鈴野凛と出会ってから二週間が経った。


 その間大学ですれ違うこともなく、連絡を取り合うわけでもなく、全く関わりがなかったものだから、あの出会いは夢だったのだろうかと疑った。


 そうしてまた1日、講義を終えて帰宅しようとした僕を携帯が呼んだ。鈴野からだった。内容は居酒屋らしき店の名前と場所と時刻が羅列されていて、『樹の名前で予約したから絶対に来てね』という不穏な一文が添えられていた。


 あまりに突然の呼び出しに、ひとまず出会いが夢ではなかったことを理解する。それからいくつか納得のいかない点を整理した後、とりあえず帰宅した。


 指定された時間まではかなり余裕があったので、僕は掃除や洗濯といった家事をこなした。終える頃にはちょうど良い時間だったので、財布と携帯と鍵をポケットの定位置にしまい、家を出た。



 地下鉄に揺られ薄暮の街へと繰り出した僕は人混みに辟易としながらその間を抜け、目的の店にたどり着いた。


 店内に入ると、人の熱気やら活気が僕の体にぶつかってきた。元気良く「いらっしゃいませ」と叫びながら、店名の入った頭巾とエプロンを身に着けた男の店員がやってきた。


「成瀬で、18時から予約していたんですが」


 僕は店員に連れられ席へと案内された。店の情報は皆無だったので、案内された先が個室であることにひとまず安堵した。スライド式の扉を開くと、すでに鈴野は座っていた。やっぱり夢ではなかったらしい。鈴野は笑って手を挙げたので、僕も控えめに手を挙げた。


 席についてメニュー表を手にする間もなく鈴野が勝手にビールを二つ頼んだ。そして僕が異議を申し立てる間もなく店員は下がった。


「ビールのことで文句を言う前に、あのさ、どうして僕の名前で予約するかな」


「え、あるあるなんでしょ? 人生で一度はやっておきたかったのよね」


 鈴野は笑って言った。


「ああ、そう。それなら仕方ないねってなると思う?」


「まあそんなに怒られることじゃないかなとは思ってる」


 鈴野は何やら落ち着きなくあたりを見回しながら、適当に返答しているようだった。


「そしてどうして勝手にビールを頼むのかな。僕ビール好きじゃないんだけど」


「まずはビールって言うじゃない。なまちゅうの方が良かったかな」


「同じだよ。で、実際やってみて満足?」


「うん。もういいかな」


 鈴野はけらけらと笑った。


「じゃあ今後は一切やめるように」


「あ、でも君の名前で予約するのはいいかも。癖になりそう」


「意味がわからない」


「君も今度やってみなよ。許可してあげる」


「いや、僕はもう1回やられてるからそもそもやり返す権利があると思うんだよね」


「えー、なにそれ野蛮じゃん。あ、てかさ今後は一切やめろってことは、今後も私と友達でいてくれるってことだよね。やったー、うれしー」


「心がこもってないな」


 ここへくる途中何を話そうかとあれこれ考えたし、もし沈黙が訪れたらどうしようかと少し心配だったけれど杞憂に終わりそうだ。もしかすると僕の名前で予約したのは、彼女なりの気遣いなのかもしれないと思ってあげなくもない。


 くだらないやりとりをしているうち、店員がビールとお通しの煮物を持ってきた。鈴野はビールそっちのけで割り箸を手に取り煮物を口に運び、幸せそうな顔をした。大げさな奴だと思った。


