第5話 断酒宣言
「ね、春っていいわね」
武庫之荘駅の改札を出て、真理と並んで歩きながら千明は上機嫌だった。摂津市にある富畑小学校から帰ってきたところで、これから真理と市場へ買い出しに行くところなのだ。
春休みといっても生徒たちと違い、教師には雑用が組み込まれていて、何日かは学校へ出なければならない。今年は持ち上がりクラスの担任なのでクラス編成の会議がなく、三年から四年への持ち上がりだから、例年に較べると随分ゆっくりできる。
低学年や五年への持ち上がりだったら、これほどゆとりのある春休みを過ごすことは出来なかっただろう。五年への持ち上がりは算数に割合や速さが出てくるので、教える方も教えられる方もやっかいで苦労する。この分野のマスターが、その後の算数、延いては数学の成績に直結するのだ。経験から得た千明の確信で、教える方は責任重大であった。行動パタンも当然、出来上がっていて、春休みの内から学習予定を立て、生徒の能力に合わせたメニューをあらかじめ作成し、何度も頭の中で模擬演習を繰り返す。プレッシャーとストレスがたまり、気の抜けないのが四年から五年への春休みであった。
「あーあ。本当に、空気が瑞々しくておいしい」
白いカーディガンのボタンを外して、千明は胸いっぱい、新鮮な春の息吹を吸い込んだ。真理がいなければ、この春休みは時間の余裕がある分、アパートでうじうじ考えて、立ち直れないほど落ち込んでいただろう。
―――でも‥‥‥。
気の合う同居人がいるというのは、なんと心強く、体にも張りを持たせてくれることであろうか。彼女が自分を必要としているのだと思うと、なおさら日々の生活の充実度が増すのであった。
―――茂樹のためにもエネルギーを蓄え、ゆったりと攻撃態勢を整えるのがベストなのだ。
茂樹のことに気が向けば居ても立ってもいられない焦りがこみ上げ、うつに陥ってしまって、自虐行為から、果ては死の誘惑。この筋書きへの防衛的拒絶反応であろう、息子を意識に上らせない後ろめたさを忘れる補償の意味もあって、千明は真理の更生に大きくのめり込んでいた。
「えっ! 真理ちゃん。こんなに高い知能指数なの!」
一緒に暮らしてみて驚かされたのは、真理が非常に高い知能の持ち主だということだった。漢字がほとんど読めないので、図形や平仮名、数字を使った簡単な知能検査を施してみると、IQは140あまりもあり、心理学でいう天才と呼ばれる領域に達していた。料理の手際のよさはこのあたりに起因しているのであろう。
「へぇー、こんなもんで、頭がエエか悪いか分かんの?」
真理は最初いやがっていたが、高成績が出ると面白くなってきたのであろう。だんだん興味を示すようになった。
「ね、面白いでしょう。真理ちゃん、本当は頭がいいんだから、漢字も少しずつ覚えていかないと」
真理の自尊心をくすぐり、意図通りの方向へ千明はさりげなく誘導する。
「うん、ウチも漢字はもうちょっと覚えなアカンと思てんねん。市場やスーパーの買物に不便やから。せやけど千明さん、先公みたいなこと言うやんか。ホンマに出版社へパートに行ってるだけやろね。先公やったらイヤヤで」
「もう! 違うって、言ったでしょ。本がたくさんあるのも、出版社へパートに出ているからだって、何度いったら分かるのよ」
真理の教師に対する不信と嫌悪が余りに強すぎて、千明はなかなか自分の職業を明かせないでいるのだった。
「ね、武庫之荘って、いい所でしょう。高級住宅街もあるけど、市場や庶民的な通りもあって。それに緑が結構多いでしょう」
街路樹や民家の垣根を見回して千明が同意を求めると、
「この町は好きやけど、ウチは春が嫌いやねん」
思い出したくない春の印象が脳裏に甦って、真理はぷぅっとふくれっつらを返したのだった。
三時近くともなると、市場は夕食支度の主婦で賑わい、活気にあふれていた。
「さ、今夜は何にしようかな」
細い市場の通路を歩きながら、真理は嬉しそうに店先を見回す。千明の指導が効を奏し、漢字が少しずつ読めるようになってきて、漢字表記の品を「これ」でなく、名前で指示できるのが楽しいのだ。
「な、千明さん。なに食べたい?」
「そうね、お肉はご馳走になったから、今夜はヘルシーに刺身といきましょうか」
千明が鮮魚店の前で立ち止まると、
「そうやね、そうしよう。おっちゃん、その鯛の片身、造りにしてくれる」
