4
風香の持つカリスマ性は、僕にとってはとても煩わしいものに思えた。
人から称賛され、好意を向けられて損はないだろうけれど、行き過ぎれば崇拝のような感情を抱かせ、やがて都合よく祭り上げられる。
例えばクラス委員や生徒会、その候補に風香はよく推されていた。
今にしてみれば、それらの役職を担うのに大それた能力など必要ないと誰もが気がつく。強いてあげるならば、必要なのは諦めくらいのものだ。しかし、その諦めをつけられない。だから連中は風香のような目立つ人間を立てる。
ところが風香は何にも縛られない。周りの思惑など彼女にはまるで関係がない。だから風香はいくら推されようとも、決して委員や生徒会に入ることはなかった。
またそれは、強引な周りへの反発などではなかった。自信がないというものでもなかった。ただ興味がないからやらないという至極シンプルなものだった。
僕は風香らしいと思いおかしくも、彼女に勝手に同情した。
基本的に僕は彼女を観察するばかりで、在り方もまるで違っていた。ところがこの一件に関していえばほんの少しだけ共感できた。
僕もしばしば、クラス委員などをやってくれないかと言われたことがある。風香のように一番上に立つというわけではなく、その下で働くような立場に推薦されるのだ。僕は理由がわからず、なぜかと尋ねたことがある。返ってきた答えは、雰囲気とか、なんとなくとか、幹部っぽいとか、訳のわからないものばかりだった。
でもいまこうして、ひたすら風香の記憶を紡いでいると、僕はかつて周りの連中が評したように、上に立つ人間の傍に居続ける宿命を負っているのかもしれない。
※
掴み損ねて足元までおにぎりが転がってしまった。慌てて僕は身を屈めてそれを拾う。昼下がりのコンビニ、店員は皆忙しく動いていて僕がおにぎりを落としたことになんて気がついていないようだ。食べたい具ではなかったし、棚に戻そうかと思った。でも落としてしまった手前、知らないふりをするのはなんだか気が引けてやむを得ずカゴに入れた。
「あ、樹先輩。お疲れさまっす」
唐突に聞こえた声の方を振り返ると、近くにある別の大学に通う後輩の高峰日向が立っていた。入学してさっそく染めたらしい金色の髪は、高校時代から付き合いのある僕としてはまだ見慣れない。
「お、おおう、おつかれ」
「そんな驚きます?」
日向はにやにやしながら、両耳のイヤフォンを外した。
「集中してたんだよ。まずいのひきたくないだろ」
「いや、大概なんでもうまいっすよ」
「それはお前の味覚がアレだからだろ」
「ひでー、なんてこと言うんすか」
久しぶりの再会だったこともあり、少し話そうかと思ったところで、店内は昼食を買いに来たのであろう学生たちで段々と賑わってきた。僕たちは混雑に巻き込まれる前にさっさと会計を済ませ店を出た。ついでに日向のジュースも買ってあげることにした。
「ごちそうさまっす!」
日向はよほど喉が渇いていたのか店を出るなり、ジュースを流し込む。テレビのCMみたいだった。あまりにも爽やかで、うまそうに飲むので、購買意欲が沸いたと伝えると楽しそうに笑った。
「そうだ、先輩このあと暇っすか? カラオケ行きません?」
互いの大学生活の話がひと段落ついたところで、日向はそう言った。僕は特に予定が入っていなかったから誘いを受けることにした。
「ああ、なんもないしいいよ」
「よっしゃ」
とても人懐こいこの後輩は、僕のような人間にも気軽に、怖気づくことなく話しかけてくる。以前、日向の人柄について人に聞かれたことがあったけれど、明るくて良い奴だと簡単に答えられたことを思い出す。
