10

 携帯の振動で、僕は目を覚ました。


 嫌な予感がして、慌てて布団をはねのけてうつぶせになり、頭上の携帯を手にとる。


 全く予想外なことに電話は、母からだった。


 少し迷って僕は出た。用件は何のことはない、年末いつ帰ってくるんだという気が早い話と、体調に異常はないかとか、不足しているものはないかとか聞かれたくらいだった。あてつけのようなタイミングに、どこにぶつけていいのかわからない苛立ちを覚えた。


 予想外はまだ続いた。


 母との電話を終了してから十数分後、今度は筒井から電話がかかってきた。何事かと、僕はすぐに応答する。


「珍しいな。どうした?」


「あ、出た。元気? 樹」


「元気って・・・・・・ん? ほかにも誰かいる?」


「えっへへー、正解!」


「おーす。生きてっかー」


「ちょっと森下君。あ、笠原だよー」


 浅井、森下、笠原の順で声がした。そこに筒井とは、珍しいメンバーだと思った。


「久しぶり。どうしたのみんな揃って」


「話せば長くなるんだけど、偶然会ったから今みんなでご飯食べてるんだ」


「焼き肉だぜー、羨ましいだろ」


 正直食欲なんてこれっぽっちもなかったけれど、僕は「うん」と返す。


「樹、元気?」


 なにやらじゃれついているのか、騒がしい浅井と森下の声の間を縫うように、笠原が言った。


「ん・・・・・・いつも通り」


 嘘も方便。


「なら、いいんだけどね」


「今日はなにしてたの、成瀬」


 筒井の優しい声がする。ただ、そう聞こえただけかもしれないけど。


「んー、寝てた」


「おーい、だらけてんなあ」


 ちゃんと聞いていたらしい森下が言った。


「まあね」


「ちゃんと栄養あるもん食べなよー」


「浅井は相変わらずお母さんだね」


 僕は少しだけ笑った。結局、ただノリで電話をかけてきたのか、食レポをするといいだした森下に少し付き合って、成人式の話なんかをして、電話を切った。


「なんだって、みんな・・・・・・」


 困惑していると今度は、日向から電話が来た。だんだんと恐ろしくなってくる。


 けど底抜けにいい奴である後輩を無視をするのも気が引けたので、僕はまたまた電話に出る。


「どうしたお前まで」


「へ? 俺までって、なんすか?」


 日向は嘘をつくのが苦手なので、きっと、本当にわけがわからないんだろう。そのはずだ。ドッキリを仕掛けるにしても、僕の母まで巻き込むなんて考えられない。ほとんどあり得ない偶然が、どうしてかこんなタイミングで起こったのだろう。


「・・・・・・悪い、こっちの話。で、なにかあったか」


「え、ああー、そのー」


 珍しく歯切れが悪い。何か難しい頼み事でもされるのかと、僕は構える。


「先輩・・・・・・大丈夫かなって」


「大丈夫って・・・・・・」


 まさか凛のことを知っているわけもない。


 大丈夫かというその問いに、僕は他の心当たりも、ない。


「いやっ、いいんす! 大丈夫っす! もう、大丈夫そうなんで」


「なんだなんだ、何か変だぞ」


「いや、あのー、明日とかカラオケ行かないっすか」


 露骨に話題を変えた。


「ごめん。明日は無理だ」


「あ、そっすか。じゃ、じゃあ一週間後とか!」


「考えとく」


 僕は凛の顔を思い浮かべながら、答えた。


「あざっす、それじゃ!」


「あ、おい」


 逃げるように、電話を切られた。いったい何だったのかと、僕は再びベッドに仰向けになる。さすがにもう、電話はかかってこなかった。



 ※



 また眠ってしまっていたようだった。なんだか時間が飛んでしまったみたいに、あっという間に一日に幕がおりようとしていた。昨夜から続く異常のせいか、頭痛が止まず、体は鉛のように重い。動けないけれど、ずっと寝ていたせいで眠気がなくなっており、少しだけお腹もすいていた。


 病院からの連絡はない。僕は無理やり起き上がって、シャワーを浴びて、服を着替え、携帯と鍵と財布と、黒いノートをリュックに入れて、家を出た。


 喫茶店で、ナポリタンを食べた。食べ始めると不思議と食欲がわいてきて、あっという間に平らげた。やっぱり僕は薄情なのかもしれないと自己嫌悪に陥りながら、黒いノートを眺めていると、たばこをふかした理恵子さんが、いつものように勝手に目の前に座った。


