11
連絡もなしに急に実家に帰ったから、両親はとても驚いていた。当然理由を聞かれたので、講義が教授の都合でしばらくオンラインになったと適当な嘘をついた。
僕は一晩を実家で眠って過ごし、翌日バスに乗って隣街で降りた。静かに雪が降り、世界が真白に染まっていた。全て繋がっているのだと思った。
僕は空に向かって息を吐く。頭の中は空っぽだった。とにかく歩いて、町外れにある墓地に向かった。
これまでに行ったことは一度もなかった。
意図的に、避けていたからだ。
思っていたよりそこは小さな墓地だった。僕以外には誰もいなかった。少し歩いて、すぐに探していた墓を見つけた。
作法も何もわからなかった。だから墓前の前で僕はただ立ち尽くしていた。
いや、違う。そんなのは言い訳で、僕はもっと早くにここを訪れなければいけなかったという罪悪感に、打ちのめされているだけだった。
「ごめん、風香」
今更だった。
風香は許してくれないだろう。
僕は逃げるように、墓地を後にした。
その足で隠れ家に向かった。長い階段に息が切れる。なんとか登り切って、僕は深呼吸する。二本の大きな木と、根元にベンチが一つ。当時となんら変わらない光景が広がっていた。
僕は雪の積もったベンチに座った。
ここは、僕たちの隠れ家だった。
僕と風香の隠れ家ではなかった。
森下と今思い返せば身悶えするような会話をしたり、筒井の悩みを聞いたことも、みんなで花火をしたこともあった。
僕は一人ではなく、風香も一人ではなかった。
僕たちは二人きりではなかった。
ここは、ただの思い出の場所だ。
どこにでもある、誰しもが持っている、記憶の箱だった。
その後も僕はひたすらに街を練り歩いた。
高校、本屋、カラオケ、カフェ、公園、ありふれた記憶を、けれど何よりも大切な思い出たちを、実際に巡った。
いつまでも、雪は降り続けていた。
※
わからなくなんてなかった。
初めから僕は全部分かった上で、全てに目を瞑っていた。
凛がどうしてあの日、世界から消えようとしたのか。
親や友人たちや日向から一斉に連絡がきたのか。
あの日、たこ焼きパーティーをした日は。
僕たちが最高の時間を過ごしたあの日は。
凛が死のうした日は。
風香の命日だ。
風香が事故に遭い、死んだ日だ。
だから凛はあの日を選んだのだろう。
だからみんなは僕に連絡をくれたのだろう。
凛がそうしたように。
僕がそうしないように。
僕はずっと独りなどではなかった。
※
橘風香は、底抜けに明るく優しい人だった。
勉強に部活に励み、学校行事を楽しみ、たくさんの友人に囲まれて青春を送る、普通の女子高生だった。
僕のとても大切な友人だった。
僕の大好きな人だった。
※
風香の葬儀の日から、眠ることができなくなった。食事もろくに食べられなくなった。
ほんのわずかな気力で学校に行っても、頭の中ではずっと風香との思い出が巡り、涙をこらえているとすぐに一日が終わる。そんな日々だった。
僕と風香の仲が良いということを知っていた森下たちは、いやそれどころか、僕の本心に気がついていたみんなは、僕を本気で心配してくれた。
彼らも悲しいはずなのに、沈む僕を助けようと必死に手を差し伸べてくれた。
母や父も何も言わずに見守ってくれた。
しかし、どれだけ彼らの優しさがあろうとも、傷がふさがってくれることはなかった。ふさがるわけがないのだと、ふさがっていはいけないとさえ、思っていた。
ある夜、僕は購入した黒いノートを前にしていた。
僕はこの黒いノートに風香との思い出を忘れないように書き記していこうと、初めはただそういう思いだった。
でも気が付いたとき、黒いノートの中に本当の風香はいなかった。
僕はすべてに目を瞑って永遠に終わらない世界を作り出そうした。
僕と風香だけの、特別な世界を。
特別な彼女と、その唯一の理解者である僕の特別な物語を。
※
凛が退院することになったと、野上さんから連絡が来た。僕に迎えに来て欲しそうだった。最初からそのつもりだったので僕は支度をして、リュックに凛のノートと僕のノートを入れて、家を出た。
本人の強い希望での退院、それを聞いた時点で僕は凛がどうしようとしているのか、予感があった。