カラオケへと向かう前に僕は腹ごしらえをしたかったので、一度日向を伴って家に帰った。僕が昼食をとる間、日向は慣れたようにソファに座り、録画していたアニメを見ていた。途中キャラクターについての説明や、ストーリーのおさらいを求められたので応じつつ、流れで好きな登場人物の話になると、日向は何か思い出したように声を上げた。
「なになに、どうした」
「俺ね彼女できたんすよ」
「マジか。早いな」
そう反応したものの、入学して二か月で彼女ができることが実際に早いのか遅いのか、僕には判断できない。もし仮に早い方だったとしても、日向ならば納得できる。
「いやあ、ドラマチックな運命の出会いでして」
額に指を当ててキザな口調で言った日向に、詳しく経緯を聞く。すると何のことはない、同じサークルに所属する友人の紹介で知り合った同学年の女子と、意気投合したというだけだった。
「ドラマチックな、運命の出会い?」
「なんすかその顔」
日向は不満そうに口をとがらせた。
その時ふと僕の頭に疑問が浮かんだ。口に出しかけて、それはまったく阿呆らしいというか、聞くだけ無駄なことだと思った。
「ちなみに、苗字は?」
「へ? 苗字っすか? 久保っすけど」
あからさまに不思議そうな顔をする日向に僕はなんと言い訳をしようかと、阿呆らしい考えを振り払えなかった自分自身を恨んだ。
僕たちはいつもそういう話をしないから、仕方がないと思いたい。
「先輩相変わらず変わってるっすね。彼女出来たって言って、まず苗字だけを聞かれるとは思ってなかったっす。同じ大学かーとか、同級生かーとかならまだしも」
「ああ、まあ、うん」
「どうしたんすか? なんか気になるっすか?」
「いや。ところで、写真は?」
「そうそう、それそれ。その質問っすよ! ほら見てください、めちゃくちゃ可愛いでしょう」
堂々と言い切る日向を心の中で称賛して、提示されたいくつかの写真を見た。確かにかわいらしい女の子だったので素直に伝えると、日向はとても嬉しそうにしていた。
恋愛ソングばかり歌っていいかと惚気る日向をあしらいながら、僕達は地下鉄に乗り、数駅行ったところにあるカラオケボックスを訪れた。平日の昼間、大学生の特権を利用したおかげか、店内は客もまばらですぐ部屋に通された。
「先輩なに飲みます? やっぱりコーヒーっすか?」
「うん、そうだね」
「了解です。俺とってきますよ」
「悪いね、ありがとう」
「いえいえ」
気の利く後輩の言葉に甘えて待っている間、適当に曲を眺めることにした。いくつか候補をピックアップしたけれど歌詞がうろ覚えだったので、検索しようと携帯を取り出し開いた。
その時、自然と鈴野からの連絡がきていないか確認している自分がいることに気が付いた。
彼女はカラオケとか行くんだろうか。
マイクを持ち、目を瞑り、バラードなんかを歌う鈴野を想像すると、あまりにもおかしくつい笑ってしまった。
「先輩、見てくださいよこれ!」
両手にコップを持ちながら、器用に扉を開けて入ってきた日向はえらく不機嫌そうだった。
「うわ、めっちゃ濡れてるじゃん」
日向の服とズボンに大きなシミができていた。何だか最近、こんな光景を見た気がする。
「そうなんすよ、酔っぱらったおっさんがぶつかってきたんす。おまけにたいして謝りもしないで帰って行きやがって」
日向は苛立ちを抑えられない様子で手にしたコップを僕の前と自分の前に置いて、ソファにどさりと座った。
「ありがとう。しかし、それは酷いな」
「ほんとっすよ、昼から飲んでんじゃねーよったく」
僕は立ち上がり、壁にかかっている電話の傍に行き手に取った。日向は不思議そうに僕を見ていた。電話に出た店員に、僕はティッシュかタオルを持ってきてほしいと伝えた。
「ありがとうございます。先輩」
日向はわざわざ頭を下げた。
「風邪ひかすとほら、お前の彼女に怒られるかもしれないから」
