第12話 花の命


        

人生の転機などというのは、そう度々訪れるものでなく、せいぜい一生に二、三度であろう。皓三との出会いは、真理にとって正に人生の転機だった。自由で浮き浮きする新世界への出立であったのだ。過去のしがらみを捨て、自立と恋の喜びに酔い痴れていたのに、ひょんなことから千明の車に乗り合わせてしまった。


三宮での千明との出会いは、真理にとってはまったくの偶然以外の何ものでもなく、皓三との出会いに較べれば、高い価値を見い出すべきはずのものではなかった。一年もせずに、二度も人生の転機が訪れようなど、およそ思いもよらないことなのだ。

 

そう考えて、軽い遊び心で千明との出会いを楽しんできたはずなのに、日が経つに連れ、千明と城崎は真理の心に深く、重くのしかかってきて、皓三以上の比重を占め始めていた。


これまで一度も、本当に一度たりとも接したことのない類いの人々。そんな千明や佐和子と一つ屋根の下で暮らすと、自分の生き方がいかに軽薄な、快楽で刹那的なものであるかを思い知らされてしまった。

 

深い教養に裏打ちされた、きらびやかな面白味はないが、実体のある確実で堅固な千明や佐和子の日常。たとえれば、氷山のようなものであろうか。見えている部分の、何十倍もの大きな実体の存在。それらが静かにではあるが、日に日に真理に迫って来て、彼女の軟弱な価値基準の根幹を揺るがして行く。


それに城崎という町も、伝統に育まれた―――重厚で落ち着ついた趣きある町で、真理が自己の価値体系を見直すには打って付けの心和む温泉地だった。千明が意図した通り、真理の内でゆっくりと、着実に、新しい変化が芽生え始めていたのであった。

 

佐和子と暮らすようになって四日目から、真理の生活のリズムが形成されて行った。月曜日の生活パターンを身に付けると、後は金曜まで大差のないリズムで、変わったことといえば、水曜日に行き付けのスーパーが休みとなることくらいだった。

 

真理が来るまで、佐和子は土曜と日曜も花を教えていたが、柴と三人の食事をゆっくり楽しむため、土・日は花の教授を断り、安息日に変えてしまった。


「佐和子おばちゃん、かまへんの? ウチのためやったら、エエんやで」

 

真理が遠慮がちに佐和子の真意を尋ねると、


「エエんや、真理ちゃん。アンタが来てくれたおかげで、家の中がずっと明るうなったさかいな、おばちゃんも嬉しいんや。週二回くらい、世間並みにゆっくりしようや」

 

佐和子は真理の大阪弁を真似て、艶のある朗らかな声で笑ったのだった。


「ホンマ言うたら、ウチ、若い生徒さんら、あんまり好きちゃうねん。ウチを色眼鏡で見るんやもん」

 

花の生徒さんたち、特に若い人たちは好きになれなかったので、二日の休みは真理には有り難かった。生徒の中には柴を目当てに花を習いに来ている女性もいて、そんな彼女らに柴との関係を聞かれるのもイヤだったし、


「ね、アナタ。まだ大学へは行ってないわね。高校はどこなの?」

 

などと、好奇の目で尋ねられると、カー! と、何度頭に血が上ったか知れなかったのだ。


彼女らが花を粗末にするのも好きになれなかった。少しでも気に入らないと、すぐ捨てて、新しい花を生けようとするのだが、捨てられる花が可哀想で、真理はまるで我がことのように悲しくなるのだった。


「な、佐和子おばちゃん。何であんなに花を粗末にするんやろ。せっかく綺麗に咲いたんやさかい、美しい姿だけでも、もうちょっと大事に見たったらエエのに。花が美しいのは、ぱっと咲いたときだけなんやから、その一瞬の命をもっと大事にしたってほしいわ」

 

生徒たちが帰ってから、無造作に捨てられた花を片づけながら、真理が佐和子に不満顔を向けると、


「‥‥‥そうね、花を粗末に扱う生徒さんが増えたわね。おばちゃんにも責任があるんだけど、お花を教える者の因果かな」

 

花瓶の白百合を慈しむように撫でて、佐和子は口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。


「でもね、真理ちゃん。アナタの言ったことで、一つだけ賛成できないことがあるの。花が美しいのはぱっと咲いた時だけだから、その一瞬の命を大事にしろって、言ったでしょ。確かに一番美しいのが咲いた時なんでしょうけど、その一瞬の美を固定するために、おばちゃんは花を生けているんじゃないのよ。難しい話になるけど、ちょっと聴いてね。生け花のことを花道っていうでしょう。道という字がついているのはね、単なる美という現象を花に固定するんじゃなく、もちろんそれもあるけど、それ以上に、何か人間の生き方を示唆するものでなければならないと思うの。そしてね、おばちゃんはこんな風に考えているのよ」


