第4話 貧乏ドクター


 

兵庫県は広大な面積を誇り、日本海と瀬戸内海の海の幸は言うに及ばず、中国山地の山の幸にも恵まれた―――日本海側は雪と寒さに悩まされる冬を持つが、瀬戸内側はモダンな都会の面持ちと素朴で飾らない土地柄も垣間見せてくれる県である。東京や大阪のような賑わいと一線を画し、もちろん京都のような歴史的きらびやかさも少ないが、素朴でしっとりとした趣があり、千明と同じくらいという表現はおかしいが、柴公夫には住環境としての都道府県では兵庫は一番好きな土地だった。

 

その兵庫県へは小学校二年の時、父の転勤で東京から越してきたが、しばらく兵庫に馴染めなかった。近所に千明が住んでいなかったら、これほど兵庫県を好きになれなかっただろう。父同士がキャリアとノンキャリアの違いはあるが、同じく警察官僚で、家がそれほど離れていないこともあり、すぐ家族ぐるみの付き合いが始まった。ともに一人っ子で、違うところといえば千明は一年前に東京から越して来たこと、彼女の父は豊岡市出身だったので官舎ではなく、広々とした自宅旧家に住んでいたことだった。

 

もの心ついた頃からだと思うが、柴は父の仕事が好きでなくなってしまった。転勤の度に転校を強いられたこともあるが、強圧的で、人間の負の部分ばかりに捕われているようで、優しさが感じられず、いつか自分も逮捕されそうな気がして怖くなってしまったのだ。千明も同じ思いを抱いていたのだろう、小学校三年のとき、


「僕はお医者さんになるんだ。みんなに病気をしないような人になってもらいたいんだ」

 

初公開の決意を、庭に面した彼女の部屋で得意満面に伝えると、


「本当! きっとなってね、きっとよ。お父さんと同じ仕事をしないでね。‥‥‥私は小学校の先生になるわ。みんなに悪いことをしないような大人になってもらうの。公夫ちゃん、約束よ。さあ、指切りげんまん」

 

よほど嬉しかったのだろう、千明は柴の手を取り何度も何度も小指を絡ませた。初めて触れる柔らかい手と指の感触が、柴には甘酸っぱい初恋の思い出だった。

 

小学校三年の約束を果たすために東京御茶ノ水にある医科歯科大の医学部へ入り、大学を卒業すると同時に、県内の国立大学附属病院で研修を受けるべく、両親の反対を押し切って兵庫県へ帰って来たが、千明はすでにかつてのクラスメートと結婚してしまっていた。柴にはショックだったが、いつか自分の元へ帰って来てくれそうな気がして、彼は彼女の実家近くからなかなか離れられないでいるのだった。


「おばちゃーん、こんにちはー」

 

スーパーカブから降りてインターフォンを押せばいいのに、柴はいつものようにエンジンも切らず藤井家の門前から呼びかける。紺のジーンズに混ざり毛糸の蓬(よもぎ)色セーター。酒屋の御用聞きさながらのラフな格好で、185cmのスリムな長身と合わせ、およそ医者のイメージではなかった。


「こんにちは、柴先生。今日もお一人で、往診の途中ですか」

 

藤井佐和子が普段着の和服姿で、微笑みながら玄関を開けて柴を迎える。四十代といっても通用する容姿で、六十三の実年齢を知ると皆一様に驚くのだった。


「おばちゃん、やめてよ! その柴先生って言うの。昔のように、公夫君て言ってって、いっつも言ってるのにー!」

 

看護師はいるにはいるが、高齢で腰痛持ちの自宅療養。診察は柴一人でこなしていて、往診前の日課が佐和子のご機嫌伺いだった。ヘルメットを脱いで口をとがらせると、


「はい、はい、分かりました」

 

佐和子は苦笑いを浮かべ門を開けた。


「ね、おばちゃん。千明ちゃんから、何か連絡あっただろ」

 

