第17話 招かれざる客


             

雨は嫌いだ。雨が降ると、娘の傘を持って幼稚園へ迎えに来てくれた―――紫陽花の群生を背にしたあのときの父の笑顔が目蓋に浮かんで、千明の頬に独りでに涙がつたう。城崎町の自室の窓から庭の紫陽花を眺めながら、千明は何度涙を流したか知れなかった。

 

敬藍荘の庭にも紫陽花の群生があり、東窓を埋め尽くさんばかりの青紫の花弁をつける。昨年の引っ越しの折、業者に机を窓際に運んでもらったのに、千明が自らの手で四畳半へ移動させたのは、雨と紫陽花が理由だった。


雨の影響を受けた千明の紫陽花に対する印象であるが、その紫陽花も、五号室の老婆が娘夫婦に引き取られてからというもの、庭の他の草花同様、手を入れる人がなくあるがままに委ねられていた。そう、季節の訪れと共に四季折々の花が咲き誇り、それはそれで見ているだけで心和み楽しいものだった。


「な、千明さん。田上のおばあちゃんが居らんようになってから、花が育々してきたと思わへん? やっぱり、あんまり手を入れたらアカンのやな、花でも何でも」

 

満開の菊やバラを手折りながら、千明と顔を合わす度に、民子が肩をすくめ苦笑いを浮かべた。大事に育てた一人息子に裏切られ、赤子養女に出した娘の世話を受ける羽目になった老婆を皮肉ったつもりなのだ。


「な、千明さん。紫陽花が綺麗やで。千明さんの分も切っといたろか」

 

洗濯物を干し終えて、民子が庭からレースのカーテンを開けた。10時過ぎともなると暑い日差しに被われて、民子の顔に玉の汗が浮かんでいる。色白で、いわゆる餅肌というのであろう、化粧をしなくても十分綺麗なのに、商売柄そうもいかないらしい。


「ええ、ありがとう。でも、まだ花を愛でる心境じゃないから」

 

椅子から立ち上がって、千明は苦笑しながら窓際まで歩いた。紫陽花は好きな花ではないし、花を切って生けるのは性に合わないからだが、楽しんでいる民子に本音を伝えるのは無粋であろう。


「な、綺麗やろ」


民子は屈託がない。枝振りのよい大輪を、気前よくチョッキン、チョッキンと植木バサミで切っていく。


「な、千明さん。今年はホンマに雨が少ないな。ウチも雨は嫌いやけど、こんなに降らへんかったら、ちょっと不安になるで。十何年前もいっぺん給水制限あったけど、またあんなことになるんとちゃうやろか」

 

急にハサミを持つ手を止めて、民子が千明の顔をのぞき込んだ。


「本当に少ないわね。でも、もうすぐしたら梅雨の季節だから、大丈夫でしょう」


「せやけど、前みたいに空梅雨ゆうこともあるしな」

 

前回の給水制限にはほとほと手を焼いて、〈バー民子〉のお客にまで大迷惑をかけてしまったのだ。


「あっ、そうだ。ゴメン、民子さん。やりかけの仕事がまだいっぱい残ってるから」

 

仕事の途中だったことを思い出し、民子に断って、千明は慌てて机に戻る。遠足の収支報告と、六月に行く校外学習の案内を午前中に書き上げ、午後からは久し振りに城崎へ帰る予定を立てていた。


本当は先週城崎へ帰るつもりだったが、息子の顔が見たくて兵庫区へ出かけ、夫―――正確には元夫であるが、彼の家の周りをウロウロと歩き回った。公園のベンチに腰を下ろし、長い間、茂樹が出て来るのを待ったが、目に付いたのは息子の幼馴染みたちだけだった。惨めだった。


〈なるようにしかならない〉

 

苦い後悔だけが残り、三四郎の生活訓が身に染みる一日だった。

 

―――もう、あんな不様なまねは、二度としない‥‥‥。

 

一週間前のことを思い出しながら、校外学習の行き先を使い慣れたワープロに打ち込んでいると、

 

――コン、コン

 

来客が遠慮がちにドアをたたいた。


「はい」

 

