第9話 恋人は一児の母


             

人間というのは平静を基軸にして、高揚から沈滞へと波のようにうねる習性を持っている。一日の内でも、小さなうねりは何度も体験することであるが、ここ二十年近くの間、千明は大きな沈滞のうねりに呑み込まれていたように思う。


二十二年前の両親の離婚が引き金になって、なすすべも無く、下へ下へと沈んで行ってしまった。底へ着くのに時間はかからなかった。


湖面を見上げ、明るい光の中に以前の家族だんらんを思い描いた。戻りたい。湖底から湖面に伸びる太い藻にすがって這い上がらねばともがけばもがくほど、足元の小さな藻が手と足に絡み付いて、身動きが取れなくなってしまうのだった。

 

薄暗い湖底から、水面に差す明るい光を渇望していたのに、千明には浮かび上がる自由が与えられなかった。真理に出会わなければ、おそらく死ぬまで湖底でもがき続けていただろう。

 

一種の逃避行動だと思うのだが、過去を断絶しようと躍起になっている少女に出会い、千明は自己の誤りを根本から教えられた。手足に絡みつく藻を、一つ一つ解きほぐさなければ浮かび上がることが出来ない―――こんな当たり前のことを、まったく別の方法で浮かぼうとする少女の生き方から学んだのだ。

 

過去からの逃避や無批判の是認ではないのだが、取り敢えずそれを受容しようと決めたとき、千明は自分でも驚くほど生き方が変わってしまった。根暗な性格が信じがたいほど明るくなり、前向きにものごとに対処できる強さも身についてきた。以前は、男性を自室に招き入れることなど思いも寄らなかったのに、九日の土曜日、三四郎がドアをノックすると、


「どうぞ、入ってください。散らかってますけど」

 

笑顔で応対できる余裕に、千明は自分でも驚いてしまった。


「‥‥‥はあ。でも、いいんですか。今日は真理ちゃん、いらっしゃらないようですが」


「ええ。真理ちゃんは、私の母の手伝いをしてもらいに豊岡の城崎町へ行っていますので、しばらく帰って来ませんわ。彼女に何かご用なんですか?」


「いえ、真理ちゃんではなく、―――藤井さんにお願いしたいことがありまして」


「千明さん」と言いかけて、三四郎は少し赤くなって頭を掻いた。真理がいた方が 頼みやすいし、たとえ断られても、


「三四郎さん、残念やったな。なんやったら、ウチが代わりにやったろか」

 

と、笑い話で終われるのだが、千明一人では何とも頼みづらい。


「お願いというのは?」


「‥‥‥はあ」

 

言いよどんでいると、


「何でしたら、駅前のスワンへ行きましょうか」

 

千明が喫茶店の名前を出して、三四郎の顔をのぞき込んだ。


「え、―――いや、お邪魔します」


「どうぞ。奥は片づけてませんので、狭いですけど、ここで」

 

奥の六畳間には折り畳み式ではあるがベッドが置かれていて、そこへ案内するのはさすがに抵抗があった。少し狭いが、千明はドアを入った四畳半に三四郎を招き入れた。


「どうぞ」

 

机の前の真理の椅子を勧め、台所へティーカップを取りに入る。


「お願いって、何でしょう」

 

紅茶を入れながら、千明はさりげなく聞いてみた。


「はあ、いや―――こんなことを頼んだりすると笑われそうなんですが、藤井さんしか、お願いする人がいませんので」

 

三四郎は背中を向けたまま、冷や汗をかきながら、台所の千明に頼みづらい用件を話し始めた。昨夜、柔道連盟理事の山田から電話があって、父を説得するためにも、明後日の日曜日、恋人を自宅に連れて来るようにと告げられたのだ。あまり突然で、彼女の都合がつかないからと断ってみたが、


「結婚を前提に付き合っているって、言ったじゃないか。だったら、それくらいの無理は聞いてもらいなさい。時間はいつでもいいんだから。もし連れて来れないんだったら、父上を説得する役目は引き受けられないよ」

 

山田に強く迫られ、約束する、というより約束させられてしまったのだ。


「でも、私も突然、恋人の代役を頼まれたりしても困りますわ」

 

千明はカップに湯を注ぎながら、くすっと笑った。


「それに、他に誰か適当な方がいらっしゃるでしょう。三四郎さん、女子大のコーチもなさっているんだから」

 