なんとか気を取り直してくれた日向が先陣を切ってくれることになった。日向はまず高校時代からよく歌っていた曲を入れた。ウォームアップに最適な曲らしい。テレビでも一時頻繁に流れていたので、特に好きというわけでもなかったけれど、僕もある程度覚えていた。そして、歌の方はやはり上手だった。
「これはモテるな」
曲が終了し拍手をしながら僕がそう言うと、「まあね」と返ってきた。そこでタイミングよく店員がタオルを持ってきて、日向は濡れたところを拭いていた。
「あれ、ギターやってるんだっけ」
「はい、やってますね」
「最近も結構弾いてる?」
僕はタブレットを操作して目星をつけておいた曲を入れた。
「そうっすね。さっきの奴とかも弾いてます」
「今度弾き語り頼む」
「さすがに恥ずかしいっす」
日向は困ったような笑った。やがて短いイントロが流れ、僕は歌った。随分久しぶりのことだった。日向は歌詞の表示されるディスプレイを食い入るように見ていた。それを横目に歌い上げた僕は深呼吸して、マイクを置いた。
「やっぱうまいっすね」
拍手と共に、賛辞を受け取った。
「いえいえ」
「ただ、やっぱり聞いたことのない曲でした」
「知らない?」
「はい、グループ名すら。でもそれがいいんすよ。先輩と来ると毎回曲の知識が増えて」
僕は日向の歌う曲をほとんど知っていたけれど、反対に、日向は僕が歌う曲をあまり知らなかった。それは僕があらゆる曲に精通しているというわけではなく、ジャンルというか好みの違いだ。わざわざ、必要はまったくないけれど壮大に言い表すのならば、生来の性質の違いというものだろう。
一曲歌って調子が出てきた僕達は、次々に歌い続けて大いに盛り上がった。二時間たっぷりと歌唱した。
付き合ってくれたお礼にと代金を全額支払おうとする日向を止め、半分ずつお金を出し合った。
最近売れている歌手を日向に教えてもらいながら、店を出ようとした。その時、突然怒声が店内に響いた。驚いて僕達が声のした方を向くと、二人の大学生らしき男たちに一人の男が詰め寄られていた。それを見て日向は僕の肩を叩き、声を潜めた。
「あれ、さっき俺にぶつかったおっさんですよ。またやらかしたんすね」
会話の内容を聞くと日向の読み通りで、酔っ払ってる男がぶつかってしまったらしく、被害者の大学生と思しきコンビは相当ご立腹のようだった。
「天網恢恢疎にして漏らさず」
「へ? かいかい?」
どうなるかと成り行きを見ていると、カウンターの奥から店長らしき人が出てきて間に割って入った。いつまでも見ているわけにもいかないので、僕と日向はぼちぼち店を出た。外は雨が降っていた。
「あちゃー、傘持ってきてないっすよ」
「折り畳み持ってる」
「おお、さっすが!」
男二人、相合傘をしながら地下鉄の駅まで歩いた。
「さっきなんて言ったんすか? 先輩」
「ん?」
「店内で、かいかい、がなんとかって」
「ああ、天網恢恢疎にして漏らさず」
「どういう意味っすか? 人生で初めて聞いたんですけど」
「悪いことしたらちゃんとバチがあたる的な意味」
「へー! まさにあの状況ですね」
「いや待てよ。あの場合は、自業自得とかのほうが正しいかな」
「俺、わかんねっす」
「まあいいか。どうでも」
「そうっすね」
日向は笑った。
「とにかく、あのおじさんが反省してくれるといいね。大学生二人は熱くなりすぎだった気もするけど」
「うんうん。結局本人がわかってくれないと意味ないっすから」
僕はその言葉を大いに肯定した。
僕達は窮屈な思いをしながら歩き、地下鉄に乗っていつもの駅まで帰ってきた。なおも雨が降り続いていたので、家にある僕の傘を貸すということになり、僕の家に向かった。
「はー、ついてない。ほんと鬱陶しいっすね雨。って、あ、すんません。先輩は、雨好きでしたよね」