立ち上がってドアを開けると、真理だった。学生時代に千明が愛用していたチェックのブラウス、それに水色のスカート。ヘヤーピンまで千明愛用のものを着けて、もじもじと俯き加減で立っていた。


「まあ! 真理ちゃんじゃないの! 突っ立ってないで、早く入りなさいよ」

 

千明が入室を促すが、


「こんにちは、千明さん。もっと早く伺わないと、と思いながら、ずいぶん遅くなって、申し訳ありません。おかげ様で―――」

 

真理は室内へ入らず、改まって、ぎこちない挨拶を返すのだった。


「もう! 嫌よ、真理ちゃんのそんな挨拶。他人行儀なことはやめてよ。それにね、私は真理ちゃんの大阪弁が大好きなの。私も本当は関西弁を話したいのに、話せないだけなのよ。だから以前の話し言葉に戻ってよ。お願いだから」

 

千明が改まった真理にふくれっ面を向けると、


「エヘヘ」

 

真理もようやく以前の仕草を取り戻し、上目遣いに千明を見上げて頭をかいたのだった。


「でも良かったわ、立ち直れて。本当は今日、午後から城崎へ帰るつもりだったのよ」

 

真理の肩を両手で抱いて、千明がその変わりように驚いていると、二人の会話が聞こえたのか、民子が廊下へ顔を覗かせた。


「やっぱり真理ちゃんの声やったんやね。まあ! えらい可愛なって、髪形まで千明さんと一緒やんか」

 

二人に駆け寄り、しげしげと真理の顔を見つめる。


「うん。診療所の手伝いしてるさかい、髪は短めの方がエエねん。せやけど、ウチ、全然くせ毛ちゃうから、千明さんみたいにうまいことカーブが入らへんねん。カーラー使うて緩く巻かそうと思うんやけど、うまいことカールせえへんねん」

 

今度は真理がぷぅっと、可愛いふくれっ面をすると、


「それ、それ。その調子で喋ってくれないと、困るわ。民子さん。真理ちゃん、大阪弁忘れたみたいだから、思いっきり思い出させてあげてよ。―――ね、今夜、泊まれるんでしょ」

 

千明が二人の背中を抱いて、朗らかな笑顔で交互に見回す。


「ね、お昼、私におごらせてくれない。お願いだから」

 

千明は嬉しくて仕方がないのだ。


「ううん、ウチが払うわ。マルニ堂のご隠居や柴先生から、バイト料、ようけもろたさかい」


「こら! 子供がナマ言うんじゃない! お給料が入って、私だってお金持ちなんだから」


「ほなら、三四郎ちゃんも呼んで、皆で一緒にお昼食べに行こか」

 

民子も大乗り気で、三四郎まで加えようとするが、


「民子さん、やめてよ! すぐ三四郎さんを引っ張り出して、私とくっつけようとするんだから。民子さんの悪い癖よ。今日は女三人だけにしましょ。ねぇ、真理ちゃん」


「‥‥‥うん」

 

千明が屈託のない笑顔で三四郎の名前を口にするのを聞くと、真理は柴の得意顔が浮かんできて、少々複雑であった。


「さあ、行こう、行こう」

 

ぺちゃくちゃと他愛ないお喋りを楽しみながら、市場の入り口にある中華料理店〈武庫飯店〉へ入る。城崎もいいが、久し振りに訪れる武庫之荘も庶民的で、真理には城崎と同じくらい味わい深い。


「さあ、今日は超豪華に、Aランチと行きましょうか」

 

テーブルに着くなり、千明はメニューを開いて目の前の二人に笑顔を振りまく。浮き浮きと童心に戻った気分なのだ。


「ホンマに久し振りやな。こんなに気持ちエエのんは」

 

民子も雛菊のような愛嬌笑顔を絶やさなかった。


「今の気分やったらなんでも美味しいけど、この春雨サラダ、めっちゃおいしいわ。今度いっぺん柴先生に作ったろ。‥‥‥パセリと他に、何を混ぜてんのやろか」

 

真理は料理を味わいながら、城崎町の自宅食卓の参考に余念がなかった。

 

お喋りを楽しみながら、ゆっくりと食後のコーヒーを飲んで店を出る。アパートへ戻ると、二時を少し回っていた。


「ご馳走さま。ほな、ウチはこれで失礼して、夕食の買い物に出かけるわ。晩ご飯はウチの部屋で一緒に、すき焼きと行こか」


「ええ」

 

民子の提案に笑顔でうなずき、千明は真理を促し自室へ入る。


「千明さん。柴先生て、女性にもてるんやで。―――みんなお婆ちゃんやけどな。そのお婆ちゃんらと、マルニ堂のご隠居が柴先生の取り合いすんねん。『あの婆さんたちが相手じゃ、多勢に無勢だからね。真理ちゃん、アナタには是が非でも私の味方をしてもらわないと困りますよ』って言うて、マルニ堂のご隠居は、ウチを味方に引き入れようと思て必死やねん。せやけど、ウチは中立を保たなアカンやろ。な、千明さん」

 

コーヒーを飲みながら真理の話を聞いていると、引っ切りなしに柴が出てきて、彼に対する真理の気持ちが痛いほど千明に伝わってくるのだった。


「‥‥‥ね、真理ちゃん―――」

 

真理の将来に対する千明の考えや、教師という職業を隠していた言い訳をしようと口を開いたとき、


「おい! ここが、電話番号の女が住んでるっちゅう、アパートなんやな。間違うてたら、承知せえへんぞ!」

 

アパート前で、バン! と車のドアを閉じる音と、荒々しい男の声が響いた。一人の男が数人の男たちに脅されている様が、会話を通して、生々しく事態の深刻さと緊迫感が伝わってくる。


「ホンマに、僕ちゃいますねん。マリーが勝手にやったことやから。‥‥‥なあ、堪忍してくださいな」

 

玄関先で哀願する男の声が耳に入ると、


「えっ!? ‥‥‥」

 

真理の顔から血の気が引いてしまった。声の主は、あの山乃瀬皓三であった。


逃げ回っていればよいものを、二カ月近くにもなったので臆病者にも油断が生じたのであろう。着替えを取りにグリーンコテッジに舞い戻ったところを、張り込んでいたチンピラに見つかってしまった。


ヤクザの狙いはもちろん真理なので、皓三を締め上げて、クー子から真理の連絡先を聞き出させたのである。


「何や! ほとんどが空き室やないか。藤井千明ちゅうのは、何号室や!」

 

リーダーらしき男の、ドスの利いた声に続いて、


「へい! 3号室ですわ」

 

手下の声がして、男たちは土足のまま部屋の前まで歩いて来た。


「ちょっと、藤井さん。居てまっか?」


「‥‥‥」

 

出たくなかったが、ノックされて仕方なく千明がドアを開けると、


「あっ!? マリーや。あの女ですねん!」

 

三人の男たちに首と肩、それに腕を押さえつけられ、縮こまっていた皓三が、急に勢いづいて右手で真理を指し示した。


「おい! 女を連れ出せ!」

 

背の低い小太りの短髪中年男がリーダーの北奈賀で、彼の指示で、皓三の肩を押さえていた男が千明を押し退けて、部屋へ入り込もうとするが、


「ちょっと、何をするんですか! 警察を呼びますよ!」

 

千明は男の右腕にしがみついて、必死に抵抗を試みる。


「その女も引っ張り出せ!」

 

北奈賀の声とほぼ同時に、


「何をするんだ! 止めたまえ!」

 

三四郎が脱兎のごとく玄関横の階段を駆け降りてきた。すさまじい形相と勢いだった。ドン! ドン! と一瞬の内に三人の男を突き飛ばすと、千明の腕を掴んでいた男の右腕をねじ上げ、


「タアー!」

 

鋭い気合いと共に、三四郎は男を背負い投げで投げ飛ばしてしまった。男の足で廊下の天井灯が割れ飛び、激しく仰向けに体が投げ落ちた床もベキッ! と鈍い音を立てて撓(たわ)いだ。