よほど嬉しいことがあるのか、佐和子の肩を抱いて家の中へ急がせる。


「千明から連絡って?」

 

佐和子が玄関先で立ち止まって怪訝顔を浮かべると、


「もー! しらばっくれて。―――連絡あったんだろ、坂本と離婚したって、さ」

 

鼻の付け根にしわを寄せ、だだっ子顔でにらんでから、柴は小声で付け加えた。


「えっ! 本当?!」


「なーんだ。おばちゃん、まだ知らされてなかったんだ」

 

驚いた佐和子の顔を見て、柴はようやく納得したのだった。


「ね、千明の離婚、誰から聞いたの?」

 

柴を玄関左手の応接間に通すと、佐和子はお茶も出さずに彼の向かいのソファに腰を下ろした。


「坂本の親友の安田からだよ。今朝ほんのついさっき、診療所へ電話がかかってきたんだ。『おい、柴。藤井と坂本は離婚したらしいぞ。坂本が近々再婚するんで、俺に式に出てくれっていうんだ。しかし良かったなー、お前、待ってて。俺はお前達の結婚式にも出てやるからな』だって。本当に嫌な野郎だぜ。中・高の時から坂本と安田はいけすかねぇ野郎だったんだ。でも千明ちゃんと離婚してくれたんだったら、俺、坂本がちょっぴり好きになっちゃったよ」

 

柴はソファにもたれ、ガキ大将のように白い歯をのぞかせ、腕を組んで胸を張った。童顔の得意顔が、いっそう若々しく見える。


「そうなの。千明が離婚を‥‥‥」

 

佐和子は目を伏せて口を一文字に結んでしまった。母親に続き娘までが離婚してしまったのだ。彼女の幸せを考えるとこれで良かったと思う反面、わだかまりが胸の奥につかえてしまう。


「―――ね、おばちゃん。茂樹君のことだったら心配ご無用だから。僕達が引き取るからさ」


「ええ‥‥‥」


「ね、そんな気のない返事をしないでよ。僕には、おばちゃんだけが頼りなんだから」


「さあ、お役に立てるかしら。千明とは冷戦状態がずっと続いているから」

 

寂しそうな笑みを浮かべ、佐和子はテーブルに視線を落とした。離婚が事実なら千明は相当落ち込んでいるはずだが、連絡も入れてこないのは意固地になっているからだろう。いずれにしても、一人娘の離婚を他人から知らされるのは、たとえ柴であっても、気分のよいものではない。


「‥‥‥おばちゃん。二、三日したら、千明ちゃん帰ってくるよ、春休みだから。その時に、おばちゃんに話すつもりでいるんだよ、きっと」

 

佐和子の心中を察して、柴は気まずそうに頭をかいた。少々はしゃぎすぎたと反省している。


「だいたい、最初から分かっていたんだよ。千明ちゃんと坂本のお袋じゃ、うまく行くはずないってことが。あんな性悪のがみがみババアのとこで、よくこれまで我慢できたと思うよ。それに、あのマザコン息子だろ。そもそも、千明ちゃんは‥‥‥」

 

言いかけて柴は口をつぐんだ。本当は高二の夏に自分と結ばれるはずだったのに、尻込みして柴は千明を抱きそびれてしまったのだ。あの時のことを思うと、十五年経った今も、自分の不甲斐なさが悔しくて涙が出るほどなのだ。


 

忘れもしない十五年前の、七月十日の水曜日だった。期末テストが午前中で終わったので、豊岡駅へ向かうべく、高校近くの山王公園を千明と一緒に歩いていた。


「現国(現代国語)とグラマーはまあまあだったわ。でも化学が―――」

 

ぺしゃんこの革鞄を両手で抱いて嬉しそうにしゃべっていたのに、日吉神社近くに差し掛かると、急に千明の言葉が途切れてしまった。怪訝に思い、柴が立ち止まって振り向くと、千明は呆然と立ちすくんでいた。駅前近くのホテルから南進してきたタクシーには、後部座席に佐和子が乗っていて、隣の男性に寄りかかるようにもたれていた。柴には男性の肩しか見えなかったが、千明は顔を見たらしく、


「えっ! あ、―――ねぇ、全然知らない人だったわよね。公夫君、男の人の顔、見えた?」

 

急に駆け寄って来て、柴の注意を引いた。顔面が蒼白で、ショックの大きさが表れていた。


「おばさんも、おじさんと別れて随分たつんだから、大目に見てあげなよ」

 

柴が慰めても、千明はまったく上の空で、視線も定まらず宙をさまよっていた。


その日の夜だった―――思いつめた声で、千明から電話がかかってきたのは。


「‥‥‥公夫君。来月引っ越すんだから、豊岡の思い出に私をあげる。明日の午後三時、豊岡ニュー城崎第一ホテルの四一五号室へ来て」

 

用件を告げると、返事も聞かずに一方的に電話を切ってしまった。

 

柴はホテルへ行かなかった。正確には、約束の時間に行かなかったというべきだろう。随分迷ったが、結局行かないことにして、三時にホテルへ断わりの電話を入れると、


「公夫の弱虫! バカ! バカー!」

 

千明は泣きながら、受話器に何度も同じ言葉を投げつけたのだった。


「ちょっと、まっ―――」

 

今度も一方的に電話を切られてしまい、慌ててホテルへ駆けつけると、千明はすでに出た後だった。後ろ髪を引かれる思いで東京へ移ると、追い討ちをかけるように、千明と坂本の交際をクラスメートが電話で伝えてきた。柴には、悔やんでも悔やみ切れない高二の夏だった。


「‥‥‥ね、公夫君。往診、大丈夫なの」

 

沈んだ面持ちで何度もため息を吐かれると、佐和子は心配になる。遠慮がちに往診の注意を促し、彼女は柴を現実に引き戻したのだった。


「え、―――ああ、いいんだよ。マルニ堂のご隠居のとこだから。健康そのもので、いつものように将棋の相手をさせられるだけなんだよ」

 

マルニ堂というのは東山公園の西に位置する、本住寺近くの仏具店で、十二代も続く老舗だった。十一代目は四年前に息子に後を譲って、離れで楽隠居を決め込んでいた。


「そんなことより、おばちゃん。今度の日曜日、出石城跡の桜見物に行かない? もう満開なんだって」


「桜だったら城崎温泉を流れる円山川の桜が、おばちゃん、一番好きだな。そこはかとない風情が漂って、何より川沿いを歩くだけで、最高の気分を味わえるのだから。それに桜見物だったら、私なんかを誘うより、もっと若い娘さんを誘った方が楽しいでしょう。何だったら、公立病院か市立病院の看護婦さんなんかどうかしら。呼び名が変わって、看護師さんていうべきなんでしょうけど、やっぱり女性は看護婦さんの方が抵抗がないわね。私のお弟子さんに一人、気立てのよい綺麗な看護婦さんがいらっしゃるの。一度、紹介しましょうか」

 

佐和子は自宅で花を教えているので、若い娘には事欠かない。


「いいよ。いいってば。貧乏医院へ来てくれる物好きな看護師さんなんて、いっこないんだから。それに、僕はおばちゃんと行きたいんだから。昔から言うじゃない、将を射ん―――」


「もー! 私は馬なの!」

 

将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、といいかけたので、佐和子が先回りして怒った振りをして睨み付けると、


「ゴメン、ゴメン。そう怒らないでよ。大事にさせて戴きますから。―――とりあえず、お茶を入れてこよっと」

 

おどけ仕草で、柴はダイニングへ逃げ込んでしまった。まだまだ往診に出かける気はないようである。


「マルニ堂さんには、ウチにいらっしゃるって、電話を入れときますからね」

 

苦笑いを浮かべ重い腰を上げると、佐和子も応接間を出て廊下の電話台へ向かった。

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