るに違いない。


「――くそっ、なぜ当たらねえんだ!」

「それは困りましたね。当たらないのでは、意味がありません。仕方ないですから、おやめになりますか?」


 大きく振りかぶり、勢いよく拳を突き出す后土こうど。これに対して、瞬刻の如く身をかわす楼夷亘羅るいこうら蜿々たるうねるような足さばきで、後方へ移動して見せる。


「ちっ――、舐めやがって! 両手の事といい、俺が有利なように差でも与えたつもりか‼」

「差ですか? 后土こうど様はこの状況を、そのようにお感じになったのですね。まあ、そんな意味ではありませんが、少しは進歩したのでしょうか」


「はあっ⁉ てめぇーは、さっきから何を言ってやがる‼」

「まだ分からないのですか、私は理解して欲しいのです」


 楼夷亘羅るいこうらは会話の最中も、后土こうどの突き出す拳を難なく受け流す。けれど、表情はどこか切なく寂しげに話しかける。


「――理解だと?」 

「はい。からかう者がいれば、からかわれる者もいる。何かを成そうとすれば、必ずそこには相手がいます。そのことを十分に分かって頂き、人は皆が平等であるのだと。そして心の痛みも同じです」


「なにを戯けたことを! ――じゃあ、誰がこの階級を作り上げたと言うんだ! 少なくとも、吒枳たきの親類じゃないのか。俺は許さねえぞ、優しかった親父をあんな風にした制度を!」

「階級…………制度? なるほど、そのような事情があったのですね。ですが后土こうど様、憎しみからは何も生まれません。そうした感情は自分をも苦しめ、最後には悲しき結末を迎えるだけです」


 両手を大きく広げ、世の不条理を唱える后土こうど。声を荒げ、離れた場所にいる吒枳たきを指し示す。その気持ちを痛感する楼夷亘羅るいこうらは、自らが想う胸の内を教え説く…………。

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