病院の入り口に佇む凛は、僕に見向きもせずただあの虚な目で黒と白の境界あたりを見つめているように映った。
「退院できてよかったね。さあ、帰ろうか」
僕は隣にならび、声をかける。反応はなかった。凛はおもむろにふらふらと歩き出した。僕は黙って後を追いかけた。
やがて凛は病院へと戻ってきた。どうするのかと思っていると、中へと入っていった。僕はなおも追いかける。人目を気にする様子もなくひたすらに階段を登っていった。
僕は自分の考えに徐々に確信を持った。
凛は屋上へと繋がる扉を、ゆっくりと全身を使って開いた。
そして無数の星の下に立った。
「・・・・・・こんなことだろうと思ったよ」
僕は、ベンチ一つ分くらい間を空け、星の下の小さな背中に言った。
「・・・・・・樹君」
対岸から聞こえてくるようだった。
「他人行儀だね。このノートの中のような君はどこにもいないんだね」
僕は彼女のノートを取り出す。
「読んだの。どうだった?」
無機質な声。誰と話しているのかわからなくなる。
「・・・・・・交換日記ってやつだろ。これは。僕が見てもね」
「・・・・・・風香がやろうって言ってくれてさ。私、携帯持ってなかったから。嬉しかったな」
「僕の名前も書かれてた。風香が書いた最後の日に」
「うん。それで私は君に会いに行ったんだ」
凛は星空を見上げたまま静かに語る。
「それで・・・・・・君はどうしてついてくるの? 私はもう終わりにしたいんだ」
「・・・・・・懺悔、かな」
「懺悔?」
「うん。君に、そして、風香にも」
「どういうこと」
僕は息をゆっくりと吸った。
「・・・・・・色々な特別な物語に、僕は僕と風香を当てはめた。色褪せた小説、やけに心に残っている演劇、映画、僕にとって好ましく都合の良いところだけを抜き出して」
醜い自分を、残酷な現実を認めるのは、全身を引き裂かれるかのように辛い。僕は何度も吐きそうになる。
「・・・・・・バナナオレも、5月の連休明けも、僕の臆病なパフォーマンスにすぎないんだよ」
「なにを、言っているの?」
凛は振り返った。真っ白な顔だった。
「僕はね、風香は特別だと思いたかったんだよ」
僕は自分の黒いノートを取り出す。
「それ、私のと同じ・・・・・・?」
僕は頷いた。
「橘風香はこの世界にいる人間たちとは違う、理解不能で神秘的で、別の世界からやってきたような、物語の中の人のような、特別な存在だと思い込もうとした」
「風香が、特別?」
「そう信じることでしか、僕は生きていられなかった」
人は死ぬ。
それは絶対的な世界のシステム。
風香も僕も決してそこから逃れることはできない。
僕は痛いくらいに拳を握りしめていた。
「・・・・・・風香が、死んでしまった。すべての人と同じく。毎日耳にするような一つの事故で死んでしまった。ただ意味もなく死んでしまっただなんて、僕は受け入れるわけにはいかなかった」
「・・・・・・樹」
頬に熱い感覚があった。
喉の奥が締め付けられ、声が出しにくい。
けれども、立ち止まるわけにはいかない。
許されなくとも僕は曝け出すしかない。
醜い僕を、弱い僕を。そうすることでしか。
「だって風香の笑顔は明らかにほかの人と違うのに。風香の言葉は何よりも僕の心を震わせるのに。風香と過ごす時間は何よりも尊い時間だったのに。僕にたくさんの特別をくれる風香が、特別な風香が、普通に死ぬなんて現実があってたまるものか」
風香の無邪気な笑顔が僕の頭をよぎる。
「だから僕は否定することにした。何事にも例外はあるのだと。彼女は特別だから、この世界から消えただけなんだと思うことにした。目を背けるために、思い出を書き換えることで、僕は生きていた」
凛は何も言わない。ただ、僕を見ていた。
「君が突然現れたとき、僕は肯定された気がしていたんだ。やはり風香は特別で、この世界に影響を及ぼし続けているんだと思った。僕は君をまるで預言者みたいに、ただ僕の現実逃避を続けるための存在として、利用していた」
僕は頭を下げる。そうするしかなかった。
「ごめん。謝っても許されないだろうけど、謝らせてほしい」
静寂がその場を支配した。やがて、僕のものではない呼吸の音が聞こえた。
「謝る必要はないよ。私だって、同じようなものだったから」
「・・・・・・同じ?」
