第2話 救い難き男
真理が「皓ちゃん」と呼ぶ山乃瀬皓三は、姫路の資産農家の三男坊で、高一の一学期までは両親の敷いたレールに順調といえないまでもかろうじて乗っかっていた。が、厳しい進学校の手綱が緩む一学期の終業式―――まさにその当日に、大阪南部の全寮制高校を飛び出してしまった。
最初の二年間は、両親も息子の転校先を模索し将来の展望に腐心していたが、親の財産を当てにするだけの―――向上心のかけらもない本性を見抜くと、息子を疎んじ邪魔者扱いするようになった。三男三女の親である。意に添わない不良息子を切り捨てるのに然したる心の葛藤もなかった。
こうなるとお定まりのコースで、家出をしては小遣いをせびりに帰るという生活が一年ほど続いたが、親から金が得られないと分かると、神戸へ出て三宮界隈をたむろすることになる。置き引き、かっぱらい、ひったくりがもっぱらの収入源だった。
ヤクザの使い走りにならなかったのは、根っからの臆病と、楽をして金を稼ぎたいという怠け癖のせいであった。だから、狙う相手はいつも老人だった。歩行が困難なほどの弱い老人から奪うのだ。目星をつけた一人暮らしの老婆を慎重にさりげなく尾行し、一カ月後に手押しキャリヤーから七十六万円入りのバッグをひったくったこともあった。
その山乃瀬がかっぱらいや置き引きから足を洗ったのは全く単純な動機からだったが、突き詰めれば臆病と怠惰な性格に行き着くものだった。二十歳になった七月三日の朝刊に、二十歳の同業者の逮捕記事が掲載されたのである。場所は東京だったが、老人専門の手口といい、家庭環境から成育歴までそっくりといってよいほど自分によく似ていた。
三面の大きな記事と気弱がにじみ出た逮捕者の顔写真を見つめていると、山乃瀬は背筋に悪寒が走って、右手の先のコーヒーカップがカタカタと震え出した。捕まれば、この男のように世間のさらし者になるのだ。
バターのたっぷり塗られたトーストをかじりながら、山乃瀬は自分が直接手を下す仕事は避けようとの、そんな思い付きが急に頭に浮かんだ。初めて入った新神戸駅近くの喫茶店で、エラの張った中年女店主の迷惑顔をよそに思考をめぐらしていると、ぼんやりとではあるが得られた結論は、女を使った巧妙で安全な仕事に携わることであった。
十九歳を機に移った新居の環境が、この不純な動機と無縁ではなかった。山乃瀬は昨年の六月に、摩耶山の山腹にあるグリーンコテッジという学生用の下宿に引っ越してきた。近くに国立大学の寮もあり、下宿で暮らしていると、そこの学生と寸分違わぬ生活が身に付いてしまったのだ。
徹マン、合コン、ダンパ(ダンスパーティ)の毎日を送りながら、彼らと自分は一体どこが違うのだろう。どこも違いはしない、と思うようになった。
―――俺も大学生ということにしよう。
酒と女と麻雀に明け暮れる一部学生たちを見ていると、山乃瀬は身分を偽ることに何の罪悪感も湧かなかった。
―――俺にぴったりで、理想的な生き方やな‥‥‥。
学生になることで、日常がこんなにも変わってしまうものなのか。置き引きやひったくりの日々とは気分が雲泥の差であった。上品な顔立ち、巧みな話術それにスリムな体形から、山乃瀬をニセ学生と疑う者は誰もいなかった。
大学生になったといってもニセなので、周りの学生たちのように実家から生活費が送られてくることも、奨学金が振り込まれることもなく、自分で生活費を稼がねばならなかった。手元にひったくりや置き引きで得た百万近い金があったので、これを元手に麻雀での荒稼ぎを企んだが、二ヶ月もしない内に学生たちにすっからかんに巻き上げられてしまった。苛酷な受験競争に勝ち残ってきただけあって、知能も体力も山乃瀬より数段上であったのだ。
仕方なく、当座の生活費を得るために神戸港で慣れない荷役のバイトをしているとき、家出少女のクー子と出会った。制服のままで家を飛び出していたので下宿へ連れて帰り、服を買い与えてやると感激してしまい、自分が働くから、皓三にバイトを辞めて勉強に励んでくれと言い出した。
これだ! そう、これだったんだ! と思った。優しさに飢えた者にとことん尽くす―――振りをし、自分の弱さをアピールして女の母性本能をくすぐるのだ。女を繋ぎ止めるヒモの手管が、クー子の一言で皓三は目からうろこが剥がれ落ちる思いであった。
好都合なことに、クー子は間もなくマリーを連れてきた。皓三の仕事は、ひたすら哀れな苦学生を演ずるだけで十分だった。貢いだ金が湯水のように使われているとも知らないで、クー子とマリーは競い合って皓三のために金を稼いだのである。
酔い客から売春料を騙し取ろうと言い出したのも、クー子だった。マリーは最初、乗り気でなかったのに、クー子が何度も成功を収めると、自分もやってみると言い出した。
「マリー、僕がバイトして何とかするさかい、そんな危ないことは止めといてぇな」
皓三にとって、マリーに決断を促すくらい造作ないことなのだ。
「なに言うてんねん、皓ちゃん。丈夫でないのに力仕事なんか続けてたら、皓ちゃんまで病気になってしまうやろ。そんなことになったら、お父さんの治療費どころか、皓ちゃんの入院費まで要るやんか。エエて、ウチにまかしとき。クー子も大丈夫や言うてるし、皓ちゃんは酔っ払いのスケベェなおっさんに声かけてくれるだけでエエんや。何も気にすることあらへん」
思い通りの言葉を引き出して、皓三はマリーとの仕事に取りかかったのだが、声をかけた相手が悪かった。企業恐喝と詐欺罪でのムショ暮らしが終わったばかりのインテリヤクザ北奈賀で、彼は出所後の初仕事にマリーを選んだのだ。
ヤクザの常套で、自分の女にして金を貢がせようという魂胆であった。北奈賀の企みを行き付けのスナックのホステスから聞かされ、皓三は真っ青になってしまった。
「どないしたん? 皓ちゃん、えらい震えてしもて。まさか、その女の子と組んでんのは、皓ちゃんちゃうやろね」
「な、な、何アホなこと言うてんねん。そ、そ、そんなこと、俺がする訳ないやろ。け、けったいなこと言わんといてや。か、か、勘定して。か、帰るわ」
釣りも貰わずほうほうの体で店を出て、タクシーに飛び乗りグリーンコテッジへ逃げ帰った。震える手でドアチェーンを掛けたが、体の震えは容易に収まらなかった。自分とマリーの顔は知られているので、ここにいるとすぐ居場所を突き止められ捕まってしまう。相手は土地勘と情報網に長けたヤクザなのだ。
「クー子。そんな訳やから、マリーにはここへ来んように言うといてや。マリーのスマホ、今月分、口座から落ちへんかったんかして、つながらへんねん。僕もしばらくの間、実家の父のところへ帰ってるさかい。―――うん、ほとぼりが冷めたら帰ってくるから。―――うん、分かってる。ちゃんと勉強しとくさかい、心配せんといて。ほならな」
クー子に伝言を頼むと、皓三はその日の内に荷物をまとめ、付き合っている十九歳の女子大生と九州へ逃避旅行に出たのだった。
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