第18話 ロックは別れのリズム


 

その日、真理は千明と三四郎の待つ敬藍荘へ帰って来なかった。城崎の母に電話すると、


「‥‥‥そうだったの。もう大丈夫だと思って、そちらへ行かせたのが間違いだったかも知れないわね。‥‥‥でもね、千明。考えようによっては、良かったのかも知れないわよ。いつか知らねばならないんだもの。問題は、真理ちゃんが私たちの側の人間になっているかどうかね。お母さんは信じてるわ、あの子がきっと帰って来るって。だから、あなたもそんなに思い詰めないでよ。体が参っちゃうわよ。茂樹のこともあるんだから、さあ、元気を出して」

 

佐和子は自信があるらしく、余り頓着しなかった。


「母はあんな風に言ってたけど、私はとても母のように楽観視できないの。真理ちゃん、相当ショックを受けてたもの。‥‥‥母と私の根本的な差で、あの人の強いところなのよね。―――ね、三四郎さんも、なるようにしかならないって、あまり心配してないの?」

 

片意地張って生きてきた反動だろうか、寄りかかる人が出来ると、つい甘えてしまう。自転車で帰ってきた三四郎を迎え入れて、千明はすねるように彼を見上げた。


「ひどいなあ! これでも、武庫川の河原から塚口、それに西宮北口まで走り回ってきたんだから。千明さんが心配してるのに、なるようにしかならないなんて、悠長に構えてられないよ」


「ゴメン、恨み言をいったりして。―――でも真理ちゃん、一体どこへ行ったのかしら。池田の家にも帰ってないって言うし。‥‥‥やっぱり、クー子っていう友達の所かしら」

 

クー子に関しては、住所はおろか正確な名前さえ分かっていなかった。


「そっちの方は、民子さんが知り合いに当たってくれているから、―――さあ、そう心配しないで。コーヒーでも入れようか」

 

不安に駆られる千明を椅子に座らせ、三四郎はアイスコーヒーを取りに二階へ上がった。


「‥‥‥でも民子さんて、すごいわね。あんなに迫力のある人だとは思いもよらなかったわ」

 

コーヒーグラスを取り上げ、千明はしんみりと呟く。ヤクザに姉さんと呼ばれていたので、組関係の人間か、それともヤクザの愛人か何かだと思うが、知られたくなさそうだったので、千明は三四郎に婉曲的な言い回しをした。


「‥‥‥これは、民子さんに口止めされていたんで言わなかったんだけど、民子さんのお父さんがね、任侠道を全うした古典的なヤクザの親分だったんだ」

 

千明の口調から、三四郎は弁解の必要を感じたのであろう、民子やスナックの客たちから聞いた、彼女の素性を語り始めた。

 

民子の父は、尼崎から大阪にかけての港湾労働を一手に取り仕切っていたが、労働者の上前を撥(は)ねるようなケチなタイプの人間ではなく、いつも弱い者の側に立って彼らの権益擁護に努めていた。組の若い者も民子の父を慕い、その教えをよく守って、正業に就きながら香川組を維持していたが、十七年前に、大きな抗争事件に巻き込まれてしまった。

 

船員というのは通関手続きの盲点を突けるので、彼らを利用することによって容易に密輸が可能となる。神戸は日本最大の広域暴力団が押さえており、警察の監視も厳しいので、東南アジア系のマフィアは香川組の拠点に進入を図ったのだった。

 

芦屋から尼崎港にかけ、拳銃と麻薬が、中国および東南アジア船籍船で大量に持ち込まれることになった。もちろん広域暴力団が黙認するはずがなく、香川組のシマ内でマフィアと暴力団の抗争が繰り広げられることになった。

 

民子の父は、広域暴力団の組長たちとの話し合いで彼らの譲歩を引き出したが、マフィアの撤退が条件だった。


「‥‥‥おやじさん。こんな条件を呑んでいいんですか。マフィアは損得勘定でしか動きませんよ」

 

若頭の山岸幸宣が案じた通り、マフィアに任侠道や日本的義理人情が通ずるわけがなかった。結局、マフィアの本拠地へ乗り込み、首領以下主だった幹部を道連れにするしか方法がなかった。


トップ会談当日、民子の父・香川耕造は全身にプラスチック爆弾を貼り付け、マフィア幹部たちとの会合場所へ赴き、クルーズ船もろとも跡形も消え去る壮絶な爆死を遂げたのであった。もちろん、これで目論見が達成される―――そんなハッピーエンドの甘い世界ではなく、当然のごとく、香川組幹部にマフィアの報復が浴びせられた。組長代行を任された山岸に、マフィアがヒットマンを放ち、彼が凶弾に倒れてしまったのだ。


