第3話 四人目の敬藍荘住人


             

春は嫌いだ。季節の中で、一番みじめな思いをするのが春だった。小一と中一の新学期は最悪だった。クラスメートたちが上から下まで真っ新なのに、自分は近所の子供のお古だった。真理は悲しくて、入学式の間中、泣き通したのを覚えている。


中学に入るとさすがに泣くことはなかったが、思春期に入っていることもあり、心を貝のように固く閉ざすようになった。

 

家に帰ってもつまらなかった。新しい母は障害を持って生まれた弟に掛かり切りで、真理につらくあたった。自分の居場所がないので、大抵、家から歩いて30分余りの、閉鎖されたタンサン工場の敷地へ潜り込んで遊んでいた。そこに居るとなぜか体がしびれ、胸がきゅっと締め付けられる愛しさが込み上げてきて、錆ついたトタンや蒸留釜を飽かず眺めたのだった。


「あんたらも、〈ありまサイダー〉の炭酸を造ってたら、レトロなビンの中に入って、みんなに美味しいて言うてもろて、もっと生き延びられたのに」

 

忘れもしない、中一の一学期の中間テスト初日だった。白紙に近い英語と理科の答案を出し、帰りにタンサン工場へ立ち寄った。商店街で試飲用に貰った〈ありまサイダー〉が美味しかった。レトロなビンが可愛くて、返さずにカバンに隠して秘密の入り口からタンサン工場へ入った。


錆びで赤茶けた蒸留釜を見上げ、土台のレンガをなでながら、真理はなぜこのタンサン工場が好きなのかよく分かった。自分と同じなのだ。忘れ去られ、朽ち果てていく仲間たち。敷地内の廃屋やむき出しの鉄骨フレームが、この日、形のある家族として真理を受け入れてくれたのだった。

 

安息場はタンサン工場だけで、学校はイジメと蔑(さげす)みのルツボ以外の何物でもないはずだったのに、去年の夏休み前まで、真理は一日も休まなかった。教室に居ても、心は遊び慣れたタンサン工場の敷地を巡っていたので耐えられたのだ。時折、教師やクラスメートたちが自分を笑いの種にするが、真理は無視して知らんふりを決め込むことにしていた。


「秋はフォールというが、フォールには落ちるという動詞の意味もあるんだ。石田の名は千秋だからフォールの秋が付いているが、お前は落ちる心配がなくていいな」

 

零点しか取ったことがないので、英語の教師が当てこすったのだろうが、真理はこれで一つ英語の単語を覚えたのだった。

 

ただ一つの心の安息所―――そのタンサン工場が七月末に取り壊されることになり、七月十一日にウマベとセイタカアワダチソウが繁茂する割れたブロック塀の前に立つと、立入禁止の✖マークの立て札と共に工場全体に有刺鉄線が張り巡らされていた。期末テストの初日で、継母(ままはは)の目を盗んで朝にぎったおむすびをゆっくり食べるつもりが、敷地内へ入れず、真理は悲しくて有刺鉄線の前に三時間近くもたたずんでいた。魔法の国への通路を閉ざす立て札をにらみながら、ラップに包んだおむすびを食べ出すと、塩をふらなかったのに、なぜか妙にしょっぱかった。


「ねぇちゃん。さっきから涙流して、なに見てんのや」

 

制服を着た監視員が近寄ってきたので、仕方なくタンサン工場から離れ、結構な距離を猪名川の河原まで歩くと、大柄でバタくさい外人顔のクー子と出会った。


「国子っていう名前やけど、みんなはクー子って呼ぶねん。アンタもクー子って呼んでや」

 

初対面の真理に馴れ馴れしく話しかけてきた。


「ウチとこも今日から期末テストなんやけど、アホらして勉強なんかする気が起こらへんわ」

 

クー子も真理とよく似た境遇だった。違うところは、クー子の家は金持ちで、彼女が家族や学校に対して自由気ままに振舞えることだった。


「アンタとは、なんとのう気、合いそうやな。ダチ(友達)になろや」

 

二人はその日の内に親友になったが、クー子と付き合うようになって、真理の行動は自分でも驚くほど大胆になってしまった。仲間の存在は挫けそうな心を支えてくれるし、クー子が家から持ち出す金は真理の行動をどれほど大胆に広げてくれたことか。もう家出をしても、駅の構内や空き店舗の軒先で夜を明かす必要はなくなったし、男たちの乱暴やイタズラからも解放されたのだった。

 

クー子との出会いが子供からの脱却であるとすれば、皓三との出会いは真理にとって女への変身であった。こんなに優しくされたことは一度もなかったし、これほど人に頼られたことも初めての経験だった。


皓三のためなら何でもできる、いや、してやりたい! それが皓三の手なのに、真理の思い入れは増すばかりで、五つも年下なのに、いつしか姉さん女房気取りが板についてしまった。だからクー子に皓三の伝言を聞かされても、


「そんなに心配することあらへんのに。ヤーさんに見つかったら、お金返したら済むやろ。ちょっと余分に返したったらエエんや」

 

まったく動ずる気配がなかった。


「せやけど、皓ちゃんがああ言うてんやさかい、アンタもしばらく身を隠しときや。ここへ泊まってもエエし、嫌やったらお金あげるさかい、ホテルにでも泊まりや」

 

クー子に説得され、真理は渋々、皓三の指示に従うことにしたのだった。


「ここへ泊まらんと、ちょっと知り合いのとこへ行ってみるわ」

 

その日、真理は布引にあるアパートに泊まらず、武庫之荘に引き返すことに決めた。クー子がグリーンコテッジで皓三に抱かれているとき、仕方なく嫌々過ごす部屋なので出来れば泊まりたくなかった。別れ際の落ち込んだ千明の様子も気になっていた。


「ほんなら皓ちゃんの言うように、一カ月ほど店休むさかい、ママに電話しといて。ママが文句言うたら、店辞めるて言うといて。ウチを欲しい言うてる店、なんぼでもあるんやから」

 

自分を欲しがる店がいくらでもあるというのはマユつばだが、ほとんどの客が自分とクー子目当てに来ていることは分かっていた。勤め出して半年ばかりの、年齢を十八と偽る十五歳だが、数百軒のバーやスナックの存在、それに客の受けやママの態度から、真理は熟年ママとの力関係を読んでいたのだった。

 

三宮で買物をするつもりだったが、クー子がヤクザに見つからないよううるさく言うので、武庫之荘で済ませることにした。三月最後の日曜日で、春休みのこともあって、電車内は行楽帰りの親子連れで賑わっていた。昨年の今頃であれば、真理は惨めな思いで椅子に腰を下ろし、恨めしげに朗らかな笑顔に舌打ちしたであろう。

 

―――せやけど、もう去年までのウチと、今のウチは違うんや。

 

背筋を伸ばし目線を上げると、真理は挑むようにゆっくりと車内を見回したのだった。

 

中学校では男子に相手にもされなかったが、自分の容貌が劣っているからではなく、貧しくて成績がビリだったからだと分かった。皓三が可愛いと言ってくれるし、スナックの客たちも美人だと誉めてくれる。自分がこれまで見た中で一番いい女だと思う千明まで、自分のことを可愛いと言ってくれたのだ。どんな賞賛より、真理は千明の一言が嬉しかった。

 

暖冬の影響だろう。線路沿いの桜並木が満開で、駅のホームまで舞い落ちたピンクの花弁で飾られていた。改札を出て腕時計に目を落とすと、三時二十三分。

 

―――千明さんに、すき焼きでも作ったろかな。

 

市場への道を歩きながら、真理は鼻歌交じりだった。千明が好きで、彼女のお節介を焼きたくて仕方がないのだ。自分より十七歳上だが、同い年の親友に巡り会えたような気がする。不安定な精神状態に陥っているのが分かるので、助けてあげたいという意識が年齢差を忘れさせるのだろうか。


「おばちゃん。これ、頼むわ。一万円で足りるやろ」

 

市場の精肉店で、百グラム千円の肉を五百グラムも注文する。豆腐にしらたき、ネギに三ツ葉、春菊に椎茸、麩と卵を買って真理は市場の西出口を出た。バッグに着替えを詰め込んできたのは、千明の承諾が得られればしばらく泊めてもらうつもりなのだ。


酒店で缶ビールとカップ酒、ワインにウオッカまで買い、抱え切れないほどの荷物を抱いてアパートに着く。足下にバックを下ろし、ドアをノックしようとすると、内から千明の嗚咽が漏れてくる。


「‥‥‥」

 

しばらく三号室の前にたたずんでいたが、ノックをせずに真理は静かにドアを開けた。千明はベッドにもたれ、顔を蒲団に埋めて体を振るわせ泣いていた。真理がもじもじと気まずそうに荷物を運び込むと、その小さな音で千明が顔を上げた。


「あっ! 真理ちゃん‥‥‥。―――ううん、何でもないのよ。大丈夫だから。本当に大丈夫だから」

 

両手の指先で涙をぬぐい、必死にその場を取り繕おうとする。無理に作った涙の瞳と笑顔が悲しかった。


「千明さん、悲しいときは泣いたらエエんや。ウチのことやったら、気にせんといて。ウチも皓ちゃんに会うまでは、いっつも心の中で泣いてたんやさかい」

 

六畳間へ歩いて、真理が優しく慰めると、


「―――分かったわ。でも、もういいの。本当にもういいんだから」

 

千明はようやく明るい笑顔を浮かべ、台所へ立ち上がった。


「私が心配だったから、また来てくれたの?」


「うん、それもあるけど、―――皓ちゃん、昨日のヤーさんのこと怖がってしもて、しばらく店休んで隠れとき言うねん。せやから、ちょっと泊めてもらえたらなぁ思て。ウチ、結構役に立つねんで。炊事も洗濯もうまいし、もちろん宿泊費も払うさかい」

 

真理は、涙を拭いて部屋へ戻ってきた千明に軽口をたたいて笑わせる。


「子供をコキ使ったり、お金を巻き上げたりは出来ないけど、泊まるのはOKよ」

 

千明も軽口で応じた。


「子供ちゃうて、―――十八やいうたら」


「ハイ、ハイ。分かりましたよ」

 

苦笑しながらテーブルに腰を下ろすと、千明は二人分の紅茶を入れる。


「な、千明さん。ウチ、千明さんのこと好きになったみたいや。せやから千明さんの近くで住みたいねん。アパートの空いた部屋、一カ月ほど借りられへんやろか」


「さあ、どうかしら。管理人さんはとっくに出て行っちゃったし、家主さんは誰だか分かんないから。香川さんに聞いといたげるわ。でも、少しの間だったら、ここへ泊まってもいいわよ」

  

解体されるまで一緒に暮らしてもいいわよ、と言おうとして千明はやめた。春休みが終わると職業がばれてしまう。教師をなぜか異常なまでに嫌っているが、学年が始まる四月八日までに打ち明ける自信はまったくなかった。


「でも真理ちゃんこそ、私と違う異性趣味ないわよね。迫ったりしないでよ」

 

冗談なのか本気なのか、言ってる本人も分からなかった。昨夜、銭湯で乳房をつかみながら、真理はきっちり乳首も摘んでいた。悲鳴でごまかしたが、ビクン! と体が反応してしまった。一年以上も夫から遠ざかっているのだ。無意識の内に手が体を愛撫しているのに気づいて、夜中に何度目を覚ましたか知れなかった。


「分かってるって、迫ったりせぇへんから。それにウチ、千明さんと違うて、皓ちゃんに週三回、ちゃんと抱いてもろてるさかい、飢えてないもん」

 

台所からにやっと自慢顔を覗かせ、真理は憎まれ口をたたいたが、


「せやけど一カ月ほど皓ちゃん帰って来ぇへんから、我慢できるやろか」

 

自信なさそうに眉をひそめ、冷蔵庫にネギと春菊を仕舞い込んだ。

 

その夜、敬藍荘三号室から午前二時近くまで明るい笑い声が絶えなかった。


「今日だけよ、こんな遅くまで話をするのは。倉岡さんがいたら叱られちゃうから」

 

千明は何度も真理に念を押すが、その都度、


「かまへん、かまへん。怒ってきたら、ウチが謝ったるさかい。それにあの柔道の先生、千明さんにホンマにホの字やから、絶対、怒って来ぇへんて」

 

真理は朗らかに笑い飛ばすのだった。


「もうっ! ‥‥‥」

 

偶然、三宮の高架下でボロ愛車に迷い込んできた―――小悪魔なのかエンゼルなのか分からないが、千明はなぜか真理が気に入って頼もしく感じられて仕方なかった。


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