第13話 苦い後悔
後ろ髪を引かれるというのは、こんな思いなのであろう。池田の実家を出るときも神戸を離れるときも、これほどの感慨を味わわなかったのに、わずか一カ月いただけで、しかも翌日帰って来るというのに、まるで幼子が母親の元から引き離されるような不安感に襲われてしまうのだ。
「今日も明日も休みやさかい、柴先生も一緒に行こうや」
少しでも不安を和らげるため、真理は柴を誘ってみた。
「行きたいのは山々なんだけど、そうもいかないのが、医者の仕事の辛いところさ。真理ちゃんから、千明ちゃんによろしく言っといてよ。それと、出来るだけ早く城崎へ帰って来るように、って伝えるのも忘れないように頼むよ」
お年寄りの患者が多いので無理とは分かっていたが、柴の口から予期した言葉が返ってくると少し寂しいが、真理は柴がますます好きになって行く。
「‥‥‥うん、そうやな。柴先生を連れて行ったりしたら、マルニ堂のご隠居は許してくれそうやけど、杉山のおばあちゃんや伊藤のおばあちゃん、それに土居のおばあちゃんは困るやろから、ウチ一人で行ってくるわ」
マルニ堂のご隠居なら、
「いいねぇ、柴先生。若いんだから、たまには若い子と一緒に出かけなきゃ。でないと心まで老けちゃうんだから。柴先生が行かないんだったら、私が真理ちゃんと一緒に千明さんとこへ行っちゃおうかな」
などと言って、柴の背中を押してくれるだろう。ただ、柴の決意が変わらないのも真理には分かっていた。
「もう少ししたら、患者さんの緊急搬送システムが公立病院との間でうまく行きそうだから、そうなったらちょっとは安心して出かけられるんだけどな。今日は、真理ちゃんを駅まで送るだけで、ご勘弁願おう」
真理に恭しく頭を下げて、千明に会いたい気持ちを、柴は笑いでごまかしたのだった。
「ところでさ、真理ちゃん。昨夜、〈あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり〉という歌の話をしたとき、青丹っていうのは青緑の色を出す染料で、奈良は上質の青丹が取れたんで、青丹が奈良の枕詞(まくらことば)になったんだって説明しただろ。でもさ、俺は十六のときから、〈あおによし〉は〈会うに良し〉と勝手に独自解釈をして、〈あうによし きのさきの湯は さくはなの におうがごとく いま君を待つ〉って、思い込んでいるんだ。城崎は本当の恋が結ばれる温泉地で、恋人同士が城崎で会うと、生涯、連れ添えると信じてんだよ。これを一歩進めてさ、想いを込めた人に〈会いに来い〉と呼びかけるのが、〈あおによし〉の勝手な発展的解釈なんだよ。‥‥‥千明ちゃんにこの解釈、真理ちゃんから伝えといてくれないかな」
愛車カローラのハンドルを握りながら、はにかんだ笑顔を助手席に向け、柴がこれまで口外したことのなかった独自説を披露する。
「へぇー! 柴先生の超かってな解釈やな。でも、千明さんに伝えといたげる。柴先生が〈あおによし〉をダシにして、千明さんが城崎へ会いに帰って来てくれるよう、日夜、念じてはるって。―――せやけど、恋人同士が生涯連れ添えるんやったら、〈来い〉に〈恋〉をかけて〈あおにこい〉にしたほうがエエんちゃうやろか」
いつものように一言多いと思いながら、真理も笑顔で応じて、柴の説に独自の新説を継ぎ足す。
「ホントだ! 真理ちゃん、いいこと言うじゃないか。〈来い〉に〈恋〉をかけると、俺の想いがもっと伝わるな。―――あおにの恋、か。いいねぇ。恋の色も青丹の青緑ってことになって、萌えいずる城崎の恋にぴったりだな。‥‥‥生涯をかける恋、イコール城崎の〈あおにこい〉か。〈あおにこい 城崎の湯に 咲く恋は 遅まきながら いま萌えいずる〉ってとこかな。真理ちゃん、掛詞(かけことば)をきっちりマスターしたじゃないか」
「‥‥‥うん」
