第11話 さらば柔道


            

柔道部のコーチなどというのはごく一部の例外を除き、実入りが少なくて家族を養う糧にはならないが、自分一人の食い扶持はどうにかなるものである。足りなければ港湾労働のバイトに出ればいいし、時折、母が父に内緒で送金してくれるので、臨時収入のようなものもあった。

 

明確な目標を失うと、人間というのは五十歩百歩の毎日を送るのではないだろうか。食うに困らなければ、ズルズルとこれまで通りの生活を続けていくのだ。三四郎もこの範疇の日々で、藤井千明と三村啓一に出会わなければ、父が亡くなるまで、柔道部のコーチと神戸港での労働を繰り返していただろう。

 

―――決断を迫る、運命的出会いか‥‥‥。

 

二人の出現は、これまでの生活からの決別を三四郎に迫るものだった。

 

三村啓一というのは、昨春、三四郎がコーチをする尼崎西高校へ入学した柔道部員であった。軽く組手をしただけで、十年、いや、五十年に一人出るか出ないかの逸材であると瞬時に分かった。強靱な足腰、しなやかな体躯(たいく)と弾力のある筋肉は、柔道選手としての類希(たぐいまれ)な素質と、一八Oセンチ・八五キロの体が、まだまだ伸び盛りであることを示していた。

 

三四郎は三村をゆっくり育て上げ、行く行くは八十一か九十キロ級のタイトルを狙わせるつもりだった。


「スロー・エンド・ステディ・ウインズ・ザ・レース」

 

ゆっくり着実なのが試合に勝つ、という英語の諺が、三村に対する三四郎の口癖だが、本人も父親も三四郎の指導方針に不満だった。校内に彼の相手になる者はおらず、三年生といえども僅か五秒で一本負け、という練習相手不在の環境であった。


三村が近畿の大会で勝ち進み注目を浴び始めると、県内外の有力私学が当然黙っておらず、三村の獲得に乗り出してきた。


「県立じゃ進歩が望めないんで、広道高校へかわろうかな、と思っているんです」

 

入学して三カ月もしない内に、本人の口から柔道エリート私学の名前が三四郎に告げられた。父親が特に乗り気であるのは、世界選手権やオリンピックでの活躍を期待し、有名私学からの利益誘導が活発化していることを推測させるものだった。


「三村、何いうてんねん。三四郎先生の言う通りにして、ゆっくり体を作って行った方がエエて。いま広道高校へかわって無理な練習したら、お前の体が潰れてしまうぞ。な、考えを変えて、ここを卒業した方がエエて」

 

キャプテンの志水が必死に説得しても、


「俺は三四郎先生と違って、そんな簡単に潰れへんわ」

 

圧倒的な実力差が自信となり、先輩のいうことなど無視して、うそぶくようになった。


志水は志水医院の長男で、頭が良く、三四郎を敬愛して心から師と仰いでいるが、やや細身の中肉中背で、柔道の素質は高くなかった。本人も自覚していて、楽しみながら柔道の練習に励み、勉学と両立させていた。志水に三村の素質があれば、柔道選手として超一流になるのは確実だが、これは無い物ねだりであった。

 

三四郎は一流になるための条件を、素質三、努力三、指導者の力量を四と考えていた。最後の四が自分にあるか自信はないが、少なくとも他校のコーチよりは上だという自惚れは持ってよいのではないか。だから、三村を自分の下で育て、己の力量も証明したかったが、高校のコーチ風情に本人と親の意向を抑える力などあるはずがなく、転校は時間の問題だとの認識とともに、諦めてもいた。


水曜日の今日も、自転車で西高の道場に着くと、三村が一人、他の部員から遊離して基礎トレに励んでいた。


「コンニチハー! お願いしまっす!」

 

三四郎を迎える部員たちの挨拶にも加わらず、三村は無視するように腕立て伏せを止めなかった。


「‥‥‥先生。三村、やっぱり転校するらしいです」

 

志水が三四郎のところへ駆け寄り、そっと耳打ちする。


「―――そうか」

 

来るべきものが来たという印象で、まったく驚きはなく、三四郎は自分でも不思議なほど淡々と道着に着替えた。


「さあ、みんな集まってくれ」

 

部員たちを集合させ、自分の立つ中央を空けて、車座に座らせる。


「今日は、僕が三村と試合をしてみるから、志水が主審、桑田と山本が副審を勤めてくれ」

 

副審二人を三四郎が呼び上げると、


「先生! 止めてください。三村のために、どうしてそこまでしてやる必要があるんですか! 僕らはいったい、どうなるんですか」

 

三四郎のしようとしていることに気づいて、志水が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。


「いや、三村のためだけじゃなく、俺のためでもあるんだ。―――さ、所定の位置へ」

 

目に涙をためた志水を促し、主審の位置に立たせた。


「さ、三村。今日は思う存分、かかってきなさい」

 

志水以外の者は、三四郎の意図が分からず怪訝顔で見上げていたが、三村が立ち上がって三四郎と相対すると、固唾を呑んで二人を見つめた。

 

志水が見抜いた通り、三四郎はこの一戦に柔道家としての運命を委ねるつもりだった。彼の生活信条は〈ベストを尽くせ。だが期待はするな。なるようにしかならない〉であるが、この信条から外れたというか、どうしても期待を捨て切れなかったのが、千明と三村だった。


柔道と柔道以外の人生。この選択を、三村との試合を通して運命に委ねようと決意したのだ。


「タァー!」

 

三四郎は右前の構えから、鋭い気合いを発すると、三村の右奥襟を右手で取り、左で右袖の奥を取ってドドッと押して行った。


〈姿三四郎〉は富田常雄の長編小説で、主人公の姿は西郷四郎がモデルといわれる。その西郷が得意だった技に、三四郎は自分なりに工夫を加えていて、それを三村にかけるつもりだ。

 

右腕をかばい何時も左前の三四郎が右前で、しかもいきなり押し込められ、三村は一瞬戸惑うが、


「おう!」

 

すぐ体勢を立直し襟と袖を取って押し返そうと力んだ。とっ、その一瞬のスキだった。


「ターッ!」

 

三四郎の口が、空を切り裂くするどい気合いを放った。と、同時だった。鮮やかすぎて、見る者には同時としか思えなかった。


「うーん!」

 

三村はドスーン! と床をたわませ、三四郎の足下で仰向けに転がっていた。


「‥‥‥」

 

まさに柔道の醍醐味を見せられ、みな、呆然と大技に吸い込まれていたが、志水は三四郎の右ヒジがブチッ! と悲鳴を上げたのを聴き逃さなかった。


「三村! これが三四郎先生の山嵐だ! 分かるか! 三四郎先生は、お前のために、‥‥‥お前のために。うー!」

 

志水は三村に馬乗りになって、彼の襟を締め上げていたが、急に天を仰ぐと、右腕で涙を拭った。


「‥‥‥志水、いいんだ。もう、いいんだ」

 

三四郎は右手をダランと垂らしたまま、志水に近づき左手を彼の肩に乗せた。


「どうやら、右ヒジをまた痛めたらしいので、僕は病院へ行かなきゃならないけれど、皆はこのまま練習を続けてくれ」

 

部員たちに伝え、志水の自転車で志水医院へ運んでもらった。


「三四郎先生。無茶したらアカンわ。また右ヒジの靱帯断裂や。あれだけ右をかばわなアカンて言うといたのに。もう今年の大会は無理やな‥‥‥」

 

包帯でヒジを固定しながら、自身も柔道六段の志水医師は複雑な表情であった。泣きそうな顔の息子に較べ、当の三四郎はニコニコと屈託がなかったのだ。


「ええ、僕もこれで踏ん切りがつきました。もう大会に出ることはないです。今後、柔道との関りは、コーチを除いてなくなりました」

 

三四郎はサバサバと邪気のない笑顔で、志水医師が呼んでくれた救急車に乗り込んだのだった。


「三四郎ちゃん! 何ちゅう無茶すんねん! ウチ、今年の大会、楽しみにしてたのに! 千明さんも心配して、ゆうべは一睡もせんと泣き明かしたんやで」

 

翌日、西宮市武庫川町にある大学病院を訪れた民子が、大きな声で灸を据えても、三四郎は口元から白い歯がこぼれ悪びれる風もなかったが、


「三四郎さん、うそよ! 私が泣き明かしたなんて、―――もう、民子さん。根も葉もないホラを吹かないでよ」

 

千明が赤くなりながら、真顔で打ち消すと、


「なーんだ。民子さんの作り事か」

 

三四郎はいかにも残念な仕草を浮かべ、左手で頭を掻いたのだった。


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