「ん、まあ、家の中にいる分にはな」
「あー、それはわかるかも。いや、やっぱり俺は晴れがいいっすね」
頭を掻いて苦笑いを浮かべた素直な後輩に僕は笑った。その笑顔を見ているうち、ふと、この間河川敷で鈴野と交わしたやりとりを思い出した。
好きな曲や天気に限らず、基本的に僕と日向は趣味が合わない。けれど、不思議と一緒に居て嫌だとか退屈だということはなかった。そのことについて以前僕が口にすると「ないものねだりじゃないっすかね」と、興味深いことを言っていたのを思い出した。続けて、「俺は先輩のこと尊敬していますから」とも言っていた。
僕への尊敬は置いて、ないものねだりという意見はもっともである気がした。
風香は僕にないものをたくさん持っていた。発想も言葉も、遠く、理解の及ばない未知の領域に彼女は存在していた。
僕の中に彼女が残り続けるのは、彼女のことを知りたいと強く願うのは『ないものねだり』という、日向が僕に抱いてくれているような感情が、あるからかもしれない。
「それじゃ、いろいろどうもっす。また遊びに行きましょう」
「ああ、気を付けてな」
律儀に軽く頭を下げて、日向は帰って行った。聞けばこれから彼女の家に行き、その後サークルの飲み会があるらしい。相変わらず忙しい男だと呆れつつも笑った。
日向から傘のお礼にもらったのど飴を口の中で転がしながら、僕は窓を開け、ソファに座って一息つくことにした。時計を見ると、お菓子を食す時刻だった。雨音を聴きながら、僕の脳内ではさっき日向が歌っていた曲が鳴っていて、気が付くと口ずさんでいた。
そのうち眠気がやってきて、僕はソファに寝転がった。足がはみ出すのも気にせずそのまま目を瞑ったところで、狙いすましたかのようにテーブルに放り投げていた携帯が騒ぎ出した。僕は驚いて体を起こし携帯を手に取る。なんとなくそうかなと思ったけれど、電話の主は鈴野だった。
「はい」
「あ、もしもし? わたし」
「うん。知ってるよ」
「あはは、ごめん。お願いなんだけど迎えに来てくれない? 傘持って」
「大学にいるの?」
「うん、玄関ね。講義終わり。雨予報とは知らなかったよ」
どうやら世の大学生はよほど天気予報を見ないらしい。
「どんまい。走って帰ればなんとかなるさ」
「あのさ友人としての自覚はあるのかな? それに美少女がずぶ濡れになったら可哀想だと思わない?」
「可哀想だね。美少女が、雨に濡れたなら」
「うわー腹立つっ! って、冗談! ねえ頼むよー」
僕は「どうしようかな」なんて返しながら立ち上がり、クローゼットからジャンパーを取り出し、鍵と財布と傘を持って部屋を出た。
知る由もない鈴野はいまだにぶーぶーと文句を垂れている。
「はいはい、今家出たから。切るよ」
「おお! ありがとう! 2号館ね! 中に入って待ってる!」
雨足はどんどん強まっていた。走れと言ったのは冗談でも酷だったかと少し反省した。
大学に到着し、言われた通り2号館の中に入ると、玄関に設置された長椅子に鈴野が座っていた。僕には全く気が付いていないようだった。
僕が近づいていくと、鈴野のすぐ後ろでにぎやかに勉強をしていた男女グループの一人の女子が、何かを落とすのが見えた。鈴野はそれに気が付いたようで、非常に緩慢な動きながらも拾おうと身を屈めた。同時に落とした本人も慌てて拾おうとして、二人は手がぶつかった。聞こえなかったけれど、謝罪を述べたのか、鈴野は何かを言ったようだった。でも相手の女子はそれに対して何の反応も示さずに、消しゴムを拾った後また談笑へと戻って行った。
僕は一部始終を目撃した後、どうしてか、そのまま彼女の傍に行く気を失った。心臓が速くなっていて、少し混乱した。僕は踵を返して外に出て携帯を開き『着いた、すぐ外』と鈴野に送り、雨空を見上げて深呼吸をした。
