痛い人の伝言

増田朋美

痛い人の伝言

その日は冬であるのに暖かくて、なんだかちょっと変だなと感じる日でもあった。そんな気候が変な日が続いているけれども、それだけではなくて、人間もおかしくなっているような気がする。それは具体的にどうだとは言えないが、最近の若い人の中には、思いが強すぎるために、体まで台無しにしてしまって、結局日常の事をこなせなくなる人が多くなってしまっている気がする。逆を言えば、一般的にやらなければならないこと、つまり労働してお金を得て生活していくという、当たり前のことができなくなっている人が非常に多くなっていると言うことだ。学校教育とか、そういうものは、そこを教えてくれる施設は殆どないと言っていい。だから肝心なことは教えないので、どんどんできない人が増えてしまって、日本はこの先一体どうなるだろうかと憂いている人も少なくないだろう。

その日、いつも通り、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようと、奮戦力投していたところ、いきなり製鉄所の玄関の引き戸がガラッと開いた。

「あの、すみません。私、八重垣麻矢子ですけど。ちょっと、相談したい事があって、一人女性を連れて参りました。」

という声が聞こえてきたので、杉ちゃんも水穂さんも思わず匙を落としてしまうほどびっくりした。なんで八重垣麻矢子さんが製鉄所に相談に着たのだろうか。ちなみに、製鉄所と言っても鉄を作る場所ではない。居場所のない女性たちを中心に、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す福祉施設なのだ。そして、八重垣麻矢子さんといったら、知的障害とか、精神障害のある人たちを家事使用人として働かせ、社会参加させるための、斡旋所をやっている女性で、その功績が認められて、国政選挙にも立候補したいと考えている女性なのであった。いわゆる同業者というか似たような趣旨の事業をしている彼女がなぜ、製鉄所に相談に来たのか。杉ちゃんも、水穂さんも不思議だった。

「あの、すみません。こちらに、右城、いや今は磯野さんか、磯野水穂さんはいらっしゃいますよね。ちょっとお願いしたいことがありますので、今日は連れてきたんです。」

そういう声がまた聞こえてきたので、杉ちゃんが思わず、

「ああいいよ。入れ。」

と、急いでいうと、八重垣麻矢子さんは、

「はい。わかりました。では上がらせて頂きます。舞ちゃんも一緒に上がって頂戴。」

と言った。それと同時に若い女性の声で、

「お邪魔させて頂きます。」

という声がして、製鉄所の建物内に女性二人が入ってきたのがわかった。そして、四畳半に、八重垣麻矢子さんと、一人の女性がやってきた。

「こんにちは、磯野さん。今日はどうしても聞いてほしい相談があってこさせていただきました。こちらの女性についてなんですが、彼女は名前を中澤舞さんといいます。」

そう言いながら八重垣麻矢子さんは隣に座っていた女性を紹介した。ちょっと体格は太めで、決して細身ではない女性だった。それに、彼女はとても疲れていそうで、目が腫れ上がっていた。そうなってしまうのは、精神系の薬を飲んでいるときによく見られる特徴的な顔といえる顔で、杉ちゃんも水穂さんも、彼女がそういう薬を大量に飲んでいる女性だと言うことをすぐに気がついた。

「中澤舞です。よろしくお願いします。」

そういう女性は、体格の割に声が小さくて、いかにも自分に自信が無いと言うことを感じさせた。

「あらましは、こういうことなの。私のところにお母様に付き添われて、これまでずっと家の中だけの生活だったけれど、少し外に慣れてほしいと思いましてということで、来てくれました。だけど、家事仕事をいくらさせてもできないんです。例えば、鍋や皿を洗うとか、そういう事をやってくれるスカラリーメイドの仕事をさせては見ましたが、それもなんだか彼女のプライドが許さないみたいでやろうとしないんです。」

八重垣麻矢子さんは説明を始めた。はじめのうちはそれが何だと杉ちゃんは言っていたが、八重垣麻矢子さんは話を続ける。

「色々彼女の話を聞いてみたところ、彼女は、引きこもる前は音楽学校を目指していて、そこで偉い先生にもピアノを習っていたということがわかりました。彼女の話によると、二人の先生についていたそうです。ですが、その二方の先生同士がライバル関係にあり、舞ちゃんは、互いの先生には別の先生に習っていることを知らせていなかったせいで、ふたりの先生にそれが露呈してしまったとき、どちらの先生にも捨てられてしまったようです。それでそのショックに耐えられず、全身の痛みなどの症状が現れるようになって結局進学できず、家に引きこもるようになったということです。」

「はあ、それが何だって言うんだよ。どうせね、偉いやつなんて、そんなもんだよ。自分のことしか考えないで、自分の立場を強くしたいとしか考えないよ。それを学べたいい機会じゃないか。そう思うことは、できないのか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。それは私も教えました。ですが舞ちゃん、それは理解してくれないで、好きだったピアノを無理やり取られてしまったことが大変ショックだったようです。だから、家事仕事をさせる私の事業所に来ても、何もできないんですね。それだったら、私も少し考えて、まだお父様やお母様がご存命のうちに舞ちゃんがやりたかったピアノを一度だけでも誰かに見てもらったほうが彼女も、踏ん切りがつくのではないかと思いまして。それで、今日レッスンしていただけないかと思って、ここへ連れてきたんですよ。」

と、八重垣麻矢子さんは説明した。

「そうですか。たしかに、中途半端にやめてしまうというのは、人間忘れることはできないと言いますしね。それで、心の症状はどれくらいあるのでしょうか。」

水穂さんが八重垣麻矢子さんに聞いた。

「ええ。なんでも舞ちゃんに聞いたところ、ロキソニンを30錠飲んでも痛みが取れず、大変だったようです。」

麻矢子さんはそう答えた。

「はあ、それは飲みすぎだな。それで、痛むのはどこなんだ。」

杉ちゃんが言うと、

「ええ、腕や足などが特に痛いと。」

八重垣麻矢子さんは言った。

「それで、治療としてはどんなものをやっているのでしょうか。まさかと思いますが、そのロキソニンのような鎮痛剤とか、精神安定剤を投与するだけの治療しか受けられない環境に居るのですか?」

水穂さんが麻矢子さんに聞いた。

「病院はどちらに通っているのですか?そういう精神性の強い痛みの対処をしてくれる病院なんて、ほんの少しだと思うけど。」

「ええ、三年くらい前は、大きな病院に通っていました。その時は、なにかあってもすぐに相談することができたから、痛みもさほどひどくなかったのですが、親が高齢化してきて、近くの精神科のクリニックに無理やり変えさせられて、そうなってからまた痛みがひどくなりました。」

と舞さんは辛そうに答えた。その口調がわずかに呂律が回っていなかったので、杉ちゃんたちは、彼女が常習的に大量の薬を飲んでいることを知った。

「親が、もう病院まで運転できないっていったんです。私は、働けないし、病院へ連れて行ってもらえなかったら、薬をもらえなくなるから従うしかありませんでした。」

「はああ、なるほどねえ。それじゃあ、病院以外の、なにか医療を受けることはできなかったの。例えば、電車で行ける相談所とかそういうところね。市役所で保健師に頼むとかさ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえそれはできませんでした。親が、そうする必要はないって言うから。私としては相談したかったんですけど、それもできなくて、結局、痛みを強くするだけになってしまいました。でも私の生活は親が全てなので、それに頼りすぎているのも辛くて。それで、八重垣さんの事業所に行くっていったんですけど、私はどうしても家事仕事ができないんです。お皿を持ったら割ってしまうし、鍋の洗い方もわからないし。」

と舞さんは小さく答えた。

「別に恥ずかしがらなくたっていいんだよ。僕らにしてみれば家事仕事ができないのはただの経験不足なだけだと思うから、そのうちなれてくると思うんだ。本当にそれだけだと思うよ。きっと音楽学校を受験するってことで、お前さんはすべての家事仕事を親に任せて、ずっと練習ばかりしてただろ。それは別にお前さんが悪いわけでも無いんだよ。その時はお前さんはそういう立場でいなくちゃいけなかったっていうだけだからね。それだけのことだから。あとは、経験を重ねてなれてくれば、家事仕事だって苦ではなくなるよ。それよりも大変なのは、お前さんが体を痛い痛いと言っていることだよな。そうだろう?」

杉ちゃんが水穂さんに目配せすると、水穂さんも、

「そうだと思います。おそらくそれに思いが強すぎて、病気になった事による気持ちの切り替えができないことで、あなたは回復できないんだと思うんですよね。それに周りの環境も切り替えることを許さないでときだけがなあなあと過ぎてしまったのでしょう。本当は病気になったら、もうだめなんだで諦めるべきなんでしょうけど。だけど、人間ですから、そう簡単にそうだねと受け入れることはできないですよ。ましてや音楽なんて、そうなりやすいものです。だから、まず初めにあなたが全て悪いのでは無いと言うことをはっきりさせておきましょうね。心無い人は、あなたの意志で、そうしたんだとかそういう事を言うかもしれませんが、それを言っても何の解決にもならない無責任な発言であることは、僕たちはよく知っています。」

と、そっと彼女に言った。

「そして次に、どう動くかを考えましょう。まず初めに変えられないものははっきりさせましょうね。親御さんの発言は変えられませんし、あなたが住んでいる場所を変えることはできない。多分あなたは、あなた自信も変わることができないと思っていると思いますが、それはちょっと違うこともはっきりさせましょう。体に痛いという症状があるということは、あなたが変わらなければならない証拠です。痛みは元凶から変わるために起こる現象ですからね。」

「そうそう。まず初めに医療をちょっと変更してみような。なんでも話せる医者を用意することだ。」

水穂さんが続けると杉ちゃんがすぐいった。

「そんな人居るのでしょうか。私のクリニックの先生なんて、何も話は聞いてくれないで、薬を出すだけですよ。」

舞さんがすぐいうと、

「最後まで聞けよ。この世の中の医療行為は確かに西洋医学が圧倒的に多いけどさ。そればっかりじゃないんだぜ。西洋医学は病原菌を殺すとか、腫瘍を取るとかそういうところは得意だけど、お前さんみたいな、心の不調は、あまり得意では無いっていうのもまた事実だな。お前さんが、薬を出すだけだといったのがまさにその答えじゃないか。だから、それ以外の事をしてくれる医者を探すんだよ。」

と、杉ちゃんはにこやかに言った。すると、布団に座っていた水穂さんが立ち上がって、机の中からメモ用紙を出してきて、そこに柳沢裕美先生の電話番号を書いた。

「多分、他のお医者さんとはまた違うやり方で痛みのアプローチをしてくれると思います。一度、相談してみてください。」

水穂さんの字は上手だった。なので、すぐに読めてしまえる。癖のある字だったら、ちょっと躊躇してしまうかもしれない。それがないから、すんなりと診察を受けられるようになるのかもしれなかった。

「多分きっと、お前さんの場合、心のわだかまりを全部話してさ、それで頭を空っぽにしちまうことができたなら、それから再出発できると思うんだよ。音楽やろうって考えたわけだし、決して頭は悪くないと思うんだ。だから、それができれば、また女中さんとしてやり直せるさ。」

杉ちゃんがそう言うと、中澤舞さんは、涙をこぼして泣いてしまうのだった。

「なんで泣くんだ?もう結論は出てるじゃないか。それなら、そのとおりに動けばいいんだよ。世の中、意外に簡単なのかもしれないぜ。」

と、杉ちゃんがそうきくと、

「私、やっぱり間違ってたんですね。私が今まで、ピアノを習って、努力してきたことは、皆私にとって必要ないことだったんですね。私、ピアノを弾くことで、心の安定を求めたこともあったのに。それは間違いだったんですね。」

と舞さんは言うのだった。

「うん、そうだね。そう思うしか無いだろうが。そう思って、体をちゃんと直してさ、次のステップへ進んでいかなくちゃだめだぜ。」

杉ちゃんという人は、すぐに答えを出してしまう変な癖があった。そういうふうに思っていることをなんでも口にしてしまうので、また新たな揉め事を作ってしまうこともある。特に日本では大事なものは表に出ない文化なので、杉ちゃんのような態度は、嫌われるのだろう。

「間違いとか、そういうもんじゃないよ。そうやって、事実に善悪甲乙つけちまうからおかしくなるの。いいか、事実はあるだけだ。それ以外に何も無い。今出した結論だって、お前さんが悪いとか、お前さんがそういう対処ができなくて間違いだといったとか、そういう変な意味は毛頭ない。そんなこと考える必要なんて何もないの。ただ事実があって、それに対してどう動くか考えることが第一の選択肢なんだぞ。それに、」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが、発言を止めた。

「杉ちゃんの言うことは確かにその通りなのかもしれませんが、でも、彼女には残酷すぎます。彼女は、音楽をすることに生きがいを感じてきたんだ。それをもぎ取ってしまうことは、彼女が本当に廃人になってしまうかもしれません。それはやめておきましょう。」

「だったらどうするっていうんだ?もうピアノ教室は2つとも、退会しているんだろ?それならいい機会じゃないか。そのままピアノ教室続けたほうが正しいとでもいいたいの?そんなわけ無いよな?」

「杉ちゃんの言い方は少々乱暴なので、彼女は叱責されているように思ってしまうのかもしれませんよ。言い方だって、大事な要素ですよ。確かに、杉ちゃんの言う通りではあるんですけどね。」