「民子さんは全財産を処分して、山岸さんの奥さんや子供さんにあげたんだよ。自分の手元にはビタ一文残らない徹底ぶりでね。……本当に見事だったよ」


〈バー民子〉で、山岸の弟から問わず語りに聞かされた民子の真心を思い出し、三四郎はしんみりと言葉を切ったが、思い直したように千明に笑顔を向けると、


「塚口の店にも以前の組員の人たちが来るんだけど、彼らからは絶対お金を取らないという、これも見事な徹底ぶりでね。でも彼らもよく出来ていて、その分のお金を担当者がプールしているんだ。民子さんが店を閉じたとき、家をプレゼントするつもりなんだって。―――実は僕も、会員の末席に加えてもらっているんだ」

 

照れながら頭をかいたが、千明は感無量だった。


「あの民子さんが、そんな過去をお持ちだなんて、想像も出来なかったわ。‥‥‥三四郎さん。私、民子さんのことを一生忘れないわ。この敬藍荘に住んで、本当に良かった。民子さんが益々好きになりそう。本当よ」


「民子さんもね、千明さんがお気に入りで、何とも言えない魅力があって声をかけずにいられないって。まったく違うタイプだと思ってたけど、何か二人に大きな共通点があるような気がしてきたよ」


三四郎は次の言葉を言おうとして、苦笑しながら言葉を呑んでしまった。好きにならずにいられないという意味では、二人とも甲乙つけがたい存在であったのだ。

 

その夜、真理は敬藍荘に帰らなかったが、千明が心配するようなことはなかった。ヤクザ者と皓三の話を聞いたとき、金で片がつくと思い、咄嗟にトートバッグから財布を取り出したので、文無しでアパートを飛び出したわけではなかったのだ。


敬藍荘へ戻ろうか随分迷ったが、池田の実家近くまで足を運び、しばらく公園でブランコに揺られてから、宝塚へ出てタウンシティーホテルで一泊した。母親が後で来ると言って、チェックインを済ませたのだ。


宿泊名簿の記載は、石田真理と石田千明だった。一人きりの部屋で、隣の空きベッドを眺めながら、真理はほの暗い月光の中で、心行くまで泣いた。

 

翌日、午前9時前にホテルをチェックアウトして、10時半過ぎに敬藍荘へ戻った。千明が学校へ出かけて、居ないのが分かっていたので三四郎の部屋のドアをたたいた。民子の部屋でもよかったのだが、説教されるのが分かっていたし、三四郎と少し話したかった。


「やあ、お帰り。‥‥‥千明さん、心配してたけど、学校へ出かけて行ったよ」

 

気を使ってくれているのが、慎重に言葉を選ぶぎこちない三四郎の口調にありありと現れていた。


「うん、分かってる。三四郎さん、鍵預かってくれてると思て。―――それに、ちょっと話したいこともあるねん」


「そうか。じゃ、入ってよ。遅い食事中なんだ。真理ちゃんの分のコーヒー、すぐ入れるから」

 

奥の部屋へ通そうとするが、


「コーヒーやったら、ウチが入れるわ」

 

真理はドア右手の狭い台所へ入って、手際よく自分の分のコーヒーを入れてテーブルに運んできた。


「な、三四郎さん。生意気なこと言うようやけど、よう覚えといて欲しいんや。‥‥‥柴先生ていうお医者さんがいてはるんや。その先生は千明さんが好きで好きで、それこそ千明さんのこと、小学校の時から想い続けてはんねん。千明さんが離婚したんで、今度こそ自分と結ばれる思て、首を長うして、千明さんが城崎へ帰って来るのを待ってはるんや。せやけどウチの勘では、今度も柴先生、旗色が悪いわ。‥‥‥な、三四郎さん。千明さんを大事にしたって欲しいねん。もう十分、苦労して苦しんださかい。それに、柴先生のこと、忘れんといてや。もし三四郎さんが千明さんを泣かしたりしたら、ウチ、絶対、三四郎さんを許さへんで」

 

真理はうっすらと目に涙を浮かべながら、三四郎を睨み付けた。


「分かったよ。分かったから、そんな怖い顔するなよ、真理ちゃん。―――それより、君はどうするつもりなんだ。‥‥‥千明さんのこと、許してあげろよ。うそをついたのは確かに良くないけど、悩んだ末のことなんだ。だから―――」


「うん、分かってる。ゆうべ、ホテルでよう考えたんや。もうあんな生活には戻られへんのがよう分かったわ。ウチ、千明さんや三四郎さんに会えてホンマに良かったと思てんねん。三宮で千明さんの車に乗り込まへんかったら、皓三‥‥‥サン、にウツツを抜かして、クー子と同じ生活を送ってたやろ。城崎で色んな人と巡り会えて、生きるということがどんなものか、それに、‥‥‥人を愛するいうのはどんなもんか、ちょっとは分かったような気がすんねん。‥‥‥ウチ、城崎が好きや。佐和子おばちゃんや柴先生、それにマルニ堂のご隠居が好きで好きで堪らんねん。せやから、ずっと、ずっと、城崎に置いてもらおうと思てんねん」

 

マルニ堂の隠居の占いが脳裏に甦って、真理は胸がきゅっと締め付けられ、体がぶるっと震え目頭が熱くなる。


「‥‥‥そうか。真理ちゃん、ずいぶん大人になったんだな」

 