少しして満足そうな笑顔を浮かべた鈴野が出てきた。僕はあまりに良くできた笑顔に、先ほどの光景は幻か、あるいは別人のものだったのだろうかと思った。
「やあやあ、ご苦労!」
空元気かとも疑ったけれど、いずれにせよ振り返って良い気分になる話でもないだろう。あれこれ沸き立つ感情をしまい込んで、僕はいつも通りに振る舞った。
「まったく、どいつもこいつも」
「ん?」
「天気予報くらい見なよ」
地下鉄まで歩きながら僕はさっきまで日向と一緒にいたことを話した。
「カラオケねえ。声が少し枯れてるのはそれが理由だね。にしても、君に後輩がいるなんてねえ」
「そりゃいるでしょ」
「んー、まあ」
鈴野は唇に指を当て何かを思い浮かべているような顔をする。
「君は一日ずっと講義?」
「うん。もー疲れた。興味ない話を聞くのって大変だね」
「まあそうだね。でも世の中大半の人がそうなんじゃない?」
なんの慰めにもならないことを適当に言った。
「しんどいねー。あと1年近くこれかあ」
「1年どころかこれから先はもっとそういうつまらない時間が増えていくんじゃない?」
「あははー、がんばれ」
「君もな」
「あーあー、とりあえず明日の講義休みにならないかなあ」
「ほんと何しに大学来たの?」
「だから君に会うためだってば。言わせようとしてる? 言ってほしいの? しょうがないなあ」
「そんなつもりはない。断じて。美少女に言われるならまだしも」
「友達いないでしょ」
「いるよ。今、目の前に」
「残念。機嫌とるつもりなら無駄だよ」
鈴野は舌を出して、そっぽを向いた。僕が笑うと、こらえきれなくなったのか、鈴野も笑った。彼女の指摘通り機嫌を取るために言ったわけだけれど、友達だと思っていることについては本心だった。現状、僕たちはとても自然な友人関係にあるように思えた。
だからこそ。
「そんな友人に、僕から一つ」
「え? なになに、どしたの」
およそいつ以来か、僕は真剣に話そうと意識した。そんな様子を察したのか、鈴野は目を丸くして見つめてくる。
「ああいうときは怒っていいんじゃない?」
さっき見た光景を思いだしながら、僕は切り出した。やはり我慢ができなかった。義憤に駆られたのか、僕にもおせっかいを焼くような良心があるのか、それは定かでない。僕には、僕自身でもよくわからない変なところがたくさんあるから。
「どういうときさ」
彼女は全く心当たりがないとでもいうように首を傾げる。
「さっき椅子に座って僕を待ってた時だよ。後ろの奴らが何か落として君が拾おうとした拍子にぶつかったのに、相手何も言わなかったでしょ。それだけじゃなくて君の謝罪も無視した」
「あー、あれかあ」
多少想像も踏まえて言ったけれど、どうやらあたっていたらしい。
「直接言いにくかったなら、せめて僕が文句を聞くよ」
鈴野は沈黙して何やら考えているようだった。濡れた道を踏みしめる足音と、傘にぶつかる雨音が、よく聞こえてきた。
「ありがとう」
ぽつりととても小さな声で彼女は言った。その声色は僕がこれまでに聞いたことのないもので、無意識のうちに一度落とした視線が、再び彼女の方を向く。また、あの虚ろな顔をしていた。
「でもね、本心を言うと全然気にしてないんだ」
「え?」
「確かに私は親切も謝罪も無視されたわけだけれど。もしかするとあの女の子は、とても内気な人なのかもしれない。本当は、私が拾おうとしたことに感謝して、ぶつかってしまったことを謝罪して、私の謝罪にこちらこそって、言いたかったのかもしれない。でもそれを口に出せないくらい、コミュニケーションが苦手な子なのかもしれない」
「・・・・・・そんなことは」