三四郎に紅茶を勧めながら、千明は彼の名を口に出してみた。真理や民子がそう呼ぶので徐々に抵抗がなくなっては来ているし、先日、彼に抱かれてから急に親しみが湧いて、一度呼んでみたかった。


「はあ、いや、―――女子大生はまだ幼すぎますし、それに適当な女性はいませんので」

 

探せば、恋人役を引き受けてくれる女性がいないことはないが、彼女らでは山田に簡単に見抜かれてしまう。それに、本気になられては、今度はこちらが困ってしまうという懸念があった。


「民子さんからお聞きでしょうけど、私は離婚歴のある、一児の母ですのよ。やはり恋人役は勤まりませんわ」


「いえ、大丈夫です。僕、そんなこと気にしませんから。本当に、気にしてませんから」

 

三四郎に襟を正され真剣真顔で見つめられると、千明は吹き出してしまった。


「あ、済みません。単なる恋人役のお願いでしたね。‥‥‥どうも、せっかちで、申し訳ないです」

 

依頼と無関係な発言だったが、真意でもあることから、どう取り繕ってよいか三四郎は自分でも分からなくなってしまう。赤くなりながら頭を掻いていたが、照れを隠すために、


「いただきます」

 

ティーカップを取り上げ、三四郎は一気に飲み干してしまった。


「お代わりを入れましょうか」

 

千明はくすっと笑って、目の前の三四郎を見つめた。誠実で嫌みのない人柄だと思った。けれんみのない仕草を目の当りにすると、千明はますます彼に好意が湧いてくるのだった。


「そんなにお困りでしたら、明日、お付き合いしましょうか。三四郎さんには先日、随分お世話になりましたし」

 

こないだのことを思い出すと、いまだに頬が赤く染まるが、それを忘れさせてくれる三四郎の頼みなのだ。千明は意味ありげな笑顔を向けて、明日の恋人役を引き受けたのだった。

 

翌日、十時前に、三四郎と連れ立って敬藍荘を出る。


「まあ! お似合いやんか。千明さんも、とうとうその気になったんやね。真理ちゃんも、きっと大喜びやで」

 

庭に洗濯物を干し終えた民子が、玄関先で二人に出くわし、さっそくコロコロとつやのある声で冷やかす。


「いやだわ、民子さん。きょう一日だけなんだから。ホントよ。‥‥‥もう、そんなに笑わないでよ」

 

千明は否定に大わらわだったが、満更でないのも事実だった。


「申し訳ないです、本当に。今度、民子さんによく説明しときますから」


「いいんですよ。もう気にしないでください。それより、もっとリラックスしないと、本当にバレちゃいますよ」

 

地味な紺のスーツに臙脂のネクタイ。正装してコチコチに緊張した三四郎が、千明には受け持ちの男児たちのように微笑ましく可愛かった。武庫之荘駅前でケーキを買って、山田宅に着いたのは十一時を少し回っていた。


「恋人なんですから」

 

インターフォンを押す三四郎に断って、千明は彼の左腕を両手で抱いた。胸の奥から、何ともいえない感情が込み上げてきて、三四郎を是が非でも守らねばという気になってしまう。


「まあ、いらっしゃい」

 

山田富士子が丸々と厚化粧の笑顔をのぞかせ、玄関戸を開けて二人を迎え入れるが、目は注意深く千明を観察していた。


「初めまして。藤井千明と申します」

 

三四郎の後から玄関へ入り、山田夫妻に深々と頭を下げる。今日は三四郎の恋人役に徹するつもりなのだ。


「やあ、いらっしゃい。山田です」

 

山田典夫の仕草から、少なくとも彼は好意を持ってくれた、と千明は判断した。


「さ、どうぞ。上がってくださいな」

 

富士子に案内されて、玄関を上がって左手の応接間に入る。柔道連盟の理事ともなると実入りがいいのか、それとも副業で成功を収めているのだろうか。居宅は鉄筋コンクリート二階建ての堂々としたもので、応接間も広々として二十畳はゆうにあるものだった。


「三四郎さんたら、何を好き好んで、あんなオンボロアパートに住んでいらっしゃるのやら。可笑しいでしょう、横浜には我が家など及びもつかない大邸宅がおありだというのに」

 

コーヒーを運んできて、富士子が鼻の頭の汗にハンカチを当てながら二人を見回す。


「え、いや―――」

 