「コ、コ、コラー! ナ、ナ、何、さらすねん! ニセ学生が、女使うてウリ(売春)さらしゃがったさかい、その落とし前つけに、き、来たんやないかい!」

 

力では叶わないので、北奈賀は立ち上がると三四郎にグイッと顔を近づけ、大声で啖呵を切ってすごんだ。


「エッ! 皓ちゃん、ニセ学生やったん‥‥‥」

 

皓三がニセ学生と知って、真理はよほどショックだったのか、全身の力が抜け落ちて千明にもたれかかった。


「―――真理ちゃん‥‥‥」

 

千明がうなだれた真理を優しく抱きしめると、


「マリー! その千明ちゅう女はな、お、お前が一番嫌うてる先公やぞ! 車の中で、ヤーさんらが言うてたぞ!」

 

皓三が真理と千明の前に割り込んで来て、ここぞとばかり、狂ったように千明を責め立てる。


「‥‥‥千明さん、ホンマやの?」


「真理ちゃんゴメン。‥‥‥こんなつもりじゃ、なかったのよ。こんなつもりじゃなかったのに、‥‥‥言いそびれてしまって。でも、聴いて―――」

 

真理の顔をのぞき込んで、千明が必死に弁解を試みるが、


「千明さんも、皓ちゃんも嫌いや! ワー!」

 

真理は千明の手を振りほどいて泣きながら駆け出してしまった。


「真理ちゃん! ちょっと待ちなさい!」

 

三四郎が追いかけようとするが、


「おい! コラッ! まだ話がついてないやないか!」

 

えらの張った若い男が背後から飛びつき、格闘の訓練を受けているのか、素早い動きで羽交い締めの体勢を作られてしまった。


「離したまえ!」

 

咄嗟に首投げを打って自由を確保したものの、千明を残して真理の後を追うわけに行かず、三四郎が男たちと押し問答をしているところへ民子が買い物から帰ってきた。


「何や! アンタら! 暴対法(暴力団対策法)も知らんのか! 一体、どこの組の者や!」

 

男たちの風体からすぐ暴力団と分かったのか、鬼のような形相で四人に怒鳴りつけた。


「あっ! 香川の姉(あね)さん!」

 

声の主を振り向いて、北奈賀が立ちすくんだ。


「北公やないか! カタギの衆に手出して、このアホンダラ!」

 

土足のまま北奈賀に駆け寄ると、バシッー! と激しいビンタが左頬に炸裂した。


「この女(あま)! 兄貴に向かって何さらすねん!」

 

最初に投げ飛ばされた相撲取りさながらの大男がいきり立って、民子の襟を掴み殴り返そうとするが、


「アホッ! お前こそ、何すんねん!」

 

三四郎が止める前に、北奈賀が慌てて男の後頭部を張り飛ばした。


「‥‥‥せやけど、兄貴」


「せやけども、クソもあるかィ! この方を殴ったりしたら、命がなんぼあっても足らんのじゃい! 俺を殺す気か! アホッ! 帰るぞ!」

 

大声で子分を怒鳴りつけてから、


「スンマヘン、姉さん。姉さんのお知り合いの方とは存じませんでしたんや。もう二度と、ここへは伺いませんさかい、どうぞ、このことはご内分に」

 

民子には呆れんばかりの卑屈さで、ペコペコと北奈賀は頭を下げていたが、


「ホンマによろしう頼んます。へい、スンマヘンでした」

 

最後に哀願口調で見上げると、子分を連れて尻尾を巻いて逃げ帰ってしまった。


「‥‥‥千明さん、そんな顔せんといて。アンタには、ウチのこんな姿、見せとうなかったんや。お願いやから、今のことは忘れて。なあ、お願いや」

 

よほどの驚愕顔だったのか、民子は三四郎の陰に隠れる千明の手を握って、泣きそうな顔で見上げた。


「―――いいえ、ゴメンなさい。助かりました、―――いえ、助かったわ、民子さん。ありがとう」

 

ようやく我に返って民子に礼を言うが、千明は頬が強張って、ぎこちない言葉しかかけられない自分がもどかしかった。


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