第8話 和解
真理の実家を訪れた翌日の七日、千明は長らく帰ることのなかった〈ふるさと〉豊岡市城崎町への帰省を決意した。明日から新学期なので、真理にアパートに居られると、千明は自分の職業を隠し通せなくなる。出来るだけ早い機会に話すべきであろうことは分かっているが、タイミングを見誤れば、生まれつつある良好な信頼が崩れ去ってしまうことから、慎重にならざるを得なかった。
「ね、真理ちゃん。この本なんか、ウチの出版社でも面白くて分かり易いって評判なんだけど、ちょっと読んでみない」
無理にでも時間を捻りだして本を読ませ、簡単な数学と理科も教えてきたので、教育というものに対して徐々に抵抗がなくなってはいるが、教師に対する信頼となるとまだまだ心許ない状況であった。職業がばれないためにはもちろんのことであるが、計画の完成のためにも、真理にアパートを出て母の所へ行ってもらう必要があったのである。
皓三がグリーンコテッジに帰ってくるまでの一カ月足らずの間に、真理の心を彼から離したいのだが、そのためには知的世界に目を開かせるのが最も有効だと、千明は考えていた。皓三に対する真理の思い入れは無知が原因で、知的能力の潜在的高さを勘案すれば、この分野の育成が皓三に対する最大の武器になるのは明らかだった。
新しい世界を知ることにより、真理は善悪の判断力や価値基準を身に付け、皓三を拒める人格を形成できる。そのためのプロセスとして、高卒認定(高等学校卒業程度認定試験)に合格させ、大学に入れたい。これが千明の目指す、真理更生のプロジェクトであった。
高卒認定というのは、高校中退等で大学受験資格のない者に対し、受験資格を与える認定試験である。高校中退者の急増と共に脚光を浴びている制度であるが、千明はこれを真理のために活用しようと考えたのだ。
皓三がニセ学生であるのは、大学に問い合わせて千明はすでに知っていたが、真理には話していない。皓三を通して大学というものに憧れを抱いている以上、現時点で事実を暴露することは得策ではないとの判断であった。いずれにしても、短期間の内に、地味であまり面白味のない―――知的世界へ向かわせるという困難な作業のためには、どうしても母の力を借りる必要があった。
「―――そんな訳で、お母さんに助けてもらいたいんだけど、お願いできるかしら」
城崎町の母に、電話で事情を話すと、
「はいはい、分かりましたよ。あなたと仲直りできるんだったら、断れないでしょう。お母さんは、千明のためなら悪魔にだって魂を売っちゃうんだから」
素直に喜べばいいのに、母は父の口癖を真似て、照れを軽口でごまかしたのだった。
翌日の七日は、昼の2時前に真理と連れ立って敬藍荘を出た。
「な、千明さん。ウチみたいな者で、ホンマに千明さんのお母さんの手伝い、出来るやろか。恥かかへんやろか」
駅へ並んで歩きながら、根が楽天家の真理が柄にもなく弱音を吐いた。
「大丈夫よ。真理ちゃん、私よりよっぽど家事が上手なんだから、出来るって。自信を持ちなさい」
アルバイトで忙しい千明に代わって、母の手伝いを真理に頼むとの口実で、今日の城崎行きを納得させてあるのだ。
「こんなに長いこと電車に乗るんは、一体何年ぶりやろ。この頃は三宮の近くばっかりやったから」
三ノ宮駅でJRに乗り換え、真理は停車駅のホームの人込みを珍しそうに見まわしていたが、JR東海道本線新快速そしてJR山陽本線と乗り継いで、姫路駅で播但線の普通電車に乗り換えると、急に寡黙になってしまった。
「どうしたの? 真理ちゃん。あんなにはしゃいでいたのに、急におとなしくなって」
「うん。小学校二年のとき、奈良へ遠足に行ったんやけど、その時のことをちょっと思い出したんや」
良い思い出でないことは、真理の気まずそうな笑顔から何となく分かるし、昨日の末子の話からも容易に推測可能だった。皓平が生まれたのが、真理二年生の時だったからだ。
