第16話 診療所の花


            

佐和子がいみじくも言い当てたが、真理は成虫になる前のサナギで、身を守る術を持たない幼児に等しかった。動けないのだ。


考えることも出来なかった。考えれば、後悔と苦悩に襲われ、目を閉じ耳を塞いで大声で泣きわめきたくなる、いや、わめかずにいられないのだ。

 

存在をかけるほどの変化に直面したとき、人は多かれ少なかれ、このような状況に陥るのであろうが、今回、真理は理想的とも言える土地と人たちに守られていた。ゆったりと落ち着いた、心和む湯の里・城崎の町。そこに住む人たちも、さり気なく、こまやかに、真理の成長を助けていった。


「真理ちゃん、いつまでも塞ぎ込んでちゃダメでしょ。さあ、おばちゃんと買い物、買い物」

 

佐和子は無理にでも真理を部屋から連れ出し、うつ状態に陥る余裕を与えなかった。実際、真理はよく動かされた。これまで佐和子の手筈だった円山川花店との交渉まで、真理の分担に加えられてしまったのだ。


生徒の数と、レベルに合わせた花の注文。ノートにびっしりと細かく丁寧に書き込まれた花の種類とその季節も、当然覚えなければならない。部屋で塞ぎ込む余裕などあろうはずがなかった。

 

マルニ堂のご隠居からもよくお声がかかった。佐和子に頼まれてのことだと思うが、


「真理ちゃん。あなたは私のお気に入りだから、悪いんだけど、島根まで仏像を見に行くのに付き合ってくれませんかね。もちろんアルバイト料は、うんとはずみますから」

 

理由を見つけては、真理を誘って家から連れ出す。


「そう、そう。真理ちゃんには、そのひまわりのような笑顔が一番お似合いなんだから」

 

真っ赤なベレー帽(子)をかぶった、茶目っ気たっぷりのご隠居と史跡や骨董店を回っていると、真理の顔も自然とほころぶ。


「この仏像はね、真理ちゃん。平安朝後期のものでね、日本にはここだけにしかないんだよ。値段は付けられないけど、恐らく、~ん十億はくだらないだろうね。―――おっと、いけない、いけない。今はやりの仏像泥棒に見られると狙われちゃうから、いまのは内緒だよ」

 

片目をつぶり指を三本立てた後、あわててそれを左手で隠す仕草がおかしくて、真理は吹き出してしまう。若い頃、東京で暮らしたご隠居は標準語をしゃべったり、育った城崎の関西弁を使ったりで、話しているだけでも楽しかった。


「いいねぇ。お口に手を当てて笑うなんざぁ。段々しっとりと、女らしくなってきて。―――ところでね、真理ちゃん。私は趣味で卦(け)を立てるんだけど、占ってみると、あなたはずっと城崎で暮らすことになるらしいんですよ。将来はさしずめ、お医者の奥方ってとこかな」

 

ボタン満開の松江市の由志園、そのボタン庭園を並んで歩きながら、ご隠居に不意を突かれて、


「えっ! ‥‥‥」

 

真理は耳たぶまで真っ赤に染まって、頬から火が出る思いだった。


「ゴメン、ゴメン。驚かせちゃって。でも何度占っても、そう出るんだよ。出来れば私の息のある内に、そうなってほしいんだけどね‥‥‥」

 

易を信じているのか、それともご隠居の希望なのか分からないが、これ以来、ご隠居は真理に易の話をすることはなくなった。


「ね、真理ちゃん。今日は、四年前に亡くなった連れ合いの話しでも聞いてもらいましょうか。これは誰にも話したことがなくて、あなたが初めてなんですよ」

 

松江市の小さな寺へ補修仏像を届け、城崎まで戻って、真理と並んで秋葉大権現を巡る坂へさしかかったとき、ご隠居は神妙な面持ちで立ち止まった。


「チヨというのがおばあさんの名前なんですがね、そのチヨがこの坂を〈恋むすび坂〉と呼んでいたんですよ。東京の仏具店の一人娘でね、両親は私との結婚に反対だったんですよ。老舗仏具店の跡継ぎがいなくなるってね。‥‥‥でもね、結局、チヨは私との結婚を選んだんですが、最後の決断は、この坂の、ここでしたんですよ」

 

足元の葵の葉に隠れた白い小石を拾い上げ、愛(いつく)しむように右手で撫でて、ご隠居はゆっくりと元の場所へ戻した。


「もう七十年近くも昔のことになってしまいましたがね。『この城崎の町で生まれ、人情と運命でつむがれた生涯の恋にしたい』って。そう言って、あの小石にも願をかけたんですよ。‥‥‥両親と東京を思って、つらくなったときは、よくこの坂へ来て泣いていましたね。―――さあ、これは真理ちゃんに貰ってもらうのが一番いいでしょう。小石はここに置いておくのがチヨの希望でしたから」

 

蓬(よもぎ)色の腰のベルトバッグから小さな布切れを取り出して、ご隠居は真理に手渡した。藍染の布には、〈功治さん〉〈チヨ〉と、二人の名前が赤い糸で織り込まれていた。

 

あなたの恋も、この城崎の町で生まれ、人情と運命の糸に支えられているんだよ。必ず結ばれると信じて、この町で生きて行くんだよ。ご隠居の意志が伝わる、小さな、小さな布切れだった。


「真理ちゃん、サ。ご隠居のお供をするのもいいけど、俺にも付き合ってよ。いまは行楽には最高の季節なんだから。どうだい、今度の土・日、ちょっとツーリングに出ないか」

 

柴もよく真理を連れ出した。三度の食事に藤井家の門を叩くので、毎日顔を合わせるのだが、土・日が訪れると、バイクの後部シートに真理を乗せて、豊岡の町を走り回ってくれる。


「ここが千明ちゃんの出た大学なんだ。高校までは僕も一緒だったんだけど、大学は俺、東京の医科歯科大学だったから、ここじゃなかったんだ。でもいい大学だろ。コウノトリの郷公園とセットになってる感じで、広々としていて」

 

広いキャンパスを持つ県立大学を初めて見せられたとき、真理は然したる感慨も湧かなかった。大学などというのは自分には無縁のもので、これまで大学との関わりなど想像もできなかった。が、翌日の日曜日、正門前で、


「千明ちゃんは、真理ちゃんを大学、特に自分が出たここへ行かせたいらしいんだ。高卒認定っていう制度があるんだけどさ、それに受かると高校を出てなくても大学を受験できる資格が出来るんだよ。それを真理ちゃんに受けさせたいんだって」

 

柴から千明の真意を聞かされたとき、真理はコウノトリが象徴でもある新しいキャンパスがぼうっと霞んで見えなくなってしまった。これまでの苦しみが、千明や佐和子、それに柴と出会うための代償であったのなら、もっと、もっと苦しんでもいい。いや、苦しませて欲しい。舞い上がるような喜びはなかったが、静かで落ち着いた感覚に浸りながら、千明や佐和子の生き方を自分も出来るのではないか。真理は、体の奥から湧き上がる充実に、身も心も震えるのだった。

 

ところで、お年寄りがこよなく愛する診療所は、〈城崎温泉きみ待つ診療所〉。柴の診療所の名前で、千明が城崎へ戻ってくれることを願って命名したと、柴は公言してはばからない診療所なのだ。


この城崎温泉きみ待つ診療所があるのは、四所神社から程遠くない四軒長屋の一画だった。千明の真意を知ってからは少し離れた大学へバスに乗って足を運ぶようになったが、真理はこの診療所へも足繁く通うようになった。


「何だよう! まだ八時前じゃないか。もう少し寝させてくれてもいいじゃないか」

 

不満たらたらの柴を起こしに、増築した二階へ上がってきて、


「もうとっくに朝食は出来上がっていますから、早く食べに行ってください。私は掃除をしてから、おばさんとこへ戻ります」

 

眠気眼(まなこ)の柴を蒲団から追い出し、真理は手際よく部屋の掃除を始める。不思議なもので、強い感謝と尊敬の念が生まれると、言葉遣いも自然と丁寧語に変わってしまうのだった。

 

