第6話 三四郎の迷い
強固な信念を持つ人間はやっかいだ。柔軟性のない、頑迷固陋な信念なら尚更やっかいだった。周りに与える迷惑は計り知れないのだ。赤の他人ならまだしも、家族にそんな信念の持ち主がいれば、やっかいと迷惑は倍加する。父親の場合、子供の被る被害はなんとも言い表しようがなかった。
倉岡三四郎と父の治五郎の関係が正にそうであった。治五郎は柔道の創始者に因んだ名をつけられたことにいたく感銘を受け、幼少時より柔道一筋の日々で、そのことに何の迷いも抱かないほど深く柔道に関わって来た。柔道で大きな挫折を味わったことがないこともあり、自己の信念に疑念を抱いたことも皆無であった。およそ迷いや悩みから無縁で、物事がうまく行かないと、自己の信念を押しつけるか、相手を見下して無視する人間だった。
三四郎も中学を卒業するまでは、父の生き方や考えに何の違和感も持たなかったし、彼と同じ道を歩むことに一抹の不安を抱くこともなかった。高一のとき、右肩と肘に重傷を負わなければ、おそらく父と寸分違わぬ柔道人生を送っていただろう。
〈神童〉
この二文字に接すると、三四郎は複雑な思いが込み上げてくる。中学を卒業するまで、三四郎はこの形容を欲しいままにしてきた。本当に傲慢だった。いま振り返れば、恥ずかしいほどの無思慮だった。地区予選の緒戦相手など、完全に嘗め切っていた。怪我に泣き、運に見放された相手の三十男などは、十六歳の昇竜の眼中になかったのだ。
「ソリャ!」
無造作に相手の襟をつかみ、強引に背負い投げに持って行こうとした一瞬のスキだった。
「キェーッ!!」
絶叫に似た気合いと共に、渾身の力を振り絞った、強烈な返し技を掛けられてしまった。この一戦に全てを賭け、三四郎を研究し尽くした執念の捨て身技だった。
「うーん!」
ブチッ! と音の出る激しい痛みとともに仰向けに倒れ、三四郎は起き上がることも出来なかった。三角筋と右ヒジ靱帯の断裂だった。
一度目の手術は、神奈川県内の公立病院の整形外科で、二度目は中部地方にあるスポーツ医療専門病院での手術だった。が、いずれも期待した結果は得られなかった。
「なに? 今度の手術でも、元に戻らんというのか!」
精神力でカバー出来るとの、父の言外の非難も応えたが、三度目の手術は右腕が決して元通りにならないことを証明してくれたのだった。かすかな期待が完全に消失して、目の前からすべてのものが消え去る、どん底の失望だった。九十以上あった握力は僅か二十に下がり、上向くことは二度となかった。
周りの人たち、特に父の期待に添うべく、利き腕を左に変える組手を工夫し再起を図ったが、一朝一夕に身に付くはずがなく、試行錯誤を繰り返す長い苦悩の日々が続いた。
「まだ、そんなことをしているのか!」
父は不満だった。彼にとっては努力がすべてで、小手先の小技は非難の対象以外の何ものでもなかったのだ。
「そんなんじゃダメだ! 一番よかったときのことを思い出せ!」
父は三四郎が考えた組手をことごとく無視し、努力によって以前の状態に戻れと声を荒げた。が、それは三四郎に不可能を強いるものであった。
父が疎ましく、彼との関係が日を増して険悪なものになるが、激しいいさかいを生み出すには、マグマのように沸き上がる膨大なエネルギーときっかけになる起爆剤が必要だった。
最初の対立は十八歳の秋、大学の推薦入試を機に訪れた。父は自分が理事をする東京の拓士館大学への推薦入学を主張したが、三四郎は関西の大学へ進学することを望み、拓士館への進学を拒んだ。拓士館は柔道を続けるには理想的な大学だが、父から離れ、柔道と少し距離を置きたかったのだ。
「勝手にしろっ! お前なんか‥‥‥」
烈火のごとく怒りながら、父は最後の言葉はかろうじて呑み込んだ。息子は三四郎一人で、娘に跡を継がすことなど父には思いも寄らないことであったのだ。
父に反抗した手前、三四郎は自分でも無茶と思うハードメニューを課して受験勉強に臨んだ。
「‥‥‥三四郎、そんなに無理をすると―――」
母の八重子の気苦労が、また一つ増えるほどの日々であった。その甲斐あって、翌年の二月、神戸市垂水区にある公立大学の前期日程に合格した。
柔道部に入ったが、在学中の四年間は意図的に無理な練習をしなかった。結果的にはそれが良かったのだろう、利き腕を左とする型が完全に身に付いてしまった。
天与の才と時の運で頂点に上り詰める―――天才と呼ばれる一部の人たちの存在を三四郎も否定はしないが、挫折を味わいその克服をようやく果たせたと実感できるようになって、確固たる信念とも呼ぶべきものが形成されるに至った。
ものごとの完成には、少し距離を置いて、楽しむ姿勢とゆったりとしたときの経過が必要―――このことが痛いほど分かった。三回生の秋に、西日本の学生選手権で三位入賞を果たして、三四郎は目からウロコの心境であった。
この頃から、従来の苛酷なまでの練習方法に強い疑念が沸き上がってきて、父とは一緒にやって行けないと明確に認識するようになった。卒業しても実家のある横浜へは帰らず、母校や女子大、それに高校のコーチを続けながら大会に出ていたが、最初の数年ははかばかしい成績を残すことが出来なかった。