「私もね、真理ちゃん。城崎は大好きな町だけど、これから帰る家や母には余りよい思い出はないの。だから、結婚してからは一度も帰ってないのよ」
和田山駅で山陰本線の普通電車に乗り換え、窓側の席に腰を下ろすと、千明は笑いながら真理に秘密を打ち明けた。
新しい価値観や生き方を身に付けるには、一度、過去に戻る必要があるのではないか。そうでないと、其の場凌ぎの、中途半端な自己改造にしかならないのではないだろか。過去に縛られてはいけないが、それに目をつぶり忘却の彼方へ押しやるのも問題があるように思う。
「ね、真理ちゃん。私も意図的に嫌な過去に目をつぶって来たわ。でもあなたに会って、新しく出直してみようと思い始めているの。人生をもう一度、やり直すつもりなの。だから、あなたも考えてほしいの。嫌だろうけど、辛かった過去と真剣に向き合って、これからの生き方を考えてほしいの」
空席が目立つ車両で、しかも同乗者たちは各々自己の会話に夢中なのだ。千明は彼らの目を気にせず、深刻ぶらずに笑顔のまま真理に話しかけると、
「そんな難しいこと言わんといてや。ウチには分からへんもん。それに、そんなこと言う千明さん、あんまり好きちゃうで」
真理はいつものようにはぐらかして車窓に視線を移したが、抱きしめたくなるほど寂しい横顔だった。
豊岡駅でコウノトリのポスターに二人で微笑みを交わし、千明が懐かしい城崎温泉駅に着いたのは、六回の乗り換えも影響したのか五時半を回っていた。
夙川駅下車でさくら夙川駅まで歩いて、尼崎駅から〈こうのとり15号〉に乗る行程も考えたが、今回は倍の乗り換え回数だったが、千明は徒歩区間の短い姫路駅まわりの行程に落ち着いたのだった。
「タクシーで行こうか」
茜色に染まる西の空を仰いで、千明は駅前のタクシー乗り場へ向かおうとするが、
「千明さん。歩いてもそんなに時間かからへんのやったら、うち、歩いて行きたい」
荷物もさほどなく、シートに座る時間が長かったことから、真理は足を動かすことを望んだ。
「そう、それもいいわね」
久し振りにゆっくりと駅から実家へ歩いて向かうのも、格別の風情がある。家までの観光名所を思い浮かべ、千明は真理が喜びそうな道順を頭に描く。
「真理ちゃん。私の実家は、駅から北西方向にあるの」
指で方向を指し示して、トートバッグ片手に並んで駅前の道を歩く。やはり、さすが文豪・志賀直哉が愛した観光地で、真理の口から言葉を奪っただけでなく、馴染んでいたはずの千明さえも、道際に立つ石碑やせせらぎに新鮮な感動を呼び覚まされるのだった。そう、八年振りのふるさとに、千明は心躍り、声も弾んでしまうのだ。
趣のある観光ホテル前を通り、城崎文芸館前に着く。おしゃべり好きの真理なのに、景色や建物に見とれたまま、千明のブルーのトートバッグを空いた左手で握って付いて来る。さあ、あとほんの数百メートルで実家に着くのだ。
「な、千明さん。あの祠のようなもんは何て言うの?」
こじんまりとした渋い祠を見上げ、真理はようやく口を開いた。
「芭蕉堂よ。俳句で有名な松尾芭蕉、知ってるでしょう。その松尾芭蕉さんが祭られてあるの。あのお堂の斜め向かいに、昔は柿の木が植わっていたのよ。公夫クンがよく柿の実をもぎ取って怒られてたわ」
子供の頃の柴公夫を思い出し、千明はくすっと笑った。
「千明さん。公夫クンて、千明さんのボーイフレンドやね。―――ひょっとして、今も公夫クンのこと好きちゃうん?」
「ええ、好きよ」
「ほなら、何でその人と結婚せぇへんかったん。もしその人と結婚してたら、千明さん、もっと幸せになってたやろに」
芭蕉堂に隣り合う秋葉権現を見上げ、真理は千明にプーッと傍目にもおかしいくらいのふくれっ面を向けた。