僕は顔を上げ、再び彼女と目を合わせる。
「私だって君を、個人的な決意を達成するための相手としか思ってなかった。風香との約束を果たすっていう、勝手な思い」
凛は目を伏せた。
「・・・・・・風香が死んでからは、私もずっと死のうと思ってた。でもなかなか、この世に未練なんてないはずなのに踏み切れなかった。それで、風香との日記を読み返してるうちに、君のことを思い出した」
僕は二人の交換日記を頭の中で捲る。お節介で、人と人との繋がりを大切にする風香の残した、僕と凛を出会わせた言葉を思い浮かべる。
「仲良くしほしいって。あの子からのお願い。だから、私ができるせめてもの恩返しのつもりで、そのお願いを一年だけかなえて死ぬことに決めた。それなら死ねると思った」
「そう、だったの」
「私には風香しかいなかった。生まれてから一度も私のことを見てくれる人はいなかった。そんな私と、初めてちゃんと関わりを持ってくれた人が風香だった」
僕はこの一年の違和感の正体を知った。
彼女の経験の乏しさや、知らないことの多さ。
対人関係での不器用ぶり。
入院した時に、会いにこなかった凛の両親。
僕は彼女の苦しみの一端に触れることができたのかもしれない。
「さっき言ったよね。風香は特別をくれたって。でもね、私は風香に、普通をもらったんだ」
「普通・・・・・・」
「普通の人として、普通の女の子として、普通の日々を、風香はくれた。ある意味では、特別な人と言えるけれど。わたしは、あの子といるときだけは、普通の人間でいられたの」
僕は思い出す。
初めてお酒を飲んだ時のことを。
凛のへたくそな表情を。
真っ白な部屋を。
病室で一人佇んでいた時のことを。
「凛」
「風香がいなくなって、私はまた世界からずれた、欠けた人間に戻った」
僕は心の底から自分を呪った。
僕は無知で、愚かだった。
僕は自分のことしか考えていなかったんだ。
「・・・・・・罪深いねつくづく」
「・・・・・・え?」
「僕は、人に変だと言われるのがうれしかった。」
凛の瞼が広がる。
「周りと違う。つまりは、特別。自分はそうなんだと思いたかった」
風香だけが特別であれば良かった。
もし、僕がただ現実から逃れたいだけならば、あの虚構に僕は必要ではなかった。
でも僕はずっと。ずっと心の奥底に醜い欲望を持っていた。
「特別に、なりたかった」
心底理解ができないというように、凛は僕を凝視している。
「特別な彼女を唯一理解できる、僕もまた特別なのだと思いたかった。周りとは違うのだと信じたかった。風香の死に直面した絶望のせいだけじゃなくて、僕は利己的な願望で、本当に大切だった人を、人達を歪めたんだよ」
「樹」
「きっと、風香は怒ってる。逃げ続けて、逃げ続けて。本当の明るくまぶしく輝いていた光から目を背け続けたことを」
どこまでも懺悔は虚しく、僕はただ自分の心を軽くするために誰かに聞いて欲しかったのではないかという新たな罪悪感が生まれてくる。
全てはまだ、僕の愚かな妄想の内にあるのではないか。
どうしたら、愚かな僕は罪に向き合えるのだろう。
償うにはどうした良いのだろう。
「なら、私も、だね」
わずかに熱を帯びたような声がする。
「私も白状する」
「君も? どういう、こと?」
凛は頷く。
「私はね、ずっと風香になりたかったんだよ」
風香になりたい。
僕には欠片ほどもなかった願望に言葉を失った。
「ずっと羨ましかった。誰からも愛されて、たくさん友達がいて、好きな人がいて、素直に笑って、楽しいこと嬉しいことを知っているあの子が。もし風香みたいになれたら、なんて素晴らしいんだろうと思ってた」
風が吹く。誰かが意図的に吹かせたように思える。
「私は君を利用して、風香ごっこをしたかったんだよ」
凛は嘲るように笑った。
「記憶に燦然と輝く少女。その表情を真似して、話し方を真似して、風香みたいな女の子を演じることを楽しんでいた。溶け込むように、あの子の椅子に座ろうと、醜い願望を持っていた」
凛は再び笑う。やり場のない思いに苦しめられた人間の、最後の笑顔だった。
「・・・・・・時々、似てると、思ってたよ」
また、風が吹く。
「でも違う。確かに、残り香のような、懐かしさを覚えた。でも、絶対にぬぐい切れない違和感が訴えていた。僕の頭も心もはっきりと、君が風香じゃないと理解していた。君は、風香じゃない」