二カ月前の真理とは別人の変わりようだった。


「そうやで。せやから、さっき言うたこと肝に銘じといてや。ホンマに千明さん泣かしたら、ウチ、絶対に三四郎さんを許さへんから」

 

潤んだ瞳で笑いながらもう一度念を押すと、真理は三四郎の部屋を出た。千明の部屋に寄り、机の上のデニムのトートバッグを左肩にかけると、大きく息を吸った。決意が逃げないようぎゅっと唇を結び、その足で神戸へ向かった。過去を清算するには、最後にもう一度、皓三とクー子に会う必要があるように感じていたのだ。

 

帰って来た千明に、真理が神戸へ行ったことを三四郎が告げると、


「三四郎さん、どうして止めてくれなかったの! 一人で神戸へやるのは危険すぎるわ。私、これから行ってみる」

 

非難交じりの言葉を残し、千明は自室へも入らず駅へ急いだ。


「ちょっと待ってよ。一人で行かせたのは謝るからさ」

 

着替えを済ませ、三四郎はようやく武庫之荘駅の手前で千明に追いついたのだった。

 

三宮駅の改札を出て、千明がショルダーバッグから携帯を取り出し、民子が調べてくれたクー子のアパートへ電話を入れるが、出なかった。仕方なく、二人はクー子と真理が勤めていたスナックへ向かう。6時半を過ぎているので、開店準備のため店に出ている可能性が高いのだ。

 

四車線にあふれる車の渋滞を横目に、二人並んで小走りに歩道を山側へ急ぐ。七時前ともなると、西の空が濃い茜色に染まり、点々とネオンが点り始めるが、まだ闇が霞を帯び、光も硬くぎこちなかった。


下山手通りを右に折れ、少し北へ上ったところに目当ての店があった。まだ準備中で、ドアを開けると、クー子が店内を掃除していた。


「うん。マリーやったら、さっきここへ寄ったよ。皓ちゃんとこへ行ってきたらしいけど、居てなかったんやて。伝言頼まれて、手紙も預かったわ。―――うん? マリーがどこへ行ったかって? そやね、マッド・ホースへ寄る言うてたわ」

 

濃いアイシャドーとルージュを引いたクー子に、店の所在を聞いて、略図を書いてもらう。


「三宮駅の近くなのね」

 

まるで幼稚園児に毛の生えた絵の出来映えで、三宮駅が店の近くに小さく書き込まれていた。北を指すNマークでも入っていれば、捜すのにさほど造作なかったと思うが、駅からの方角がさっぱり分からない。


「この地図では、この辺りのようなんだけど‥‥‥」

 

何とも分かりにくい略図で、もと来た道を戻って、三宮駅裏通りを歩きながら、三四郎は地図と目印を交互に参照する。


「ね、あそこじゃない」

 

薄暗い通りの奥に〈マッド・ホース〉という小さな木製看板が下がり、地下への案内矢印に千明が気づいた。


「本当だ」

 

三四郎、千明の順に、鉄製の錆びた手摺を右手に持って、細い階段を下りると、シーンと静まり返った店内から、次の交代曲が流れてきた。軽快なロックのリズムで、千明も聞き覚えのある懐かしい曲だった。


♪~ガラスの~フロアに響く♪

 

千明が少女の頃のアイドル歌手の歌で、このリズムは耳に染み込んでいて、独りでに体が揺れる。


♪~カクテルグラス片手に~踊るのよ~セクシーナイト♪

 

舞台では歌詞さながら、真理がグラスを片手に、リズムに合わせて踊っていた。


「‥‥‥」

 

千明も三四郎も、こんな躍動的な真理は見たことがなかった。舞うように円を描いて踊りながら、右手のグラスは真紅のワインを軽く揺らすだけで、一滴も溢れ出させないのだ。


「マーリー! マーリー!」

 

曲が終わっても、観客の間から、マリーコールが長い間、鳴り止まなかった。


「みんな、静粛に! 静粛に。―――さあ、マリーからのメッセージを」

 

マスターらしき、三十代の細身の男性が舞台へ上がって、真理にマイクとライトを向ける。


「―――みんな、ありがとう。久し振りに踊って、楽しかったわ。‥‥‥せやけど、これで最後や。ジ、エンドなんや」

 

真理がマイクで語りかけると、水を打ったように静まったが、最後の言葉に激しいブーイングが巻き起こる。


「―――うん、分かってる。―――分かってるって。せやけど、もうアカンのや。なんぼ呼び戻されても、もう、戻られへん。地味で平凡やけど、ウチに合う、もっと、もっと、素晴らしい世界があることが分かったんや。そこで生きて行く決心をしたさかい、もうここへは来ぇへん。でも、みんなのことは忘れへんで。おおきに、‥‥‥ありがとう」

 

最後の言葉を涙声で告げると、真理はマイクを持ったまま天井を仰いだ。


「‥‥‥三四郎さん。出ましょう」

 

柱の陰で、千明は潤む瞳で三四郎を見上げて彼に寄りかかった。母の言ったとおりだった。

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