「なんだか、一人のところを見るのって久しぶりな気がするね」


「そう、ですかね」


「うん。もうすっかり凛ちゃんとセットだからさ。今日は凛ちゃんどうしたの?」


「・・・・・・さあ」


 上手いごまかし方が思いつかなかった。そもそも、ごまかす必要があるのかどうかも、よくわからない。きっと理恵子さんはそんな僕の態度にただならぬものを感じたに違いない。


「何読んでるの? 日記?」


 理恵子さんの視線は、黒いノートの表紙に注がれている。


「日記ではないですね」


「ふーん? 何が書いてるの?」


「よくわかりません。僕のもののようで、僕のものじゃないんですよ。これ」


「なんじゃそりゃ。答えてくれるんなら、わかるように言ってよね」


「すみません」


 僕は申し訳なくなって笑う。


「やれやれ。でもそのノート、なーんか見覚えあるんだよね」


 心臓が跳ねた。


「え?」


「あ、わかった。凛ちゃんだ」


「凛が、どうしたんです」


「おんなじようなの持ってたんだよ。君のそれと、おんなじようなノート」


 なんだ、と僕は肩を落とす。理恵子さんは全く悪くないんだけど。


「大事そうに眺めててさ。何が書いてあるのって聞いたらね、友達との思い出って言ってたな」


 僕は反射的に、顔を上げた。勢いに驚いたのか、理恵子さんはたばこを落としそうになっていた。


「な、どうしたの。目、血走ってるけど」


「あ、いえ。あの、本当に、そう言ってたんですか」


「え、う、うん」


「これと似たノートを、見て」


「そ、そうだよ」


 理恵子さんが肯定したその時、僕の中に一つ、大きな決意が芽生えた。


 僕はやはり確かめる必要があるらしい。


 彼女の行動、そのすべての、意味を。


 他ならぬ、鈴野凛自身に。



 ※



 病室の前で、僕は立ち尽くす。何度も表札を見て、鈴野凛と描かれていることを確認する。


 凛が目覚めたと、昨晩連絡がきた。搬送されてから三日が経っていた。僕は講義なんてそっちのけで、面会時間に合わせて病院を訪れた。


 凛の状態は、体調はだいぶ良くなったものの、食事もろくに摂らず、ずっと無表情に外を眺めているのだと看護師さんが言っていた。


 僕はこぶしを軽く握って、手の甲を扉に向ける。手と扉の間隙に、分厚い壁があるようだった。僕は息を思い切り吸って、吐き出すと同時に、二度扉をたたく。室内から返答はない。そうだろうなと思っていた。


 僕は、扉を静かに開いた。


 室内は、何もかもが真っ白だった。彼女の部屋がそうであったように。天井も、壁も、ベッドも。


 そのベッドの上に佇む、痩身の少女も。


 何もかもが、真っ白だった。


「・・・・・・凛?」


 僕は自分の目に自信が持てず、尋ねるように言った。真っ白な痩身の少女は、窓の外へと顔を向けたまま、微動だにしない。僕は一歩、また一歩と、彼女に近づいていく。そして、見舞客用の丸椅子に座った。


