第14話 羽化
信念が崩れたときの脆(もろ)さ。千明は何度味わったことだろうか。支えを無くした心は悲鳴を上げながら、奈落の底へと落ちていくのだ。
いつも一人だった。運よく一条の光を見つけても、這い上がるまでに一人で長い苦悩の日々を耐え忍ばねばならなかった。
真理も信念というか、生きる縁(えにし)を失ってしまった。彼女にとっては初めて手に入れた甘美で心地よい世界だったのに、実体のない虚像と知らされてしまった。
新しく出直すには、大きな試練が待ち受けていた。といって、後戻りは出来なかった。これから味わう真理の苦しみを思うと、彼女のためとはいえ、千明は心が痛み、後ろめたかった。
「ね、真理ちゃん。私は仕事が忙しくて常時アパートにはいられないから、あなたは城崎へ戻ってほしいの。母の方が、私よりよっぽど頼りになるから」
責任逃れではなく、千明は確信していた。
翌日の日曜日、民子の部屋で昼食を馳走になり、一時過ぎに二人は敬藍荘を後にした。阪急の車両内でも、またJRに乗り換えても、真理は寡黙だった。
「‥‥‥」
千明も、真理の横に座りながら一言も発することはなかった。一か月前と同じく六度の乗り換えを果たし、城崎温泉駅の改札を出ると、佐和子と柴が二人を迎えに来ていた。
「おーい! 千明ちゃんに真理ちゃん。こっち、こっち」
柴は駅斜め前の駐車場にカローラを止めて車外に立っていたが、二人の姿が目に入ると、改札前へ大きな声をあげながら手を振って駆け寄ってくる 。
「‥‥‥ただいま。お母さんに公夫クン」
真理と並んで改札を出た千明は神妙だった。俯き加減の真理の肩に手を置き、二人を見回す顔が曇ってしまう。
「どうしたんだよ。二人とも、元気のない顔をして。―――さ、今日は四人でファミレスで超豪華な食事をしようと思って、三十二年前のクラシックカーに乗って来たんだからさ。元気、元気。元気を出してよ」
人混みの中で、柴は軽口をたたいて二人を笑わせようとするが、
「ごめんなさい、公夫クン。私は明日の仕事のことで、すぐ帰らなきゃならないの。ご馳走は次回にお願いするわ」
隣の真理に目をやってから、千明はすまなそうに申し出を断る。生徒の連絡帳にまだ目を通しておらず、遠足のプリントを作成する必要もあった。
「もー! せっかく帰って来ても、すぐこれなんだからなー」
柴はふくれっ面で不満たらたらであったが、千明の仕草から深刻な事態を察知したのであろう、
「な、真理ちゃん。おばちゃんと三人で少しドライブしよう。先に車に乗っといて、どこへ行くか決めておこうよ。さ、行こう」
千明に、佐和子と二人だけの時間を作ってくれたのだった。
「お母さん、ゴメン。私が何とかしなきゃいけないのに、時間も力もないの。真理ちゃんのことお願いするわ」
母に対して、こんなに素直になれるなんて、一カ月前には想像も出来なかったが、これも真理のおかげといえなくもなかった。
「はい、はい。分かりましたよ。覚悟はしていたけど、でもあの様子じゃ、相当深刻らしいわね」
「うん。新しくやり直そうという決心はしたんだけど、過去の清算が出来るかが問題なのよね。‥‥‥相当苦しむと思うわ。―――お母さん、お願いだから、あの子を助けてやって。私じゃ、冷静に対処する自信がないの」
悔しいが、自分には荷が重すぎた。おまけに学校があって、十分なエネルギーを注ぐことも出来なかった。
「安心して、とは言えないけど、ベストを尽くすから。でもあまり期待はしないでね。なるようにしかならないんだから」
券売機の陰で、佐和子は最後に意味有り気に笑った。千明から聞いた三四郎の言葉を引用し、軽い当て擦りで笑いを取ろうとしたのだが、娘には通じなかった。
「そうね、なるようにしかならないものね」
ベストを尽くしても、なるようにしかならない。千明も何度経験したことか。
「よろしくお願いするわ。それじゃ」
寂しそうな笑みを残し、千明は母に別れを告げてホームへ入って行った。
それから三日後の夜、千明が恐れていたことが起こってしまった。
「いやいや、ホント! 真理ちゃんの料理はいつも最高だけど、水曜日は特にいいよ。こんなんだったら、スーパー丸Sがずっと休みだったら助かるのに」
千明がお気に入りだったオーバルテーブルでの夕食を三人で囲み、柴が水曜定休のスーパーをダシに真理を笑わせようとするが、彼女は遠慮がちな微笑みを浮かべただけで、すぐキッチンへ立ち上がって後片づけを始めた。栄養のバランスを考え、佐和子の指示を仰いでの日々の献立だが、水曜だけは夕食に柴の好物が食卓に並ぶ。大抵が魚料理で、今夜も鮭のムニエルに真理特製の海鮮サラダ、それに柴が大好きな鯛のお頭赤ダシだった。
柴の軽口に、
「柴先生がもうちょっとお金を稼いでくれたら、鮭のムニエルやのうて、舌平目のムニエルが並ぶんやけどな」
この程度の軽口の応酬が期待できるのに、神戸から帰ってから、真理は人が変わったように無口になってしまった。
「ね、公夫‥‥‥ちゃん。お風呂沸いてるから、入って帰ったら」