「‥‥‥そうね。どうして結婚しなかったのか、自分でもよく分からないわ。―――ただ、彼とは結婚しちゃ、いけないような気がしたの。そのことや、色んなことがあって、母をずっと拒絶して来たわ。でも今日、母と和解することにしたの。なかなか手強いオバサンだけど、あなたには優しいわ。娘の私が保証するんだから、絶対よ」
真理に顔を近づけて、千明は笑いながら彼女の鼻を摘んだ。
「うん。ほんならエエんやけど‥‥‥」
秋葉権現が控える湯の山公園には二歳くらいの女の子と母親がいて、茜色に包まれた光の中でゆらゆらとブランコに揺られていた。この二人と小さな子犬だけがこの時間の公園の来訪者なのか、違和感なく静かな構図の中に収まっていて、閉ざされた時空のような、しっとりと落ち着いた純朴な景色が城崎の温泉町を映し出していた。
「やっぱり、ふるさとっていいわね」
八年振りに城崎町の地を踏みしめる、千明の掛け値なしの感慨で、地面から湧き上がる故郷の息吹に体が震えてしまう。真理と懐かしい旅館街の街並みをゆっくりと振り返りながら、幼い日の思い出が甦ってきて、千明は感無量だった。
「もうすぐよ」
芭蕉堂を過ぎ、ほんの数分歩くと、懐かしい我が家なのだ。
「えらい静かなとこやな。ひっそりとしてて、寂しいくらいやわ」
真理は一変した町の様相に驚いている。
「さあ、ここよ」
街並みの外れで立ち止まると、千明は目の前の広々とした旧家を指さした。古い木造の平屋だが、大谷石を三段積み上げた趣のある門構えで、長い石畳がなだらかなS字カーブを描きながら玄関まで続いていた。檜門が大きく開け放たれ、玄関戸も心持ち開いている様は、来客の訪れを今か今かと待ち焦がれているように思われるものだった。
「えっ!? ホンマに、これが千明さんの家やの!」
真理は門の前で立ち竦んでしまった。
「‥‥‥ね、真理ちゃん。お願いだから、約束して。私はあなたと同じ、あの幽霊アパート敬藍荘の住人で、この家の人間ではないということ。それに、私の母に決して卑下しないでほしいの。あなたのそんな顔を見ると、悲しくなっちゃうわ。さ、いつものように物怖じせずに、堂々としてよ」
千明は真理の顔をきっと睨んで、彼女の肩をギュッと掴んだ。
「‥‥‥うん、分かった。分かったから、そんな怖い顔せんといて。ウチ、千明さんのそんな顔見るん、嫌やもん」
千明の真意が理解できたのか心もとない真理の瞳であるが、二人の話し声が家の中まで届いたようで、柴が玄関戸を開けて顔を覗かせた。
「あっ! 千明ちゃん」
千明の顔を見ると、大声で、
「おばちゃーん! 千明ちゃんが帰ってきたよー!」
家の中の佐和子に呼びかけて、
「やあ! 千明ちゃん、お帰り」
慌ただしい下駄の音を響かせ、柴は門の前の二人に駆け寄り息を弾ませた。
「ただいま、公夫クン」
千明が気まずそうな挨拶を返すと、
「‥‥‥な、千明さん。さっき千明さんが今も好きや言うてた、公夫クンて、このオッチャンのこと?」
千明のブラウスの袖を左手で引っ張って、真理が上目遣いにのぞき込んだ。
「えっ!? 何だって! 千明ちゃんが、今も僕のことを好きだって。嬉しいことを言ってくれるね。―――そうか、君が真理ちゃんか。柴だけど、よろしく頼むよ」
柴は真理に近づいて、抱きしめんばかりに握手を求めた。
「うん、ウチもよろしう頼むわ。オッチャンとは何とのう気が合いそうやから」
「おい、おい。オッチャンはひどいな。これでも医者で、このあたりでは名医で通ってんだぞ。オホン」
「ホンマ? 千明さん」
「そうよ、真理ちゃん。公夫クンは、この界隈のお年寄りに、一番頼られている名医さんなんだって」
三人が、玄関前の桜の木の下で朗らかに談笑していると、
「お帰り、千明」
佐和子がようやく玄関へ顔を出した。
「ただいま、お母さん」
これまでの母との確執を考え、千明はもっと気まずい出会いを予期していたのに、真理と柴のおかげで和やかな八年振りの再会だった。
「へぇー! こんな若うて綺麗な人が、ホンマに千明さんのお母さん?」
「ありがとう、真理ちゃん。おばさん、お世辞でも嬉しいわ。お手伝い、よろしくお願いするわね」
千明の意を汲んで、佐和子が真理を持ち上げると、彼女はすっかり気をよくして、すぐに初対面の二人と打ち解けてしまった。
「さ、ここがあなたの部屋だから」
玄関を上がって右手の、八年前まで自分が使っていた部屋へ真理を案内する。カーテンにじゅうたん、ベッド・机・ステレオやドレッサーまで、千明が出たときのままに残っていた。
「えー! こんなに広うて、綺麗で明るい部屋、ホンマにウチが使うてエエの?」
「ええ、そうよ。今日から、この部屋の主はあなたなんだから。ご自由に使って頂戴。―――さ、荷物を置いたら、居間でお茶でも飲みましょう」
廊下の奥、右手の部屋が居間で、木々や花々に包まれた裏庭に面していて、少し暗い感じがするが、その分、しっとりと落ち着ける八畳間だった。
「早く、早く。もう! 紅茶が冷めちゃうよ」
柴が駄々っ子のような仕草を浮かべ、二人に席に着くよう促す。
「そう急かさんといてや、オッチャン―――やのうて、柴先生」
医者を先生と呼ぶことに抵抗はないらしく、真理はこぼれる口元から白い歯を覗かせ柴の隣に腰を下ろした。
「おばちゃん、やっぱり俺の言った通りだろ、春休み―――じゃない、四月には帰って来るって。しかもこんな可愛い子と一緒なんだから。ね、真理ちゃん」
柴も佐和子から釘を刺されているらしく、「春休み」と言おうとして、慌ててごまかしたのだった。
「美人三人に囲まれていると、本当に、このダージリンの紅茶まで格別の味だな」
正面の千明と佐和子、左隣の真理を交互に見回し、柴は軽口をたたいて笑わせていたが、
「な、真理ちゃん。診療所へ来ないか、すぐそこだから。診療所で、伊藤のおばあちゃんの相手をしてやってよ。息子さんが7時過ぎに帰ってくるまで、診療所でテレビを観てお茶菓子を楽しんでいるんだ。きっと喜ぶから、さあ行こうよ。さあ、さあ」
苦笑いの真理の背中を押して、診療所へ連れて行ってしまった。
「公夫クン、私たちに気を利かせたつもりなのね。あれで結構、神経がこまやかなんだから」
母と二人だけになると、千明は何となく照れくさい。柴をダシに重苦しいムードを和らげようと笑顔を求めたが、母は同調しなかった。
「ね、千明。積もる話もあるけど、その前に、あなたの真意を聴かせてほしいの。まず、真理ちゃんのことだけど、あの子を一体、どうするつもりなの?」
ニコリともせず正面に座りなおし真剣な目で見つめられると、千明は正直に答えないわけには行かない。
「分かったわ。正直に話すから、‥‥‥でもその前に、お母さんに謝るわ。ごめんなさい。これまで意地を張って、素直でなかったわ。ずっと、お母さんとお父さんを拒んできたの。嫌だったのよ、二人の生き方が。真理ちゃんも同じなの。ずっと、家族を拒んできたの。あの子は十七年前の私と怖いほど似ているのよ。違うところはね、あの子には複数の選択肢が与えられなかったということなの。その結果、とんでもない男に捕まって、最悪の人生を歩もうとしているのよ。あの子を何とか助けてあげたいの。そのためには、お母さんの力がどうしても必要なのよ。間違いに気づいたとき、必ず大きなショックを受けるわ。その時、優しく包み込んで支えてやれる自信が、私にはまったくないの。この城崎とお母さんだったら‥‥‥」
うまく言えないが、真理を助けられそうな気がするのだ。
「分かったわ。ベストを尽くしてみるから。―――今年は忙しくなりそうね。真理ちゃんのことが終わったら、今度はあなたと茂樹の問題が持ち込まれるんだもの。でも、孫と一緒に暮らせるんだったら、お母さんは死力を振り絞って頑張るわ」
母にはすべてお見通しだった。まだ話してもいないことに触れられて、千明は苦笑いを返すしかなかった。
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