ない、とは言い切れなかった。彼女の言うようなことを、想像したこともなかった。
「親切は私が勝手にしようとしたこと。謝罪も私が勝手にしたこと。もしかすると、相手は全くそんなこと望んでいなかったかもしれない。それどころか、私との余計なかかわりに、今頃気を揉んでいるかもしれない。そうなったら、むしろ申し訳ないなーって、思うかな」
降りしきる雨はまるで僕をめがけているような気がした。淡々と言葉を紡いだ鈴野から目が離せなくなった。思いもよらない言葉、何かを否定するでも肯定するでもない。怒るわけでも、悲しむわけでもない。僕の想像になかった反応。
僕はまだまだ、鈴野凛のことを知らない。
黒いノートの中の少女が微笑む。ようやく気がついたかと、通過したのかと、拍手をくれる。やっぱり僕は全て彼女のシナリオの上で踊らされているのかもしれない。
「なーんてね。語ってみました!」
鈴野はウィンクをして、思い切り笑った。顔も声色も元に戻り、眼前にはまた、いつもくだらない言い争いをするときの彼女がいた。
「そう、だね。そうかもしれない」
僕は頷いた。それが精一杯だった。
「ま、でも多分樹の言う通りだよね。あの後もひそひそ何か言ってるみたいだったし」
「・・・・・・今度あったらビンタしたら?」
頭を切り替えようと、僕はまたいつものように冗談を言った。
「鉄拳制裁? いいね、スナップ鍛えなきゃ。野球がいいかな。グローブある? キャッチボールしようよ」
そうして僕たちはまた、他愛のない会話に戻っていった。
「いやあ、今日は助かったよ。今度ジュースおごるね」
駅に着くなり、彼女は言った。
「なんでもジュースで解決しようとしてない?」
「ばれた? じゃあごはんで」
「高級なランチ、探しておくよ」
「任せたからね。それじゃ、ばいばい」
「うん」
複雑な気分だった。正直このまま別れてしまうことに少し抵抗があったけれど、引きとめる理由が見当たらなかった。
「ねえ樹」
名前を呼ばれて、足を止めて振り返る。胸の中にざわめきが起こった。僕は傘を持っていない右手をポケットに入れた。
「なに?」
「ありがと」
感謝される理由に心当たりはあった。だからあえてそれではなく、違うものを口にすることにした。
「次は天気予報をちゃんと見るんだね」
彼女は自分から言い出したくせに、まるで感謝する理由に自分自身も見当がついていないような、考えるより先につい口走ってしまったみたいな困った顔でまた「ありがとう」と言った。
「はいはい」
「彼女にもそん風に優しいんでしょ?」
「は?」
嘘みたいに間抜けな声を漏らしてしまう。何が何だかわからずにいると、彼女はクスクスとお手本のように意地の悪い顔で笑った。
「動揺してる」
「いや・・・・・・あのさ、僕彼女がいるなんて言ったっけ?」
「ううん。いるの?」
「いないよ。いるわけもない」
「そっかー、カマかけてみたんだけど。いないんじゃ意味なかったね。いやでも、いないってことは聞き出せたからやりとりに意味はあったのかな」
えらく饒舌なものだから段々と僕は腹が立ってきた。
「帰る」
「わー! ごめんって!」
「ランチ、とびきり高いのにしてやるから」
復讐の宣言だったのに、彼女は楽しそうに頷いた。そのあと、ようやく僕たちは別れた。
帰る途中、僕はこらえきれずに目撃したことを話してしまったのを後悔した。
雨に濡れ、束の間幻想的になる、本来平凡で面白味のない街並みを、見えない線に沿うように眺めながら、重たい体を引きずるようにして歩いた。
そういば、昼間はカラオケに行っていたんだっけ。
疲れ切った頭の中、おぼろげに、思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます