第21話 揺るぎない平和な世の中

 横たわる聖人の身体を支え、手を取りゆっくり引き起こす伊舎那いざな。怪我はないか不安な面持ちで身辺の様子を窺い、衣装の埃を払い落とす。


「……喉の方はどうですか?」

「少し苦しいですが、少し時間が経てば問題はないと思います」


 伊舎那いざなの言葉を受け、念のため喉元へ掌を当てる聖人。先ほどまで乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻し、痛みも少しずつ快復に向かっていた。


「それを聞いて安心しました。にしても、私の側付きお世話係がした事とはいえ、大変申し訳ありませんでした」

「いえ、元はといえば私が戒律を破り、この場で修練をしていたことが原因。貴方に少しの落ち度もありません。どうか頭をお上げて下さい」


 深々と頭を下げる伊舎那いざなの姿に、非はこちら側にあると伝える聖人。そっと腕に触れ、心苦しそうに見つめる。 


「ありがとうございます。そう言って頂けると、楼夷るいも安心することでしょう。本当はあのような乱暴ごとはしないのですが……」

楼夷るい……とは? さっき私を屈服させた青年のことですね。でしたら、恋路こいじの邪魔をしてしまったようで申し訳ありません」


「恋路? ――いっ、いえ、私と楼夷るいは単なる側付きお世話係の関係。恋人同士だなんて、そんなぁ……」

「そうなんですか? 貴方を必死に守る姿が、もしかしたらと思ったもので」


 口ごもり顔を赤らめた様子の伊舎那いざなは、落ち着きなく動揺した素振りを見せる。その状況を不思議に思いながらも、聖人は心の内を伝えた。


「それより、私の勘違いかも知れませんが。以前どこかでお会いした事がありませんか?」

「以前ですか? そうですねぇ。お会いしたかと聞かれれば、いなとは断言出来ませんが。思い出さなくとも、名乗るほどの者ではない身分。どうかお気になさらず」


 見覚えのある姿だと思えるのだが、伊舎那いざなの口からは一向に名前が出てこない。その必死に過去を想い馳せる様子にも、聖人は身分を明かさず低姿勢な装いよそおいで振る舞う。


「確かにどこかで会った気がするのですが……。とりあえず、怪我がなくて本当に良かったです」

「怪我……ですか?」 


「ええ、楼夷るいは私の事になると、いつも何をしでかすか分からないんです。傍で見ていないと危なっかしくて……。でも普段は明るくて凄く優しいんですよ。誰にでも手を差し伸べ、困っている人がいれば必ず助ける。そんなところが少なからず大好きで、信頼を寄せている人でもあるんです」

「信頼……なるほど、それは良かった」


「良かった……?」

「はい。油断していたとはいえ、私を屈服させた力は本物。そればかりか、優しき心までね備えている。さぞかし、将来が楽しみと思いまして」


「そうですね。さっきの力は余り見ることはありませんが、優秀であることは保証します。今は伝燈下位の地位ではありますが、いずれみなが驚くような僧位になるんじゃないでしょうか。そしていつの日か、この世界を揺るぎない平和な世の中へ導いてくれる。楼夷るいなら必ずやってのけると、私は信じています」

「なるほど、是非とも私の部隊に欲しい逸材ですね。もしその時がくれば、直々にお迎えに上がらせて頂きます」


「部隊? お迎え? もしかして、貴方は…………」


 伊舎那いざなが物思いに考えこんでいると、梵鐘寺院堂の鐘の響きが周辺一帯へ一打を知らせる。


「おや? もうそんな時間なんですね。では私には任務がありますので、これにて失礼したいと思います」


 音を聞き取り、響きの打数を感じ得る聖人。自らに課せられた僧職を思い出し、ゆっくりとその場を離れ何処どこかへ向かっていった…………。


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