ほめられて悪い気はしないが、〈あおにこい〉から柴の気持ちが痛いほど伝わってきて、真理はつらくなってしまう。
「そやけど、ホンマに今日は暑いな」
柴のライバル三四郎の顔が脳裏をよぎると、真理は〈あおにこい〉の話題から逃れ、心の曇りを暑さでごまかしてしまった。
「そういや、本当に今日は暑いな。紫外線は肌によくないから、今度、真理ちゃんの帽子を買っとこう。千明ちゃんのと二つ、お揃いのがいいな」
独り言のようにつぶやいて、柴も左手を翳して天を仰いだが、紺のTシャツの左背中に汗がにじんでいた。
今年の夏は記録的猛暑に見舞われ、各地で渇水による給水制限が多発するのであるが、すでにその前兆が現れていて、五月の第一週だというのに驚くほどの暑さだった。
「城崎は内陸盆地みたいなとこがあるから昼間は暑いんだけど、今日はホント、特別の暑さだな」
大谿川に沿った細い道路を走りながら、柴も千明の話題を忘れ、暑い日差しに呆れ顔だった。浴衣姿で歩く若い女性たちも、サングラスに帽子をかぶって、紫外線対策に余念のない有様なのだ。
「こんなに暑かったら、千明さん、たまらんやろな」
可笑しなもので、柴の口から千明の名前が途切れると、今度は自分の口から漏れてしまう。クーラーのない部屋で、年代物のワープロを打つ千明を思い浮かべ、真理はくすっと笑った。
温泉駅近くへ差しかかると、週末でもあって駅周辺の道路には観光客があふれていた。行き交う薄手のカラフルな衣服と聞き慣れない会話のアクセントが真理を千年の昔に誘って、まるで渡来人の行列を眺める時間旅行を味わわせてくれるのだった。
「ほな、柴先生。行ってくるわな」
JR城崎温泉駅の改札で、柴が買ってくれた切符を受け取り、彼に別れを告げて真理はホームへ入る。ちょうど一カ月前の四月七日、この駅で降り、翌日、千明をこの駅で見送った。僅か一カ月の短い期間だが、これほど深く人生というか、生きるということについて考えさせられ、深く悩んだことはなかった。いま思えば、一カ月前の自分は何と軽薄で、無鉄砲だったことか。
来たときと同じ車両のシートに腰を下ろしながら、真理はこの一カ月の間に、自分が大きな変化を遂げてしまったことを実感していた。
―――皓ちゃんとのことを、はっきりさせなければ‥‥‥。
そのために今日、クー子に会いに行くつもりなのだ。
千明と佐和子が、皓三と別れることを強く望んでいるのはよく分かっている。千明が自分を城崎へ送り込んだ、本当の理由。この一カ月の生活の中で、真理は理解できるようになった。
精神が発達するというのは、こういう状態なのだろう。電車の乗り換えにも全く不安はなく、新奇なものに目を奪われたり、浮かれることもなくなってしまった。
大阪駅近くの仏壇店に、マルニ堂のご隠居からの頼まれ仕事があったので、真理はJR大阪駅まで足を延ばし、用件を済ましてから阪急梅田駅へ向かう。一カ月振りに乗る阪急特急にも然したる感慨は湧かず、ただ武庫之荘駅を通過したときだけ、何故か急に体がしびれブルブルと芯から震え出し、敬藍荘の方向を見つめる瞳から大粒の涙があふれた。
三宮駅を降りて、顔の汗も拭かずに布引のアパートに着くと、クー子がチェーンロックの隙間から顔を覗かせた。以前ならスマホで連絡を取ったのだが、城崎で佐和子と暮らすようになって、真理はスマホを使わなくなってしまった。漢字が読めるようになって、これまで出来なかったメールも容易に打てるのに、スマホが好きでなくなったのだ。
「何や! マリーやんか。何でスマホにかけて来ぇへんの」
濃いアイシャドーに真っ赤なルージュ、長い付けまつげにも強い嫌悪感が湧いたが、「マリー」と呼ばれて、違和感と共に、真理は鳥肌が立つほどの不快感が込み上げてきたのだった。
「悪いけど、三十分ほどして、出直してくれる」
男が来ていて情事の最中だったらしく、透け透けのネグリジェの胸に手を合わせ、クー子は卑猥な笑みを浮かべた。