全国大会では準々決勝まで進むのがやっとのことで、緒戦敗退も何度か経験したが、二十七を過ぎた頃から急に強くなった。最盛期の勝負勘が甦って来たこともあるが、イメージトレーニングと運動力学を応用した、左手主体の変則技が完成の域に達したことが最大の理由だった。
全国大会で準々決勝や準決勝まで勝ち残ると、父の態度が急に軟化して、三四郎に小遣いまで送ってくるようになった。審判席から息子を見る目は、〈鬼倉(おにくら)〉と恐れられていた頃から想像も出来ないほど、好好爺の穏やかな瞳に変わってしまった。
息子が三十に近づくにつれ、変化はより加速され、しきりと帰郷を促すようになった。三四郎の現役生活終焉は、その道の達人には手に取るように明らかなのだ。
「な、三四郎。お父さんが理事をしている間に、連盟に入る手立てを講じておきたいんだ。そのためには一日も早く横浜へ帰ってきて、講武館の館長職を継いでもらう必要があるんだ」
肩書きだけでもいいから、帰って館長職を継げと、父は三四郎にしつこく勧める。道場経営だけでは生計の資として十分でないことから、父の意図は柔道連盟での地位の世襲であるのは明らかだった。
「理事の山上さんが、お前を娘さんの婿にといってくれてな。どうだろう、お前さえ良ければ再来週の日曜日、見合いを兼ねて山上さん御一家と浅草で会食したいんだが」
昨夜も十時過ぎに、アパートへ電話をかけてきた。
「いや、好きな人がいるんで、山上先生にはお断りしてくれないか」
「また、そんな出任せをいう。お母さんも、お前の顔が見たいと言っているので、遅くとも、予定日前日の土曜日には横浜へ帰って来なさい。な、頼んだぞ」
作り話と思ったのか、父は苦笑しながら電話を切ってしまった。
―――さて‥‥‥。
一方的な要求だが無視するわけにはいかず、かといって帰省する気もなかったので、翌日、三四郎は大学の先輩で神戸市在住の連盟理事・山田典夫に会いに行った。彼に頼んで、父と山上を説得してもらおうと考えたのだ。
「付き合っている女性がいるんだったら、山上先生のお嬢さんはお断りするのが筋だろうな。しかし、本当か。そんな話は初耳だし、もし一時しのぎなら、僕も倉岡先生と山上先生に顔向け出来なくなって困るよ」
「いや、本当に好きな人がいるんです。近々、彼女を連れて伺いますから。とりあえず再来週は東京へ行けないと父に伝えてください」
山田に追及されて、三四郎は苦し紛れの空約束をしてしまった。
―――どうしたもんかな‥‥‥。
生田町の山田宅を出て、三四郎は思案顔だった。
―――怒るだろうな。
急坂に沿う狭い歩道を海に向かって下りながら、三四郎は苦笑いを浮かべた。千明に、山田の家へ一緒に行ってくれるよう頼んだりすると、一体どんな反応を示すだろうか。かんかんになって怒るのか、それとも、
「いいわ、こないだのお礼だから」
と言って、恋人の役を引き受けてくれるだろうか。
―――そうだといいんだが‥‥‥。
真理が来てからずいぶんと明るくなって、自分にも笑顔で会釈してくれるようになっていたのに、先日の一件以来、千明は以前のよそよそしさに戻ってしまった。恥ずかしい姿を見られたからだが、三四郎の胸には泣きじゃくる顔と体の温もりが鮮明に残っていて、それらが日増しに彼の心と体を熱くするのだった。
昨年の四月、引っ越しの挨拶に訪れたとき、それほど良い女とは思わなかった。ところが翌日再び顔を合わせると、不思議な気分にさせられたのだ。どこにでもいそうに見えて、利発で優しそうな瞳や形の良い鼻、上品な口元は、どれをとっても美人の条件を満たしていた。
「おい倉岡。すごいベッピンが下に住んでるやないか。我々はクラシック・ベッピンと呼んでるんやが、彼女、その中でもピカ一やで」
大学時代の友人たちと酒盛りをしていたとき、抗議に訪れた千明を見て、画家の卵の植田が驚いていた。クラシック・ベッピンというのは、古典的美人という意味ではなく、クラシック音楽のようにいくら見ても見飽きない美人のことらしい。はっとする美しさはないが、見れば見るほど味の出る女性といって良いのであろうか。
―――クラシック・ベッピンか‥‥‥。
植田の言葉を思い出し、三四郎は苦笑いを浮かべながら歩道を南へ南へ下っていく。二宮町から琴雄町、三宮へ近づくにつれ、すれ違う人の顔が増えて町も賑わいを増してくる。六甲から見渡す神戸の夜景もきらきらと華やかで、〈百万ドルの夜景〉が示すごとく千金の値があるが、ネオンの海を歩くのもゆらめく波間を漂う夜光虫のはかなさで、無常観がわきあがってきて、これもまた格別の趣がある。
海岸通りを抜け、波止場へ入ると濃い夜霧が立ち込めていて、ぼーっと泣くような霧笛を残し、黒い大きな船体が闇の中へ溶け去っていく。三四郎はゆっくりと鉄製ベンチに腰を下ろすと、長い間、足下のゆらめくネオンに瞳を委ねていたのだった。
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