今夜は嫌な予感がして、佐和子は少しでも長く柴に居てほしかった。いつもなら「公夫君」か「公夫ちゃん」と、すぐ続けられるのに、今夜はどちらで呼ぼうか悩むところに佐和子の心裡が現れていた。
「うん。お言葉は有り難いんだけど、俺、開運・招福の湯の、一の湯が好きなんだ。あそこに入って寝ると熟睡できるんだよ。貰った一の湯の回数券もまだいっぱい残ってるし、それにここだと着替え持ってないから‥‥‥」
柴は体のいい理由で逃げてしまった。食事は食費を渡すことで甘えの言い訳も立つが、風呂や宿泊となるとやはり限度を越えているように思えて引いてしまうのだ。
「着替えなら、―――」
主人のがあるから、と言いかけ、佐和子は慌てて呑み込んだ。気まずそうな柴の態度から、一線を守ろうとする彼の意図が分かったこともあるが、二十二年間一度も口にしたことのない言葉を言いかけて驚いてしまった。
「それじゃ、おやすみ。真理ちゃんによろしく言っといてよ」
柴の見送りもせず、真理は後片づけが済むと二人に断りも入れずに自室へ入ってしまっていた。普段なら食事が済んでも佐和子から離れず、話をねだったり居間で一緒にテレビを観るのに、今夜の真理は、十時を過ぎても部屋に閉じこもったまま出てこなかった。
「真理ちゃん。お風呂が冷めちゃうわよ。おばちゃんと一緒に入ろうか」
部屋の外から呼びかけても返事がないので、佐和子がドアを開けると、
「真理ちゃん! アナタ、何てことを!」
真理がカッターナイフで、右腕のイレズミをえぐり取っていた。上腕から流れる血で白いブラが真っ赤に染まり、青白い体にまで血のりがベットリと付いていた。
佐和子が慌てて駆け寄ると、
「おばちゃん、来たらアカン! 血がついて汚れるから」
真理は涙の顔で近づくのを止めようとする。
「何を言ってるのよ!」
左手のカッターナイフを取り上げ、佐和子は止血と応急措置を施す。
「おばちゃん! ウチ、アホやったんやー! ‥‥‥ホンマにアホやったんやー!」
佐和子に体を拭かれながら、ビニールシートの上で真理は子供のように泣きじゃくった。
「いいのよ、間違いに気づいたんだったら。本当に、いいのよ」
真理を抱きしめ、頬ずりして気持ちを落ち着かせる。真理の遠慮が足下のビニールシートに覗(のぞ)いているようで、佐和子はいじらしくて涙が流れた。
「さ、このままじゃ駄目だから、ちゃんと治療してもらわないと」
血の滲み上がった包帯に目をやり、真理の耳元で優しくささやく。迂闊だった。イレズミの存在は知っていたので、今夜の事態は予期できたことで、千明なら未然に防止しえただろう。配慮が足りなかったと非難されても弁解の余地がないが、取り敢えず医師の手当を受けさせねばならなかった。
柴に電話して来てもらおうとすると、
「おばちゃん、柴先生はいやや! お願いやから、柴先生はやめて! なあ、お願いやー!」
真理が後ろから抱きついて、泣きながら佐和子を止める。
―――やっぱり‥‥‥。
柴の前では、どんなに暑くても長袖を通すので、佐和子も薄々は感じていたが、これほどまでとは思わなかった。
「‥‥‥分かった。分かったから。―――ね、おばちゃんのお友達のところへ行こう。少し遠いけど、タクシーを呼ぶから、ね」
真理の顔をのぞき込んで、納得させる。女学校時代からの親友がJR豊岡駅裏の旧家に嫁いでいて、彼女の夫が医師をしていた。どんな無理でも、というと語弊があるが、時間外であっても真理のこの程度の治療は頼める間柄だった。
タクシーの運転手に気づかれないよう、包帯を厚めに巻いて、その上に千明の白いブラウスを着せた。無言のままの真理に、淡いピンクのカーディガンも羽織らせ、到着したタクシーに乗り込み自宅を後にした。
住宅街の親友宅へ着くと、午前零時を少し回っていた。
「いらっしゃい。さ―――」
親友の槇林妙子が、灯りを消した住居用の玄関を開けて二人を招き入れる。
「済みません、夜分遅くに」
挨拶もそこそこに、真理を槇林医師に委ね、妙子と照明を抑えた待合室で待つ。千明が茂樹を生んだときのことを思い出して、佐和子は胸が締め付けられ、目頭が熱くなった。
「もう大丈夫ですから。少しあざが残りますが、イレズミは完全に消えているでしょう。鎮静剤を打ちましたので、今夜はここに泊まってもらった方がいいでしょう。少し顔を見せてあげてください」
治療室から出て来た槇林に促され、佐和子が室へ入ると、真理は涙ぐんでいた。
「‥‥‥真理ちゃん。あなたは今、サナギなの。一番弱い姿だけど、負けちゃダメよ。おばちゃんはどんなことをしても、あなたを守ってみせるから。千明のためにも、絶対守るから、あなたも頑張って。‥‥‥ね、お願いだから」
佐和子は真理の涙を拭いて優しく語りかけていたが、千明を守れなかった後悔が込み上げてきて、最後は涙声で抱きしめてしまった。
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