「‥‥‥うん」
クー子の皓三に対する気持ちがこの程度だったのかと思うと、真理はなぜか自分が急に惨めになってしまった。ラブホ(ラブホテル)街の喫茶店へ入るのは嫌なので、新神戸駅まで歩いて、ちょうど三十分後に再びアパートを訪ねると、
「アンタ、こんなとこウロウロしてたらアカンで! ヤーさんが、アンタと皓ちゃんのこと、まだ捜してんやで!」
部屋へ招き入れるなり、クー子は大袈裟な仕草で真理の肩を揺すって脅かす。
「ふぅーん」
そんなことはどうでも良いほど、今の真理には取るに足りない些細なことであった。
「な、マリー。ちょっとひどいと思わへん。皓ちゃん、女子大生と一緒に逃げてんやて。女子大生の親が、誘拐罪で訴える言うて、エライ剣幕でここへも来たんやで」
「‥‥‥そう」
やはり千明の言うように、皓三は評価に値しない人間なのだろう。
「そんなわけで、皓ちゃん、まだまだ帰って来ぇへんさかい、アンタももうしばらく身を隠しといた方がエエわ。帰って来たら連絡したるわ。こないだ言うてた電話番号のとこへ連絡したらエエんか? アンタのスマホ、いっこも繋がらへんから」
「ううん、あそこにはもう居てへんから。連絡はこっちからするわ」
こんなことになるなら、千明の電話番号を教えなかったのだが、まさに後悔先に立たずであった。
「な、クー子。あの電話番号は忘れてや。あこにはもう居てへんから。あそこには絶対、電話せんといてや」
何度も念を押し、真理は三時過ぎにアパートを後にして三宮に向かった。
三宮から電車に乗ると言うと、クー子は眉間にしわを寄せ、目と眉が共に八の字に並ぶ独特の心配顔だったが、真理は意にも介さなかった。ヤクザへの認識の甘さもあるが、あの時の自分と今の自分は全くの別人で、簡単に見分けがつかないとの自信があった。素顔のままで、着ている物も若い頃の千明の紺のスカートに白のブラウス。靴にしたって、ローヒールの白のパンプスを履いていて、スナックのママでも見間違えるはずだった。
―――ママか‥‥‥。
勤めていたスナックの前を歩きながら、真理はギュッと下唇を噛んだ。過去を消し去れるものなら、どれほど嬉しいだろうか。この嬉しさを表わす術を真理は知らなかった。千明と佐和子が家族だったら、そんな気持ちになるほど二人が身近に居るのに、心の隔たりは余りにも遠かった。
武庫之荘駅を降り、ケーキも買わずに敬藍荘に着くと、玄関入り口で三四郎と鉢合わせた。
「お! 真理ちゃんじゃないか。どうしたんだ? 浮かない顔をして」
買い物に出かけるところだったらしく、三四郎は左手に大きなグレーの麻袋を下げていた。
「三四郎さん。ウチ、アホやったー! ホンマにアホやったんやー!」
三四郎の顔を見ると、急に抑えようのない感情が込み上げてきて、真理は彼の胸に飛び込んで泣き出してしまった。
「‥‥‥」
何度も挫折を味わった男は、こんなとき、決して言葉をかけない。
自分の胸で泣きじゃくる真理の頭をやさしく抱いていると、千明がドアを開けて廊下へ出て来た。真理の葛藤がすぐ理解できたのであろう、
「‥‥‥さあ、真理ちゃん」
彼女もそれだけ言うと、真理を黙って抱きしめた。
「千明さん、何でウチを放っといてくれへんかったんやー! アホのままやったら、良かったのにぃー! あのまま、アホのままでいたかったのにぃー!」
真理は何度も同じ言葉を口にして、千明の胸で泣きじゃくっていたが、
「‥‥‥真理ちゃん。一緒に生まれ変わろう。過去は捨てられないけど、新しく出直しましょう。ね」
千明が涙声で優しくささやきかけると、
「うー!」
真理は震える体で千明を抱いて、うん、うんとうなずき返すのだった。
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