凛は悲しげに俯いた。
「結局、そうなんだよね。私なんかが、あの子になることはできない。たった一年でさえ、ううん。一瞬だって」
凛は閉口し、また僕に背を向けた。
足を数歩踏み出し、屋上の淵に立った。
「・・・・・・死ぬの?」
闇へと向かおうとする小さな背に、僕は問う。
「・・・・・・もう十分だと思うから」
僕は凛の元へと向かう。
隣に並んで街を見下ろす。その高さに思わず息を呑んだ。
「・・・・・・凛は死にたいの?」
「・・・・・・そう言ったでしょ」
「違うよ。まだ、死にたいのかって聞いてるんだよ」
「・・・・・・意味わかんない」
僕も死が償いになるのならと、少しは思う。僕たちは今、すべての鎧を脱ぎ捨てて己の罪だけ裸身に背負って、荒野に投げ出された。それはあまりに辛いことだ。
「凛は、僕に死んで欲しい?」
「・・・・・・は? 何言ってるの? 樹は、死んじゃだめだよ」
「どうして?」
「確かに風香にひどいことをしたっていうのはあるかもしれない。でもね、君には君を思うたくさんの人がいる。君はこの世界で生きられる。これからがある。君が死んだら、悲しむ人がいる」
「・・・・・・そうだね。僕もきっとそうだと思う」
「だったら・・・・・・」
「そしてそれは、君にも言えることだろ」
僕は隣の、苦しそうな凛の顔を見る。
凛も僕の目線を受け止めた。
「違うよ! 私には」
感情の発露に、僕は安堵を覚える。
「僕は君に死んでほしくない」
凛は困惑した顔で僕を見つめている。
「僕だけじゃない。理恵子さんと真さん、白木さんも。君が死んだら悲しむ人が、確かにいる」
「違う・・・・・・違うんだってば!」
凛は叫んだ。
「だって私は、空っぽなんだもん! みんなが笑って接してくれたのは、風香のふりをした私だもん!」
「・・・・・・君自身も言ったでしょ。君は風香じゃない。風香にはなれないよ。全然違う。君は、鈴野凛。へったくそな感情表現で、お酒のペース配分が下手で、無計画で、でも勉強ができて、僕にはない価値観の持ち主で、パフェが好きで、たこ焼きを作るのが結構上手くて、とても繊細な、この世に確かに存在している僕にとって普通に特別な、一人の人間だ」
「そんなのっ・・・・・・だって・・・・・・私はっ、怖いんだよ」
凛の声が涙に震える。
「君が死んだら、僕も今度こそ死んでしまうよ」
「え・・・・・・?」
「君が今、世界に一人取り残されたと思い、その孤独と恐怖から逃れるために死のうとしているのと、全く同じ選択を僕もするに違いないよ」
「そんなのっ・・・・・・」
「鬱陶しいよね。ほんと、人との関係なんて」
僕は不思議と落ち着きを取り戻していた。ゆっくりと言葉を選び、考えて、話そうと思った。
「・・・・・・改めて聞くけど。君は、僕が今この辛さから逃れるために死ぬと言ったら、肯定してくれる?」
凛は泣きながら何度も首を横にぶんぶんと振った。とても嬉しかった。
「君の感情と全く同じものを、僕も抱いてる。確かに僕たちの関係は、まやかしに過ぎなかったのかもしれない。けれど、僕にとって、君と過ごしたこの一年はとても大切なものだ。これからもずっと仲良くしていたいと思えるような、素敵な時間だった」
凛は頷いてくれた。僕も涙が溢れた。
「私もね、本当に本当に楽しかった。心の中でずっと申し訳ないって思いながら、でも、嘘だったとしても樹と過ごすのが、風香といた時みたいに大切だった。でもやっぱり、自分が信じられなくて、怖くて、だから」
僕は何度も頷く。星空に目を向けると、風香が笑っているような気がした。
「ねえ、凛」
僕の普通に特別な、とても大切な友人
「よければ、これからも一緒に生きてくれないかな。みんなの、風香のためにも。そして君と僕のためにも」
雲に吞まれていた月が、ようやく見えた。
満月だった。
彼女は大声をあげて泣いた。
そこには確かに、鈴野凛がいた。
僕たちは闇の淵で互いに抱きしめあって、いつまでも泣いていた。
風香のことを、互いのことを想いながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます