第7話 悲しみの母


            

日焼け止めクリームを塗ってくれば良かった。そんな後悔が湧く、日差しの強い暑い日だった。四月の第一水曜日だというのに、まるで初夏を思わせる暑さなのだ。


千明の三年三組は、今日が春休み最後の登校日なので、彼女はいつものように阪急、JR東海道線と乗り継いで、八時過ぎに富畑小学校に着く。


通勤時間を考えると茨木か高槻にアパートを借りるのが一番都合よかったのに、結局兵庫県内を出られなかった。負い目と未練のなせる選択だったが、義母に対する譲歩もその辺りに起因しているのであろう。

 

職員室の机に頬杖をついて、千明はぼんやりとこの一年の出来事を頭に浮かべていたが、

 

―――でも、もう負けない!

 

自分でも不似合いと思ったが、敢えて不敵な笑みを浮かべ、千明は軽く首を振るとすっくと椅子から立ち上がった。義母の要求にことごとく折れてきたが、譲歩は限界だった。


茂樹が小学校へ入ると、転校の問題が生じて引渡しの裁判を起こしづらくなってしまう。タイミング的には息子が小学校へ上がる前の、今年の夏休みに反撃の火蓋を切るのがベストであり、弁護士も同意見であった。

 

十分な世話をしてやれない負い目が反撃の強い足かせだったが、それも明日、佐和子と和解をすることで解決の糸口が見つかるだろう。真理と一緒に暮らすようになって、千明は母に接する態度が変わってしまい、自分でも驚くほど素直になっていた。

 

―――その明日の前に、今日、大仕事が一つ‥‥‥。

 

真理に関して、片づけねばならない難題が残っていた。これがうまく解決できると、〈始め良ければ―――〉の諺通り、すべて良い方向に向かってくれそうな期待が沸いてくる。真理の難題に思案をめぐらせ、苦笑いを浮かべながら千明が三階の廊下を歩いていると、


「先生、お早よう」

 

生徒たちが笑顔で迎えてくれる。


「ええ、お早よう」

 

笑顔で挨拶を返し、三年三組の教室へ入る。室内を見回すと、山根真美以外の席は埋まっていた。


「先生、お早よう。遅くなってゴメン。お母さんが登校日を忘れて、起こしてくれなかったの」


「いいわよ、この程度の遅刻だったら。はい、真美ちゃん、席に着いてね」

 

ぷぅっとふくれっ面の、真美のお下げの頭を撫でて着席を促す。


「始業式に持ってくるものは、いま配布したプリントに書いてあるから、ちゃんと読んでおいてね。それから、あんまり遊んでばかりいちゃ、ダメよ。ちゃんと、家のお手伝いするのよ」

 

春休み最後の伝達と注意を告げて、別れのさよならを言おうとすると、 


「先生。始業式の日、どこに集まるん?」

 

最前列の席から、山内千鶴子が八の字眉の不安顔で尋ねた。


「ごめん、ごめん。言うのを忘れちゃってたわ。始業式に出る前に、この教室に集まるの。それから体育館へ行くからね。それじゃ」

 

改めて生徒たちに別れを告げると、千明は足早に教室を後にして職員室へ向かった。これから今日の大仕事に取りかからねばならないのかと思うと、時間にまで急かされてしまう感覚に襲われるのだった。

 

阪急十三(駅)で宝塚線に乗り換え、池田(駅)で降りたときは正午を回っていた。改札の若い駅員にメモ帳に書いた住所の方角と大まかな距離を聞いてみる。これから真理の家を訪れて彼女の母(実母ではなく継母)に会うつもりなのだ。


千明は真理について、ある計画を実行に移そうと考えていた。最初会ったとき、漠然と心に浮かんだものだが、一緒に暮らすようになって、徐々に実体が形成され、今では信念に近いものになっていた。

 

真理の家は池田駅から北東へ二キロほど行ったところにあった。商店街や住宅の密集した―――繁華街を西に外れた小さな一戸建だった。三メートル弱の細い通路を挟んで二十坪前後の住宅が五軒ずつ並んでいたが、番地を確認していると通路の入口から三軒目に、メモ帳の番地と同じ表示の二丁目三番地が―――錆の浮き上がった赤い郵便受けに貼られてあった。