「・・・・・・見舞いの果物とか花とか、忘れた」


 とてもゆっくりと、凛は瞬きをする。その動きを目にしても、生命があるのか疑いたくなるほどに、本来備わっているはずの力のようなものが明らかに欠落していた。


「怒ってる? でも、手土産を買う余裕もなかったんだよ、これでも」


 僕の言葉は発したそばから灰になっていく。彼女には届かず、風に吹かれ、消え去ってしまう。


「・・・・・・君に、教えてほしいことがあるんだ」


 そう、余計な前置きはいらない。


 わかっている。 


「まず、どうしてこんなことをしたのか。そして」


 自然、体に力がこもる。


「黒いノートのこと」


 僕がそう発した時、本当に微かに、彼女の瞼が動いたように見えた。


「君には申し訳ないんだけど。実は君の家に行った時、見つけたんだ。山積みの本の一番下に」


 全身を突き刺すような沈黙。構わずに、僕は続ける。


「理恵子さんにも聞いた。友達との、思い出が書かれているらしいね」


 今度は微かに、息を吸ったように見えた。


「・・・・・・君に聞きたいのは、その」


 何を言いたいのか、そのシンプルな答えは僕の頭にはっきりとある。


 でもいざその答えを前にして、僕は声を出せなくなった。まるで僕の中の僕が、そうさせまいと躍起になっているようだった。


 記憶の中の少女は無表情に、僕を見つめている。


 僕の選択を、見守っている。


「その・・・・・・黒い、ノート、を」


 言葉をぶつ切りにして、なんとか絞り出す。喉を潰されたみたいに、声を出すのが辛い。


 僕が言い淀んでいると、今まで微動だにしなかった凛の顔が動いた。ゆっくりと、確かめるみたいに首を動かして、僕と、目を合わせた。


 美しく生え揃った長いまつ毛。


 くっきりとした二重瞼。


 薄茶色の瞳。


 半月のような形をした、彼女の目。


 鈴野凛の顔を真正面から認識した時、ふっと体軽くなるのを感じた。


 そうだ。違うじゃないか。


 僕は、彼女に本当のことを聞きに来たんだった。


「君のノートを、見せてほしい」


「・・・・・・・どうして?」


 か細く、掠れた、たよりのない声がした。彼女が発したものだと理解するのに、少し時間がかかった。


「わからない。でも、そうした方がいいんじゃないかって思うから。僕が」


「・・・・・・・そう」


 彼女は再び顔を僕とは反対に向ける。上半身を軽く回転させ、同時に腕をしならせて布団から出す。一度触れてしまえばたちまち壊れてしまいそうな機械のようだった。

  

 彼女はどうやら傍らに置いてある棚の引き出しを探っているようで、やがてその中から、鍵を取り出し、僕の前にぶら下げた。揺れる鍵の奥に見える真っ白な彼女は、やはり虚ろだった。


「ありがとう」


 僕は鍵を受け取る。きっと、もう何も言ってはくれないだろう。


「また、来るから」



 彼女は何も答えてはくれなかったのに、病室を去ってよかったのだろうか。病棟の長い廊下を歩きながら、自分の行動に対する疑問が牙をむく。何度も、足を止めそうになる。僕の中の何かが僕を食い殺そうとしてくる。


 視界はだんだん狭くなって、無意識に歩くスピードが上がる。角を曲がりかけたとき、わずかに残った視界を何かが覆った。僕は小さく声を上げて、立ち止まる。

 

「おっと、ごめ・・・・・・あ、君」


 危うくぶつかりそうになった相手は、僕に電話をくれた看護師さんだった。名前は、野上さん。凛が搬送されたとき、僕に一度帰るよう勧めてくれたのも彼女だった。


「あ、すみません」


「いやあ、わたしもぼけっと歩いてたからさ。ところで、面会、もういいの?」


「まあ、はい」


「ちゃんと話せた? もう私とは業務的な話しかしてくれなくてさあ。それも頷くだけだし、めちゃくちゃ寂しいんだ。ずっと窓を向いてばかりだし」


 話好きなのか、既に聞いた情報をぺらぺらと話す。 


「僕も似たようなものですよ」


 良くしてもらっている分あまり素気なくするのも申し訳ないので、フォローのつもりで僕は言った。てっきり君も同じかと笑い飛ばしてくれるものだと思っていたら、意外にも、彼女は険しい顔を浮かべた。


