第15話 揺れる心


              

「‥‥‥ねぇ、三四郎さん。いらっしゃる?」

 

階下へ響く足音で居るのが分かっているのに、千明はドアの外で赤くなりながら室内へ呼びかける。意識しないよう心がけるのだが、男性の部屋はやはり抵抗があって、自分でも可笑しいくらい動作が固くなる。


「はい」

 

人間というのは正直なもので、喜怒哀楽がすぐ声に出てしまう。朗らかに弾んだ、好意に溢れる返事を聞いて、千明はほっと胸をなで下ろしたのだった。


「あ、千明さん」

 

声で千明と分かっているのに、三四郎は照れくさいのか、ドアを開けて初めて知ったような振りをした。


「‥‥‥あのう、夕食に八宝菜を作りましたので、まだお済みでなかったら、召し上がるかしら、と思って」


「あ、どうも。助かります。いつも申し訳ないです」

 

千明が怖々と差し出す皿を受け取ると、


「どうぞ、入ってください。散らかってますけど。―――コーヒーを入れますから」

 

三四郎は、千明が入りやすいようドアを開け放した。この部屋だけ明かりがともっていて、広い廊下に続く左右のドアはすべて閉じられ暗かった。


「それじゃ、ちょっとだけ」

 

不思議なもので、ドアが開いたままというのは入りやすいし、入らねばならないような気持ちになってしまう。


「お邪魔します」

 

三四郎も千明と同じで、入り口を入った四畳半の間に机を置いていて、パソコンで何やら書面を作成していた。


「あ、それ、履歴書なんです。来年から、垂水区の高校で社会を教えようかなって考えているんです。それと、柔道整復師の資格をとって、接骨院を開くことも考えているんです。高齢化社会で、お年寄りに喜ばれる職業なんで、やりがいがあるでしょう」

 

千明が画面を一瞥したのを見て、三四郎は苦笑しながら頭をかいた。教職に就いて、取り敢えず五年間くらいの生活プランを具体的に描く。そして、その五年の間に、柔道整復師の資格を取れれば、何とか将来の生活もたちゆくのではないか。


「そうね。私も賛成だわ。民子さんも言ってらしたもの、三四郎さんは柔道をやめたほうがいいって」


「民子さんは簡単に言ってくれるけど、柔道には色んな思い出や、‥‥‥思い入れがあって。―――でも、千明さんが遠野九段のお嬢さんだなんて、奇遇だな。僕、遠野さんに講道館で稽古をつけてもらったことがあるんです。すごい足腰の強い人でね、大外刈りが得意技だったな」

 

三四郎が十数年前のことを思い出そうとすると、


「三四郎さん。はっきり申し上げますけど、父とは二十年以上も他人ですし、‥‥‥父のことは思い出したくないんです」


 千明が六畳間のソファーから身を乗り出し、台所の三四郎に抗議する。


「あ、ゴメン。‥‥‥いや、申し訳ない」


「私、失礼します」

 

千明が帰ろうとすると、三四郎が台所から慌てて出てきて、


「千明さん、悪かった。謝るよ」

 

机の前で体がぶつかってしまった。


「―――あ、いやっ‥‥‥」

 

力強い腕で抱きしめられ、唇を合わされると、千明の体から力が抜けて行って、意識も薄れていく。


「‥‥‥ねぇ、お願い―――」

 

あえぎながら、かろうじて唇を離し、か細い声で頼む。


「ね、お願いだから。‥‥‥三四郎さんに抱かれると、ダメになるの」

 

千明は両手で厚い胸を押して、諭すように言う。こんな力強い男性は本当に初めてで、子供の頃、父に抱きしめられた感覚が甦ってくる。心が拒んでいるのに、体が父の抱擁を覚えていて、抗えないたくましい力と大きな安堵感にしびれてしまうのだ。


「‥‥‥ありがとう」

 

三四郎の腕から逃れて、千明はソファーへ戻った。真理が来たせいで三四郎と親しくなり、知れば知るほど彼の人となりに引かれていく。八月には弁護士を立て、茂樹の引き渡し請求をするつもりだというのに、母親失格ではないか。そんな後ろめたさが湧いて来て、千明は何ともつらくなる。


「千明さん、今日は城崎へ帰らなかったの?」

 

抱かれて唇を合わされると、三四郎の言葉使いまで変わってしまうが、もちろん不快なものでなく、心地よく耳にからむ。


「ええ。真理ちゃんが少し事件を起こしたんだけど、何とか乗り切れそうだし、私の顔を見ると逆に混乱するかも知れないからって、母が言うの。だから日曜だけど、城崎へ帰らずに幽霊アパートに居ることにしたの。だって、ここにも気になる人がいるんだもの。―――右腕は大丈夫なの? さっきみたいに力を入れても」


千明は頬を染めながら、三四郎が入れてくれたコーヒーを口に運んだ。


「これ以下にならないとこまで痛めてるから、手術も簡単だったし、治りも早いんだ。使えるところまで回復しているかなって、長年、淡い期待を抱いてきたけど、それが無惨にも打ちのめされたのが少々シヨックだったくらいかな。いずれにしてもいい機会というか、切っ掛けになったよ」

 

三四郎も苦笑いを浮かべ、コーヒーカップを取り上げた。千明との会話が心地よかった。


「‥‥‥そうか。真理ちゃん、そんなことがあったのか。でも良かったね。いい方向へ向かっているみたいだから。短期間の内に大きな変身を遂げそうだけど、‥‥‥僕も真理ちゃんにあやかって、良い方へ変われるといいんだけど」

 

千明から真理の事件を聞き終えると、三四郎は自分サイドに話題を引き込む。


「ね、千明さん。こんな身分で無責任だけど、僕との結婚を考えてほしいんだ。僕は千明さんしか―――」


「お願いだから、その話は止めて。こないだも言ったように、私は離婚歴のある女で、おまけに一児の母よ。三四郎さんの御両親が賛成しっこないわよ。それに、近々、訴訟を起こすつもりなのに、結婚なんて、とてもとても」

 

三四郎の言葉を遮り、千明はまるで自分に言い聞かせるかのように目をつぶって、真剣な顔で首を振った。


「両親は関係ないよ。これは僕達の問題だから。お子さんのことを言われると、貧乏人にはつらくて返す言葉もないけど、徐々に経済力をつけて行くから、何とか前向きに考えてくれないだろうか」


「ううん。貧乏はまったく苦にならないわ。貧乏の衣をまとって、愉快に生きているお友達がいるもの」

 

眉間にしわを寄せた、柴のだだっ子顔を思い浮かべ、千明はくすっと笑った。


「だったら、問題ないんじゃない。何とか―――」


「いいえ、問題はあるの。私の気持ち。今はとてもそんな気持ちになれないのよ。だいたい強引なんだから、柔道なんかしてる人って。もうこれ以上その話をするんだったら、私は部屋へ戻るわよ」

 

千明は三四郎を笑顔でにらみつけた。人生の転機に直面しながら、それを楽しんでいる自分に気づいて、軽い驚きとともに言い表しようのない喜びが込み上げてくるのだった。

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