「えっ!‥‥‥」

 

石田皓汰という玄関の表札を見て、千明は小さく驚きの声を上げた。自分の一番嫌いな山乃瀬皓三と〈皓〉の字が同じだったからだ。真理の屈折した心理を垣間見た気がして、複雑な心境だった。


暫くの間、千明は唇を結んで玄関先でたたずんでいた。予定外の事態に遭遇し、心が平静を取り戻す必要があった。


「ごめんください」

 

インターフォンがないので、通路に面した玄関戸を右手で開けて屋内へ呼びかけた。誰やっ! と、荒々しい誰何の声が投げ返されないかとドキドキしてしまう。

 

家の中は、御世辞にも片づいているとはいえなかった。狭い玄関には子供用の補助歩行器が置かれ、ボールや積木、絵本が貧弱な廊下に散乱していた。


「はい」

 

左手の部屋から返事が返されたものの、「キィー!」と叫ぶ子供をあやしていて、返事の主は中々廊下へ出てこなかった。


「済みません、お待たせして」

 

生気のない、暗い感じの女性がようやく顔を出した。表札に末子と書かれてあったので、この人が真理の義母の末子であろう。


「‥‥‥あのう、小学校の教師をしている藤井千明といいますが」

 

職業を告げるべきか迷ったが、千明は正直に打ち明けた。これから話すことに彼女がどんな反応を示すか不安だったが、少なくとも千明の計画をつぶすような人物でないという自信はすでに生まれていた。


「‥‥‥小学校の先生とおっしゃいますと」

 

千明の職業を聞いて、末子はおびえた瞳で訪問客を見上げた。白髪が目立つ髪と二筋の眉間のしわが、末子に十歳の老いを与えていた。

 

―――私と同じタイプの人間なんだわ‥‥‥。

 

前向きに生きようとせず過去のしがらみから抜け出せない人だと思った。

 

春休み前までは、千明もまったく同じだった。真理に会うまでは末子と同類だったが、真理と出会って少しずつではあるが、変わってきた。というより、変えていかねば、と思うようになった。過去を切り捨て、懸命に前向きに生きようとする真理を見ていると、変えなければいけないと痛感するようになった。


「千明さん。古いことをウジウジ考えてても、しゃあないやん。ウチなんか、千明さんの何十倍も何百倍も嫌な目に遭うて来たで。せやから、考え出したら苦しいだけで、生きて行く力も湧いて来ぇへん」

 

朗らかな声で、千明は真理によく励まされる。左手首に残る二筋の傷跡が、何十倍、いや、何百倍もの重みを真理の言葉に与え、聴くたびに千明は体がすくんでしまう。いつ死の誘惑から逃れ、前向きに生きる決意をしたのか、本人は話題にすら上らせないが、そう遠くない過去であることは、赤く盛り上がった左手首の傷跡が痛々しく語っていた。


「そうね、真理ちゃん。私も真理ちゃんのように前向きに生きなければね」

 

評価に値しない男に寄りかかり、目の前しか見ない刹那的態度には不安と抵抗がこみ上げるが、真理のたくましい生き方に圧倒され、千明は見習わねばならないとの認識を持ちだしているのだった。


「ええ、小学校といっても、大阪の摂津にある富畑小学校の教師です。真理ちゃん―――いえ、千秋ちゃんのことで伺ったんです」

 

末子の不安を取り除くために千明は朗らかに笑ったが、わざと作った笑顔は頬が強ばり、自分でもぎこちなかった。


「えっ! 千秋ちゃんの! ‥‥‥千秋ちゃんが何か―――」

 

千秋の名前を聞くと、末子はうろたえて、気の毒なほどの困惑顔を浮かべた。あらぬ不安が脳裏を襲ったのだ。


「いえ、ご心配なさるようなことではなくて、―――実は千秋ちゃん、私のアパートで一緒に暮らしていますの」

 

千明はにこにこしながら末子の誤解を取り除いた。今回は自然な笑顔で、頬の強ばりもなかった。


「え! まあ、そうでしたか。本当に心配していたんですが、先生のお宅に泊めてもらっていたんですか。これで主人も私も安心して眠れますわ」

 

よほど嬉しかったのか、末子は着古した麻のワンピースの胸に手を当てて何度も安堵の溜め息を吐いた。素直で偽りのない仕草だった。千明を見上げるぎこちない、本人も忘れていたかのような笑顔が新鮮で、彼女の普段の苦悩の深さを象徴していた。


「あっ! 気がつかずに済みません。どうぞ、上がって下さい」


「そうですか。ここで結構だったんですが。それじゃ、お邪魔します」

 

立ち上がった末子に促され、彼女の後から左手の六畳間に入る。子供に遅い昼食を食べさせていたところで、歳の頃は六歳くらいの男の子の前に、食器やコップが並んでいた。


「ダメよ、皓平ちゃん、スプーンを噛んじゃ。―――済みません、散らかってまして」

 

プラスチック製の白いスプーンを取り上げて、末子は皓平を膝に抱いた。


「いいえ、気にしないでください。ウチもよく似たもんですから」

 

おかっぱ髪の皓平に微笑みかけて、千明は勧められた座布団に腰を下ろした。室内は何とも重苦しいムードが立ち込めていて、真理が家に居たくなかったわけが鮮烈に伝わってきたのだった。と同時に、彼女がクー子のように大崩れしなかった理由もよく分かった。末子の皓平に対する、無器用ではあるが、深い母性愛を無視できなかったのだ。


「この子が生まれてから、千秋ちゃん、おかしくなって。小学校二年まで、勉強も良くできたのに、‥‥‥主人も私もこの子に掛かり切りになってしまったんで、父親を取られたと思ったんでしょうか」

 

千明を見ずに末子はぼんやりと呟いたが、寂しい横顔だった。


「ええ‥‥‥」

 

真理が変わった理由は、末子が思うほど単純なものではなく、さまざまな要因が複雑に絡み合った結果であろうが、今の千明にはまったくといってよいほど興味が湧かなかった。


「お母さん。千秋ちゃんは中学校の卒業証書は戴いているんでしょうか。学校へ問い合わせましたら、出した、という返事だったんですが。―――今日、伺ったのは、そのことを確認したかったからなんです」

 

千明は身を乗り出して、今日の一番の懸案事項の回答を待つ。


「はい、それは戴いてあります。つい三日前、担任の先生が届けてくださいました。ちょっとお待ち下さい」

 

末子は立ち上がって、隣室から紺の紙筒に入った卒業証書を持ってきた。出席日数は足りなかったが、真理の将来に配慮して卒業証書を出してくれたらしい。


「‥‥‥ああ! 良かった!」

 

千明は、手渡された証書を胸に抱きしめた。これで、彼女の計画の最大の障害がなくなったのだ。


「ええ、主人も私も心配していたんですが、卒業できて本当に良かったと思っています」

 

千明の大げさな仕草に戸惑いながら、末子も素直に相槌を打った。


「お母さん、実は‥‥‥」

 

千明は、自分が進めようとしている計画を、末子に明かすことにした。三年先が一応のめどだが、その時点でも真理はまだ十八歳で、未成年者なのだ。親権者である末子の了解を得ておくのが賢明だし、彼女は知る権利があると思った。


「‥‥‥そうだったんですか。ええ、私たちに異論のあろうはずがないです。先生の思う通りにしてやってください。本当によろしくお願いします。ありがとうございます」

 

肩の荷が下りたのであろう。末子は千明に何度も頭を下げていたが、


「よかったね、皓平君。お姉ちゃんは大学へ行けるかも知れないんだって。本当によかったね。‥‥‥うーっ!」

 

息子に向き直ると、感極まって泣き出してしまった。想像もできなかった夢の未来で、娘に、シンデレラのガラスの靴がもたらされたのだ。


「千秋ちゃんから連絡があっても、私が教師というのは伏せておいてください。お願いします」

 

最後にもう一度、末子に念を押して、千明は三時過ぎに石田家を後にした。駅へ歩きながら、実にすがすがしい気分で、来たときと同じとは思えないほど商店街に人々の笑顔が溢れ、足取りも新入生の軽やかさだった。


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