「君に対しても、か。原因に、心当たりとかない?」


 命に対して真剣に向きあっている人間の顔とはこういうものなのかと、僕は恐ろしささえ感じる。


「いえ、僕は・・・・・・彼女のことをあまり知らないんです」


「え? 仲が良かったわけじゃないの?」


「・・・・・・わかりません。少なくとも僕は、良いと、あの日までは思ってましたけどね」


「あ・・・・・・ごめん」


「・・・・・・いえ。ところで、彼女の両親とかは」


 野上さんは眉間の皺を深くする。


「それが連絡はしたんだけどね。一度も会いに来ないの」


「一度も?」


「ええ」


「それは、また、どうして」


「わからない。凛ちゃんもね、初めから来ないってわかっているみたいだったの」


 そこで一呼吸おいて、野上さんは僕の顔をまじまじと見つめてから、優しく微笑んだ。


「君は、あの子の味方だよね」


「味方って、敵がいるわけでもないのに」


「いやいや、いるんだよ。ここにね」


 とんとんと、野上さんは僕の胸を指で軽くたたいた。


「あの」


「あ、ごめん、つい。でもね、本当だよ。だから君は、できればあの子の傍にちゃんといてあげてほしいな」


 何も、答えられなかった。曖昧な返事をして、僕は野上さんと別れた。



 病院を出たその足で、僕は凛のマンションへ向かった。訪れたのはついこの間だったのに、随分と前のことのように感じる。預かった鍵で、戸を開き、時がすっかり止まってしまった、真っ白な世界へ飛び込む。


 その中で、洗われたまま箱にしまわれることなくリビングの上に放置されたたこ焼き器だけが唯一、白に染まっていなかった。僕は寝室へ向かう。山積みの本を一つ一つ仕分けるようにして、その一番下、黒いノートを見つけた。


 不思議と、心は静かだった。


 もっと動揺するなり、手が震えるなり、何かしらの反応が自分にあると思っていたけれど、そんなことはなかった。



 ※



 凛のノートと鍵を、自室の机の上に置いた。日常のようだった。


 期待も、不安もなかった。僕はすでに答えを知っているような気がした。


 しかしいざ中を見ようとすると、手が止まってしまう。数時間、凛のノートを前に僕は固まっていた。


 暖房を入れるのを忘れていたため、部屋はすっかり冷え切っていった。僕は一度机から離れ、クローゼットからコートを出して着た。あとは弾みで外に出た。



 記憶をたどるように街灯の明かりに沿って、僕は理恵子さんの店までを歩いた。


 店は、臨時休業だった。


 なら、仕方ないか。


 僕は残念に思いつつ、踵を返す。


「樹君!」


 僕は振り返った。


「あ・・・・・・こんばんは」


 真さんだった。


「ごめんね、理恵子のやつ、風邪ひいちゃってさ」


「あ、いえ。いいんです。お大事に」


「良かったら、何か食べていくかい?」


 提案に、僕は目を丸くする。


「え、休みですよね。いいんですか」


「うん! いつも本当によく来てくれるからね。今日はおごり」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 店長スペシャルカレーなる、揚げた野菜がたっぷり乗った極上の一皿をいただいた僕は、食後のコーヒーまでいただいていた。


「いやあ、一度こういうのやってみたかったんだよねえ。常連さんと秘密のご飯」


 普段理恵子さんの陰に隠れているけれど、真さんも結構おちゃめな人なんだなと思った。


「ごちそうさまでした。ほんと、びっくりするくらいうまかったです」


「本当かい? 嬉しいなあ」


「でも、いいんですか。おごりで」


「もちろん! お金取ったらあとで理恵子に怒られるよ」


 確かに、怒りそうだ。


「ありがとうございます」


「良かったらまだ残ってるから持って帰る?」


「え、申し訳ないですよ」


「いいのいいの。遠慮しないで。そうだ凛ちゃんに会う予定もある?」


「え・・・・・・っと、会うと思います」


「そっか! そうしたら凛ちゃんの分も渡してもらっていい?」


「・・・・・・ありがとうございます。きっと、喜びます」


 なんとも無責任な約束をしてしまった。帰り際、真さんに改めてお礼を言うとにっこり笑って、「また来てね」と言ってくれた。もしかすると僕のことを何か察して気遣ってくれたのかもしれない。


 帰宅し、たくさんのカレーを冷蔵庫にしまった。そのまま僕は再度机の前に座った。いつまでも迷っているわけにはいかない。カレーも、食べられなくなる前に結論を出さなければ。


 そう思ってノートの表紙に触れても、やはり先へと進むことができない。


 ずっと動けないまま、頭に取り留めのないことが浮かんでは消えるのを繰り返した。


 例えば真さんと理恵子さんのことが、凛と二人であの喫茶店で過ごした日々のことが、思い起こされた。


 結局僕はその日、最後までノートを読むことができなかった。



 ※



 ほとんど眠れずに朝を迎えた。大学に行く気はまるで起きなかった。僕は体を起こすと再び机の前に座って凛の黒いノートと僕の黒いノートを並べて、表紙をぼんやりと見つめていた。


 昼過ぎになっても僕はベットに寝転がるのと机の前に座るのを繰り返していた。時折、意味もなく携帯を見た。誰からの連絡もなかった。無為な時間を過ごした。


 いつの間にか眠りに落ちていた僕を起こしたのは携帯の着信音だった。


 白木さんからだった。


 これから大学へ来れないかと言われた。


 特に深く考えず僕は了承した。



「凛どうしちゃったんだろ。突然連絡取れなくなるなんて・・・・・・樹も何も知らないんでしょ」


「・・・・・・うん」


 せっかく仲良くなった上に、白木さんのような善人に嘘をつくのは正直、とても心苦しい。でもあんなことをしたなんて伝えるのは、とても僕にはできそうにない。


「体調でも悪いのかな」


「それはあるかも。結構体弱いみたいだし」


 嘘を重ねるたびに心が重くなる。


「そっか・・・・・・お見舞い行きたいなあ。ね、樹は家知らないの?」


 僕は首を横に振った。またずしりと心が沈む。


「気長に待つしかないか」


「まあ、ほら、凛は本当に気まぐれな人なのかもしれないから」


「なんだか自信なさげだね。樹は凛の一番の友達でしょ。しっかりしてよ」


「いや、それが・・・・・・僕は彼女のことをまるで知らないのかもしれない」


 するりと口をついて出た。


「どういうこと?」


 白木さんは首を傾げる。


「・・・・・・相手を知るってどういうことだと思う?」


「急に難しい質問だね」


「一緒に過ごして言葉を交わして・・・・・・記憶を紡いでも、相手が本当のことを隠していたら、いつまでもその人を知ることは叶わないよね」


「それはまあ、そうだね」


「知った気になって満足しているうち、ある日突然姿を見失う。というより、見えていなかったのだと知る・・・・・・って、僕は何を言っているんだろう」


 顔が熱くなるのを感じる。寝不足のせいで思考力が落ちて理性的な判断がつかなくなっているようだ。


「うーん。でもそれが普通なんじゃない?」


 白木さんはあっけらかんとして言った。僕は驚いて言葉に詰まる。


「普通・・・・・・?」


「うん。全部を知るなんてきっと無理でしょう? 自分のことだって、自分でもよくわからないこともあるのが普通なんだから」


 心臓に刃物を突き立てられたような感覚だった。


 自分のことが自分でもわからなくなるのは、普通。


 何かが腹の底からせり上がってきて気持ち悪くなった。


「だからどれだけ一緒に過ごして仲が良くたって、関わり方とか状況が変われば、知らないことがたくさん出てくる。それにいくら仲が良くても、ううん、仲が良いからこそ言いにくいこともある。その人が変わることもある」


 白木さんの語り口は、とても穏やかだった。


「だから、もしその人のことを知りたいと、仲良くあり続けたいと思うなら、想い続けるしかないんじゃない?」


「・・・・・・想い続ける」


「難しくしているのって、案外自分だったりするんだよね


「え?」


「どうして私に何の相談もしてくれないんだろうとか、あなたはそんなこと言う人じゃないでしょとか、思ったりすることも、友達付き合いしていればよくあるけど・・・・・・」


「・・・・・・うん」


「でもそれって、私が思い込みたいだけだったりしてさ。難しくしてるのも、目を曇らせてたのも私なのかなって。相手の色々な面を知っていって、いつしか全部知った気になって、だから自分の想定していた通りにならなかった時に、怒ったり、落ち込んだりする」


 自分が、思い込みたいだけ。


 目を曇らせていたのは自分。


 白木さんの言葉の一つ一つが僕を斬りつける。


 僕の中の僕を暴こうとしているかのように。


「って! 私も何語ってるんだろ! はずっ」


 白木さんは色々なものを誤魔化すみたいに笑った。


「いや・・・・・・とても参考になったよ」


 僕はそれだけ言うのが精一杯だった。


 白木さんと別れ帰宅すると、僕はそのまま机の前に座った。


 今ならこの中を見られると思った。


 今こそ見なければならないと思った。


 僕と、凛と、そして風香の話。


 僕が曇らせてきた本当のことに向き合うために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る