第21話 明日への旅立ち


             

 傷は浅いといえるものではなかったが腸壁に達していなかったことや適切な処置、十分な看護のおかげもあって、千明は学校を五日休んだだけで職場復帰を果たすことができた。化膿しやすい体質のためそれが唯一の懸念材料であったが、丁寧な消毒とクーラーによってその危険もなくなった。


「お母さん。10月に解体されるんだから、クーラーなんか取り付けたらもったいないわよ」

 

クーラーの設置に千明は反対だったが、


「なに言ってんのよ。お金は使うためにあるんだから、けちけちしないの!」

 

佐和子は翌日の午前中、アパートに不似合いな最新型の高級品を取り付けてしまった。


「‥‥‥ね、千明。三四郎さんって、真理ちゃんが言ってたように、お父さんに雰囲気が似てるんで、お母さん、驚いちゃったわ。‥‥‥公夫君は、今度も駄目みたいね。アナタはファザコンだから‥‥‥。でもね、茂樹のこともあるんだから、よく考えるのよ」

 

5日間も同じ話題を持ち出されると、いい加減うんざりするのだが、三四郎の話題だけはなぜか、飽きがこなかった。わだかまりなく父の話に入って行けるからだと思うが、二人ともそんな素振りをおくびにも出さず、


「ね、お母さん。三四郎さん、柔道五段で強いのよ。お父さんも子供の頃から、ずっと柔道をしていたんでしょ。強かったの? 三十二の時、何段だったの?」

 

いつも三四郎の話題から、まるで付け足しのように父の話が顔を出すのだった。


「なに言ってんのよ! お父さんは81キロ級で優勝してんのよ。三十二の時は90キロ近くあったけど、柔道してる人の割には結構、スマートだったのよ。―――そうね、三十二のときは六段で、三四郎さんよりほんのちょっとだけだけど、肌が褐色で、ずっと精悍な感じがしたわよ」


「ちょっと、お母さん。もう少し声を小さくしなきゃ、三四郎さんに聞こえるわよ。真上で、天井板一枚だけなんだから」

 

知らず知らずの内に声が大きくなっているのに気づき、二人して何度、口を押さえて笑い合ったか知れなかった。


「ね、お母さん。どうしてお父さんと別れたの? どっちから言い出したのか、聞かせてほしいわ。聞く権利があるでしょ、私には」

 

離婚に至った経緯を、こんなに明るく弾んだ口調で尋ねられるなど、少し前の二人には想像も出来ないことだった。


「お母さんが悪いのよ。良美さんとの仲を勝手に邪推して、結局、お父さんを追い詰めちゃったの。お父さんも若かったのよね、売り言葉に買い言葉で、抜き差しならないとこまで行っちゃって。‥‥‥引くに引けないって、まさに、あの時のお父さんの立場なんでしょうね。お父さんは最後までアナタにこだわっていたけど、お母さんが追い出したようなものなの。あの通りのスパッとした性格だったでしょ。自分の家なのに、家の権利証も預金も全部置いて、従妹の良美さんとこへ行っちゃったの」

 

母から初めて明かされた二人の離婚劇だったが、不思議なことに然したる感慨が沸いてこなかった。以前の千明であれば、不十分な説明に満足できず、もっと詳しく問い詰めたであろうが、最近、過去に対するこだわりが自分でも驚くほど無くなってしまった。


「―――ね、お父さんの従妹の良美さん。お元気なの?」

 

子供がいないのは叔母から聞いて知っていたが、父の再婚相手の消息は知りたくもなかったので、千明の耳にはそれ以上の情報は入っていなかった。


「‥‥‥ええ、この二月に亡くなられたの―――肝臓癌で。良美さん、最初のご主人とのお子さんが死産だったでしょ。その時、大量の出血があったので輸血をしたんだけど、それが肝炎、肝硬変、肝癌と進行する原因だったみたいなの。マスコミを賑わした薬害、フィブリノゲンの投与があったんでしょうね。あなたには内緒にしてたけど、お母さん、良美さんの葬儀に出たのよ」


「その時、‥‥‥いえ、いいの。お母さん、もう寝ましょ。私も明日から学校だし、お母さんも城崎へ帰らなきゃいけないから」

 

お父さんと話をしたの? と言いかけたが、千明は言葉を呑んでしまった。急に父が身近に迫って来て、その存在にどう対処してよいか分からなくなったのだ。

 

翌日、一時過ぎに学校から帰ってくると、三四郎が心配して部屋へ顔を出した。


「ありがとう。もう、すっかりいいわ。どうぞ入ってください。この部屋、涼しいから」

 

三四郎を招き入れて、市場で買ってきた巻寿司を一緒に食べる。


「‥‥‥三四郎さん。私、今度失敗すると、もうやり直しは利かないの。子供を抱えて、また離婚ということになると、もう立ち直れないと思うわ。―――それに、母にも言われたけど、私はファザコンなの。あなたの内に、どうしても父の面影を見てしまって‥‥‥。だから、どうしていいか自分でもよく分からないの。‥‥‥自分の判断にまったく自信が持てないの。こんなときは、現状を維持するのが一番安全なんでしょうけど、‥‥‥あなたが好きなの。茂樹のことを忘れてしまうくらいで、そんな自分に気づいて後ろめたくなるわ。母は、『それが恋というものよ。勇気を出して、三四郎さんの胸に飛び込んじゃいなさい』なんて、無責任なことを言うけど‥‥‥」

 

三四郎は千明の話を黙って聞いていたが、言葉が途切れると、彼女を抱き寄せてそっと唇を合わせた。


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