佐和子は一呼吸おいて、真理に優しい眼差しを向けて続けた。


「つまりね、花にだって人間と同じように、誕生、生長、そして死という過程があるのは当然よね。発芽して、すくすくと生長し、最後に土に戻るという過程がね。この連続した過程を、一時点の花の姿で表わすことによって、はかなさや強さ、優しさ、そして生きる喜びを人々に訴えかけたい。これが、おばちゃんの花道なの。だから、花の命にしても、人生にしても、過去・現在・未来の有機的というか、統一的な連続線上に位置づけているのよ。真理ちゃんの考えで気になるのは、過去・現在・未来はバラバラな、つながりのない断片の集合と考えていることなの。でもそれはね、少しおこがましいようだけど、正しい認識ではないと思うの。過去があって現在があり、そして、その上に未来が乗っかっているんでしょう。過去に引き摺られて生きて行くのは間違っているけど、過去に目をつぶって無視するのも正しくないんじゃないかな。―――ま、これは難しい問題だから、ゆっくり二人で考えましょうね」

 

佐和子のいつものパターンで、決して自分の意見を強要しないが、其の実、相手に反論の余地を与えない説得力を持っていた。恐らくこれが、千明のいう佐和子という人の強さだと思うが、


「‥‥‥うん、ウチには難し過ぎて、よう分からへんわ」

 

シャクだが反論のしようがないので、真理も口癖になった表現で逃げてしまうのだが、段々と佐和子の考えが自己の内に染み込んでくるのを感じていたのだった。


「あー! 難しい! 難しい! 考えたら、頭がおっかしぃなるわ!」

 

新しい価値観や秩序を選択する際には、多かれ少なかれ、このような状況に立ち至るのであろう。受容か、それとも拒絶か。境界線に近づけば近づくほど抵抗が大きくなって来て、真理の心の葛藤が増すのだった。


「ね、真理ちゃん。少し散歩してきたら。秋の城崎もいいけど、萌えいずる春は最高よ。古い町並まで躍動感に溢れているわ。こんなときは、家でウジウジ考えてるより、さあ、歩け、歩け! なんだから」

 

佐和子も心得たもので、真理が塞ぎ込みそうになると、自宅を出て温泉町の風情に親しむよう促す。


「うん。ちょっと歩いてくるわ」

 

素直にうなずいて家を出るが、真理の散歩エリアは決まっていて、遠くへは行かず、北は四季折々の恵み溢れる湯の山公園、西は木屋町小路を越えた御所の湯を少し行ったところまで。東は大谿川に沿って城崎温泉駅へ歩く3キロほどの行程、そして南は所々菜の花の咲く田んぼのあぜ道を歩く。これも3キロ余りの、結局、自宅から半径約3キロメートルの狭い範囲が、真理の散歩コースだった。


好奇心は自分でも旺盛だと自覚しているのに、境界近くまで行くと急に足が重くなってしまい、まるで金縛りにあったような感覚に襲われるのだ。千明や柴、それに佐和子と一緒だったら難なく越えられるラインが、一人のときはなぜか大きな柵のようにそそり立つのだった。


「迷子になったらアカンさかい、あんまり遠いとこへ行かへんねん。それにウチ、一人でブランコに乗るのが好きやねん」

 

自宅前の小さな公園でブランコに揺られながら、真理は家から出てきた怪訝顔の佐和子によく言い訳をする。恐らく千明も同じような返事をしたのであろう。佐和子の苦笑いの口元から、何となく伝わってくるのだった。

 

自宅前のこの小さな公園で、真理は気の置けない二人の友人を手に入れることが出来た。千明と初めて訪れたとき、湯の山公園で遊んでいた親子連れで、母親は田所美代子、一歳八ヶ月の娘は夏に生まれたので、夏美といった。

 

初めて声をかけてきたのは夏美で、


「お姉ちゃん、抱っこ」

 

と、真理にヨチヨチと駆け寄って来た。


「はい、はい」

 

ブランコから降りて抱き上げると、


「チュー」

 

真理に抱きついて、頬に親愛のキスのプレゼントだった。


「おおきに。ほんなら、お姉ちゃんもお返しや。ブチュー」

 

これで三人は、大の仲良しになったのだった。


「ね、こないだ真理ちゃんと一緒だった人が、藤井さんとこの千明さんね」

 

美代子は興味を隠せない、少女のような仕草で真理の顔をのぞき込んだ。モデルにしてもいいスラリとした長身で、真理に負けないくらいの、ほんのりと白い肌だった。


「うん。美代子さん、千明さんのこと知ってんの?」


「ううん。私じゃなく、主人が千明さんのファンだったの。三つ上で、小学校の時から憧れていたんですって。主人だけじゃなく、みんなそうだったらしいわよ。美人で面倒見のいいお姉ちゃんとしてね。先日、初めてお目にかかって、なぜ皆に好かれるのか、よく分かったわ。嫌みのない美人っていうのかしら、―――うまく表現できないけど、最初それほどでもないのに、日が経つに連れて、段々良くなっていくの。私は京都生まれだけど、この町に住んだ印象と同じだから、千明さんて、城崎の町みたいな人ね。私も彼女のファンになりそうだわ。ね、今度帰られたとき、私がお話したいって、真理ちゃんから千明さんに頼んどいてくれない」

 

美代子ははにかみながら、ぽっと白い頬を染めた。


「‥‥‥うん。言うといたげる」

 

美代子の話を聞くと、千明が自分や三四郎の身近な人でないような気がして、真理はちょっぴり複雑な心境であった。


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