と、八重垣麻矢子さんが言った。こういうところは国政選挙に立候補するくらいの人だから、すぐに読み取れてしまうものだ。

「確かに、中澤舞さんはこのままだと何も進歩もしないで、親に頼りっきりの人生しか送れないかもしれません。だけど、それを生きがいにしてきた以上、それを潰してしまったら、彼女自信が潰れてしまうし、何よりも命を奪ってしまうことも考えられる。そうしたら、私達だって、大きなキズが残ります。それは絶対避けたいのですから。」

「そうだけど、事実としては、そういうことじゃないか。」

杉ちゃんはそう言うが、麻矢子さんも水穂さんも、彼女から音楽を取ってしまうことは、行けないというか、できないように感じられた。確かに生きがいを取ってしまったら、舞さんは、文字通り、ボロボロの人になってしまう。それだけは、みんなしたくないということだ。

「そういうことなら、彼女に居場所を作らせることから始めましょう。同じ音楽でもちょっと違うもの。例えばクラシックではなくて、ロックとかそっちの方に行ってもらうなどは考えられませんか?」

水穂さんがそう言うと、

「私、そういうものは大嫌いなんです。日頃から、そういうのを聞いている人たちにバカにされてきて、それならいつか、絶対見返してやるって、決めたから。」

と舞さんは言った。そういうところから判断すると、単に家庭関係の問題だけでもなさそうな気がするが、水穂さんはそれ以上言及しなかった。

「そうですか。わかりました。それでは、そうするしか無いですね。彼女がそう感じてきたのなら、それを矯正するのは難しいでしょうからね。」

「でも一体どこへ居場所を作らせるんだ?例えば、アマチュアのオーケストラにソリストとして行かせるとか?それでは、ちょっと使命が大きすぎて、逆に大変になってしまうと思うけど?すでに体に痛みがあるんだし。」

水穂さんがそう言うと、杉ちゃんがそういった。八重垣麻矢子さんはそうねとだけ返した。それが事実なのだ。彼女はもう音楽から自分を切り離すしか方法は無いのだ。上級学校に進むこともできなかったし、かといって、どこかの楽団に入るのも痛みがあるのなら難しいだろう。あとは単に経験不足と割り切って、彼女に女中奉公になれてもらうしか無い、と杉ちゃんたちが言おうとしたその瞬間。

「こんにちは。右城くん居る?ちょっと、お話があってきたのよ。」

と言いながら、製鉄所の玄関が開いた。このサザエさんの花沢さんの声ににた声は、誰なのかすぐわかる。浜島咲であった。咲はもうこの製鉄所のルールは知っているから、誰かが来ているとしても構わず、製鉄所の建物の中に入ってしまうのだった。

「ねえ右城くん聞いてよ。今日もまた着物のことで苑子さんと喧嘩しちゃったのよ。だって苑子さんと来たら、絶対羽二重の色無地を用意しなくちゃだめだっていうから。それじゃあ生徒さんは、どんどんやめていく一方よ。全く、今の時代は自由な時代なのにね。昔のお箏奏者は、みんな色無地を着ていたんだから、今でも着なくちゃだめなんて苑子さんたら理由のわからないこと言って。それでは家の教室に生徒が来なくなるのも当たり前だわ。そうなったら私、仕事なくなっちゃうのかな。それじゃあこまるわ。右城くん。」

きっと浜島咲は、誰ふり構わず愚痴をこぼしたいのだと思われた。もちろんそれをしたいというのはわかるけど、それが大体の人には理解されないので、ここへ来てしまったのだろう。

「そうですか。でも一生懸命昔の礼儀を守ろうと、苑子さんはしているのですからいいのではありませんか?」

水穂さんがそう言うと、

「だけど、家の教室は人手不足で困っちゃうわ。苑子さんのそういう姿勢に従いたくない人のほうが多いのよ。今生徒さんが少なすぎて、合奏稽古もできないのよ。それじゃあ私の仕事もできないじゃないの。」

と咲は言った。ちなみに咲のしごとは、お琴教室で、師匠の苑子さんと一緒に尺八の代わりのフルートを吹くことだ。それで咲は生活している。ある意味生徒さんの存続に咲の活動もかかっているということだ。すると杉ちゃんが、すぐこんな事を言った。

「そうか、人手不足なら、こいつをお琴教室に入れてくれないか。もうピアノの世界では誰も手を出さない居場所をなくしたやつでさ。それなら、邦楽の世界に入れてやってもいいだろ?」



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痛い人の伝言 増田朋美 @masubuchi4996

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