真理は早速うなずいて、こぼれる笑顔にえくぼを浮かべ注文を出す。鯛という字を昨夜は読めなかったが、今はマグロやアジの漢字も読める。
「な、千明さん。マグロのブロックも買うていこうか。ウチが帰って、うまいこと刺身に盛り合わすさかい」
「でも、そんなに食べ切れないわよ。鯛だけにして、後なにか、お惣菜でも買っていきましょうよ」
「エエやんか。民子さんと三四郎さんにも貰うてもろたらエエやろ」
家事の苦手な千明と違い、真理は手際が良いので、すぐに主導権を握ってしまった。民子のことは香川さんといわずに、親しみを込めて民子さんと呼んでいる。最初に泊まった翌日、
「まあ! 可愛い顔して。おでこ美人やね。こんな綺麗な肌してんやったら、昨日みたいに化粧オバケしたらアカンで。化粧オバケは私みたいに五十過ぎてからするもんやで」
民子に誉められてからというもの、彼女も真理の大のお気に入りになってしまっていた。
軽口をたたいてふざけ合いながら市場から帰ると、敬藍荘の玄関で三四郎と鉢合わせた。
「三四郎さん、こんにちは。今日、何時頃帰ってきはるん?」
「やあ、こんにちは、真理ちゃん。今日は九時頃かな。でもどうして、そんなこと聞くんだい?」
真理の問いに、三四郎は照れながら千明に視線を送った。
「うん。お刺身、たくさん買うてきたから、持って行こう思て」
「そりゃあ、ありがたい。期待して待ってますから。それじゃ」
千明に軽く頭を下げて、真理に笑顔を返すと、三四郎はYシャツにGパンというラフな格好で、園田にある女子大へ柔道のコーチに出かけて行った。
「さ、ウチが晩ご飯つくるさかい、千明さんはパートの仕事しててや」
「それじゃ、お言葉に甘えようかな」
料理は台所の真理にまかせ、千明は隣の四畳半で机に向かって学級通信をパソコンに打ち込んでいく。知的なものに心を閉ざしていたときと違って、真理はいろんなものに興味を示すようになった。パソコンも最初、
「こんな難しいもん、ウチには出来へんわ」
拒絶反応を示していたが、平仮名のキィをたたかせ、プリントアウトしてやると、
「いやぁ、ホンマや。ウチでも出来るやんか。ちゃんと字覚えたら、使い方、ちょっとずつ教えてもらうわ」
真理は千明の意図通り、新しい世界に一歩ずつ着実に足を踏み入れ始めたのである。
「さ、これでお皿は全部並んだな。ほな、千明さん、食事にしようか」
六畳間のテーブルに食卓を整えて、真理が千明を誘う。
「ええ、ありがとう。―――でも、なにか悪いみたいね。お客様に食事を作らせたりして」
「エエて、エエて。しばらく居候させてもらうんやから、当たり前のことや。気にせんといて。さ、早よ、こっち来て、食べよ、食べよ」
真理が先に腰を下ろして、千明を急かせる。
「はい、はい。それじゃ、いただきます」
パソコンの電源を切って、千明が席に着くと、
「な、千明さん。今日はビールで乾杯しよや。ちょっとだけやったら、エエやろ」
真理が冷蔵庫に入ったままの缶ビールと酒を思い出して、立ち上がった。アルコールを飲み慣れていたので、アル中とまでは行かないが、しばらく飲まないとやはり体が欲しがる。
「私はアルコール駄目だから、こないだも言ったように、真理ちゃん一人で飲んでよ」
そもそもアルコールは好きでなかったし、一人暮らしをするようになってから、千明はアルコールに対する拒絶反応が強くなった。教師をしていると、結構、飲む機会が多いものである。折りあらばと狙っている男性教師には絶好のチャンスで、一人暮らしと知ればなおさらだった。忘年会や新年会、各種行事の後で、おかしな関係になった同僚の失敗談は枚挙にいとまがなかった。酒の席で執拗に迫られたこともあり、夫と別居してからというもの、千明は一滴のアルコールも口にしたことがなかった。
「そんなこと言わんと、チョットだけ。ほんのチョットだけ付き合うてや」
真理に勧められ、苦笑しながら軽くビールを喉に流し込んだのがいけなかった。空腹も手伝い、スーと胃にアルコールが流れ込んで、カーッと頭がしびれて歯止めが効かなくなってしまった。
「うーん! おいしい!」
こんなうまいビールは初めてだった。グラスに真理が注いでくれたビールを千明は一気に飲み干してしまった。
「‥‥‥な、千明さん。あんまり飲んだら体に悪いさかい、ほどほどにしとこや」
グビーっと、あまり勢いよくグラスを空にするので、勧めた真理が心配になってくる。
「なーに、言ってんのよー。飲もーって、言ったーのは、だーれなのよー。大じょーぶよー、こーれくらーいのビールー、へーちゃらなーんだからー」
ロングの缶ビール二本空けたときは、千明は完全に酔っ払ってしまって、姿勢を保てないほどフラフラになっていた。
「もー、千明さんが、こんなにアルコールに弱いとは知らなんだわ。酔いが醒めるまで、しばらく寝といて。ウチは三四郎さんとこへ、お刺身持って行ってくるから」
真理はあきれ顔だった。千明を横にして薄い毛布を掛けると、冷蔵庫からラップに包んだ皿盛りの刺身を取り出す。三四郎が帰っているのは、階段を上がる足音や、自室を歩く音で分かっていた。
「ほな、行ってくるわ」
部屋を出るとき、千明は頭を揺らせながらブランブランと手を振っていたのに、四、五分して戻ってみると、仰向けで苦しそうに呻いていた。
「千明さん! どないしたん?!」
驚いて駆け寄ってみるが、千明は真理の呼びかけに応えなかった。
「何でや、そんなにも飲んでないのに‥‥‥」
泣きそうな顔をして真理が千明を抱き起こそうとすると、大きな声で異変を感じ取ったのであろう、
「どうしたんだ!」
三四郎が三号室のドアを開けて、六畳間に駆け込んできた。
「急性アルコール中毒だな‥‥‥」
千明の様子から、急性アルコール中毒と分かる。一気飲みで倒れた若者たちを何度も目にして、この程度の判断は容易につくのだ。
「あー! ホンマや。千明さん、水と間違ごうて、ウオッカ飲んでしもたんや!」
ウオッカが入っていたはずの真理のグラスが、空になって畳の上に転がっていた。
「三四郎さん! どないしょ。ウチのせいやねん。どないしょう‥‥‥」
「真理ちゃん。泣いてないで、早くドアを開けて。これから志水先生のとこへ連れて行くから」
泣きじゃくる真理に指示を与え、三四郎は軽々と千明を抱き上げた。市場の裏手にある志水医院へ連れていこうと思っている。
尼崎西高校の柔道部で志水医師の息子を教えているので、診療時間外であっても無理を聞いてもらえる間柄だった。救急車を呼ぶより、走って五分程度の志水医院がベストと考え三四郎は千明を抱いてアパートを飛び出したが、振動に内臓が反応したのか、しばらく走ると千明は胃の中の物を戻してしまった。
「うーっ!」
タイミングよく三四郎が地面へ立たせてくれたので、衣服を汚すことはなかったが、もうろうとした意識の中でも、千明の頭はパニックに陥っていた。こんな惨めな姿を見られて死ぬほど恥ずかしいのに、思い通りに体を動かすことの出来ないもどかしさ。このまま放っておいてくれればいいのに、再び抱き上げられ、千明は彼の腕の中で泣き出してしまった。
「―――真理ちゃん。もう大丈夫だから、アパートへ戻ろう」
吐いたので三四郎も安心したのだろう、彼の胸に顔を埋めて、
「お願いー、連れて帰ってー」
蚊の泣くような声で千明が泣きじゃくると、オロオロする真理を促し、三四郎はゆっくりとアパートへ向かって歩き始めた。
「ゴメンやで、千明さん。もうアルコールなんか絶対、飲ませへんから」
背中を撫でながら、真理は何度も謝るが、千明は苦しくて言葉をかけてやることも出来なかった。
「しばらく安静にしとけば良くなるから。頭を冷やすだけで、そっと寝かしておいてあげなさい」
窓際の蒲団に千明を寝かせ、真理に指示を与えると、三四郎は自室へ戻って行ったが、彼の言葉通り、二、三時間もすると頭の痛みも治まり、千明は随分楽になった。
「飲み慣れんもんを飲むからや。せやけど、すぐ吐いたんやったら、大丈夫や。真理ちゃんも、心配せんでエエて。ほら顔色も戻ってきてるやろ。ま、いずれにしても、三四郎ちゃんがいてて良かったやん。な、千明さん、頼りになることがよう分かったやろ」
十二時過ぎに帰宅すると、民子も心配して部屋へ顔を出したが、大事ないと分かると千明の手を握って軽口をたたいた。
「‥‥‥ええ。でも、こんな恥ずかしくて苦しい思いは、もう二度と味わいたくないわ。私にはアルコールは合わないのね。よく分かったから、金輪際、アルコールは口にしないことにする」
大げさでなく、心の底から懲りてしまった。千明は溜め息を吐くと、民子と真理を見回して断酒宣言をしたのだった。
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