三四郎が慌てて弁解を返そうとするが、


「私も、そのオンボロアパートの住人ですのよ」

 

千明がニコニコと自己紹介を兼ねて、自宅をばらしてしまった。以前の彼女からは想像もできない対応であるが、真理のおかげで、気後れせずに自分の気持ちをストレートに出すことが出来るようになった。


「そうでしたの。それで三四郎さんとお知り合いになられたんですね」

 

何気なさを装うが、千明の印象が悪化したのは富士子の表情から明らかだった。


「三四郎君もひどいじゃないか。こんな綺麗な人と婚約しているんだったら、真っ先に私たちに知らせてくれるべきだろう。え、そうじゃないか」

 

気まずいムードを和らげようと、山田は笑いながら三四郎にからむ。癖なのか、薄くなった白髪の頭頂部に頻りと左手を乗せ揉む仕草を繰り返すが、「婚約」という言葉に千明は、


「えっ! もうそこまで進んでいるんですか?」

 

ソファーから身を乗り出し、唖然とした顔で二人を見回した。


「え、いや、その―――」

 

今日の三四郎は冷や汗のかき通しだった。


「ええ。だから、私たちも三四郎さんの御両親に責任がありますので、えっと、藤井さんでしたか。あなたのお人柄をよくお調べして、御両親にお伝えしなきゃなりませんの」


「‥‥‥はあ」

 

なぜ当事者以外の者が、婚約者の人柄を調べて相手方の両親に報告する必要がありますの? と問い返したかったが、倉岡家がそういう家柄なのであろう。


「ご職業は、どういったものでしょう?」

 

富士子の口から、興信所の調査のような質問が飛び出す。


「一応、小学校の教師ですけど」

 

三四郎がはらはらしているのを承知で、千明は無愛想な受け答えを返してしまった。


「そうですか、大阪の摂津市にある富畑小学校のね」

 

富士子は、小学校の名前と千明の年齢をメモ帳に書き込んでいたが、


「あのう、失礼ですが、大学はどこをお出になられているのかしら」

 

メモを書き終えると、鼻の老眼鏡を少しずらし上目遣いに、目の前の千明に視線を移した。


「はあ‥‥‥」

 

出身大学が自分の人柄とどんな関係があるのか、荒々しく問い返したかったが、かろうじて呑み込むと、千明は豊岡市にある県立大学の名前と学部を事務的に富士子に告げた。


「まあ! いい大学をお出なんですね。コウノトリの郷公園にある、公立大学のご出身でしたか。―――ところで、お父様はどんなお仕事をなさっているんですか?」

 

この質問は、我慢の許容ラインを易々と飛び越すもので、千明の心の中へ土足で踏み込むに等しいものだった。


「父は、母と二十年以上前に離婚しましたので、その消息はよく分かりませんわ。でも当時、警察庁に勤務していましたし、柔道は六段だったので、あなた方のほうがよくご存じだと思います。名前は遠野寿夫だったと記憶していますので、お調べになって下さい。私はこれから少し用事がありますので、これで失礼します」


「えっ?! 遠野さんて、警察庁で刑事局長をなさっている、あの遠野九段のことですか?!」

 

よほど驚いたのか、富士子は口を開けたまま次の言葉が出なかった。


「失礼します」

 

千明はソファーから立ち上がると、逃げるように山田宅を後にした。心の整理がついていたはずだったのに、他人から父のことを聞かれると、複雑な感情が込み上げてきて、自制できそうになかった。これ以上、山田宅にいると感情の爆発を抑えられなかったのだ。

 

―――刑事局長か‥‥‥。

 

父は既に、警察組織のナンバースリーにまで上り詰めたようである。母と自分を捨て、父一人、陽の当る道を歩んできたのかと思うと、心中穏やかでいられるはずがなかった。下唇を噛みながら急ぎ足で三宮へ歩いていたが、信号で立ち止まると、千明の目から堰を切ったように涙が溢れた。


「‥‥‥千明さん。済まない」

 

背後から、追いついた三四郎に謝られると、


「ごめんなさい、三四郎さん。今日はちゃんとするつもりだったのに、ぶち壊してしまって。生まれ変わったはずなのに、父のことを言われると、‥‥‥どうしてもダメなの。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 

千明は涙の顔で謝っていたが、最後は両手で顔を覆って泣きじゃくった。


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