診療所がバス停近くにあることや懇切丁寧な治療を受けられるので、受診者の大半が老人で、朝早くから近隣はいうに及ばず、遠来からのお年寄り患者で大賑わいだった。


「真理ちゃん、柴先生によう言うといてな。あんまり長いこと往診に行ってたらアカンて。私らかて、ここでお茶飲んで喋ってるのも楽しいけど、やっぱり柴先生に診てもらいたいわ。マルニ堂のご隠居ばっかり診てたら、私ら、焼き餅やくでって」


「はい。柴先生によく言っておきますので、それまで山中のおばあちゃんに戴いたお饅頭で、お茶を飲みながら待っていてください」

 

何時の間にか、柴の留守を預かるのも真理の仕事になってしまった。


「真理ちゃん、アンタはホンマにエエ子やな。柴先生も、藤井さんとこの千明さんを忘れて、真理ちゃんをお嫁に貰たらエエのに。若うて、こんなに気のつく子は滅多にいてへんで。おまけに千明さんに負けんくらいべっぴんさんやし。―――なあ、皆さん」

 

面倒見が良く甲斐甲斐しく働くのを見て、おばあちゃんたちがファンクラブを結成しかねない勢いで、たちまち千明の対抗馬に祭り上げられてしまった。


「‥‥‥もう、ウチ、いや私なんか―――」

 

真理はぽっと頬を染めて打ち消すが、自分の存在を認め、頼ってくれる人たちがいるのは、生活に張りが生まれる。これまで経験したことのない充実した毎日なのだ。

 

佐和子や柴、マルニ堂のご隠居のおかげで、真理は色んな人たちと巡り会い、知らず知らずのうちに、この町と深い絆で結ばれて行くのであった。

 田所母娘との付き合いも、真理の心をどれほど和ませてくれたであろう。二人は真理の家から五百メートルほどの竹林の中の、広々とした解放感溢れる平屋に住んでいた。


「竹林荘。そんな感じの家やね」

 

最初に招かれて、真理は田所家が大のお気に入りになって、竹林荘と名付けたのだった。


「黄金分割って言うらしいんだけど、玄関から見た縦と横の比率が約1対1、6なんだって。主人が図面を引いて、もう、それこそ大変だったのよ。まだ駆け出しの建築士だけど、この家には相当自信あるみたいよ。真理ちゃんも、遠慮せずに遊びに来てね」

 

親しく付き合うようになると、診療所の休憩時間に三人一緒のティータイムが多くなった。


「お姉ちゃん、ティータイムでちゅよ」

 

竹垣の石畳を歩いて玄関へ着くと、夏美が美代子の腕の中から声をかけてくれる。


「美代子さん、この家にいると冷房はいらないわね。涼しくて本当に気持ちがいい」

 

日中の暑さも竹林の中は別次元の過ごしやすさで、ひんやりとそよ風に吹かれる涼感と竹の香りが、心地よく肌を包むのだった。


「でも、いいことばかりじゃないわよ。まず藪蚊ね。夏美が網戸を開けたりすると、もう大変。真っ黒い藪蚊が、何ともいえない羽音を立てて、大挙して飛び込んで来るの。蚊を殺すのに、それこそ悪戦苦闘よ。―――それに、主人は木の葉に悲鳴を上げているわ。屋根だけでも大変なのに、雨といにも数え切れない木蓮の落ち葉と枯葉が積もるの。一週間も掃除を忘れて雨が降ったりすると、雨水が詰まって、取り除くのに四苦八苦するんだから。でも、その仕草が可愛いの」

 

雨合羽に身を包み、落ち葉と格闘する夫を思い浮かべ、美代子は吹き出してしまった。


「お姉ちゃん。夏美に、ホットケーキ焼いてくだちゃいな」

 

紅茶を飲みながら、美代子と笑い合っていると、夏美によくねだられる。一度焼いてやったのが気に入られたようで、ホットケーキは真理が焼くものと決めつけていた。


「ゴメンね、真理ちゃん。もう私のじゃ、駄目だって言うの」


「いいのよ、美代子さん。家にいたとき、よく弟に焼いたげたんで、うまくなったんだと思うわ」

 

弟や継母のことも懐かしく思い出されるほど、彼らにもわだかまりが無くなっていた。

 

新しい人生への、着実な一歩。温泉町城崎で、真理はゆっくりと大きく踏み出したのであった。


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