 そんな彼女を横目に、僕は掴んでいたジョッキからこっそりと手を離し、行き場を失った手をポケットの携帯へと伸ばした。意味もなく、時刻を確認した。


「あ、ちょっと。何携帯いじってんの」


 誰のせいだと言いかけてやめた。


「いいから。ほら、もちなよ」


 僕はジョッキを持ちあげた。


「あー、うん、はい」


 なぜだか不思議そうな顔をして鈴野はジョッキを持ちあげた。


「乾杯」


 彼女は思ったよりも控え目に僕とジョッキを合わせ、温かいお茶でも啜るみたいに慎重にビールを口に含んだ。その様子をなんとなく見届けてから、僕も一口。まずい。


「あー、まっず」


 顔をしかめて、鈴野はジョッキを置いた。


「いやいや、君が」


「飲んでみたかったの。ごたごた言わないで」


「まだ言ってないだろ。って、初ビールなの?」


「うん、そうだよ。あーあこんなにまずいなんてねー、ちょっとショック。私変なのかなあ」


「ビールを美味しいと思わないくらいじゃ変とは言わないよ。むしろ大勢いるよそんな奴。さっき言った通り、僕もその1人なんだから」


「それなら良かったけど」


 安心したように言って鈴野は残りの半分を一気に飲み干し「まずっ!」と叫んだ。部屋の外に店員がいないかと、僕は気が気じゃなかった。


「さーて、次は何を飲もう」


「大丈夫なの? そんなに飛ばして」


「へーきへーき、知らないけど。はやくお口直ししないと。あ、料理も頼まなきゃ」


 それから鈴野はメニューを嬉々として眺め、店員を呼びつけ、色々な料理とカクテルを注文した。


 僕はその様子を眺めながら一息ついた。会うのは二度目だというのに、まさか一緒に酒を飲むことになるとは思っていなかった。


 どいつもこいつも僕の周りに集まる連中は、階段を一つ一つ上ることを知らない。唐突に目の前に現れて、どんどん距離を縮めてくる。


「樹は普段からお酒とか飲むの」


 鈴野は注文を終えたようで、おしぼりをたたみながらそう聞いてきた。


「いいや全く。君は・・・・・・ああ、初ビールっていうくらいだから飲まない?」


「飲まないね。なんなら人生で初お酒」


「え? そうなの?」


 驚きのあまりつい大きな声が出た。


「うん。あ、でもさ、なめるのは飲むに入ると思う?」


「・・・・・・さあ、入らないんじゃない?」


「体内には入ってるじゃん? でも、飲むっていうくらいなら一定量は入れる必要があるかな」


「いやこれが初お酒でいいよ。もう」


 アルコールの助けもあってか僕は気がつくと笑っていた。彼女のわけのわからないことを考え、こだわるということに多少の親近感みたいなものを覚えたからかもしれない。


 おまけに大学に入ってからサークルに所属せず、積極的に友人をつくることもせず、講義を受けてすぐに帰宅する日々を送っていたから、こうして向かい合って酒を飲んでいる状況を多少なりとも楽しんでいるのかもしれない。なんだか癪だけど。


「そろそろ本題に入った方がいいかな」


 飲み始めてから1時間くらい経ったころ、会話の狭間に訪れた沈黙を破るように鈴野が切り出した。「ドラマのセリフみたいだね」と僕が言うと大げさと思うくらいに笑った。彼女は既に8杯目だ。


「で、本題っていうのはもしかして」


 話を戻そうと僕は言った。アルコールでふわふわする頭に、黒いノートの中、中途半端な空間に佇む少女の姿を思い浮かべる。


「そう、それ! 樹の頭の中にあるやつ!」


 ようやくかと僕は胸を撫で下ろす。もしかすると今日はその話をせずに終わるんじゃないだろうかと心配していた。鈴野はもう話すことはないなんて言っていたけど、そんなはずはない。まだまだ聞くべきことはあるに違いない。僕が風香という存在の答えに辿り着くために。


「ずばり! 君のもつ来週の土曜日が欲しい!」


「・・・・・・本題は?」


 僕はジョッキを口に預ける寸前で固まった。揺れる視界の中で、なんとか鈴野の真っ赤な顔を捉える。


「いや本題だよ?」


「・・・・・・もう一度言うけど本題は」


 確かに鈴野は風香の話をしようなんて一度も言っていない。僕が勝手に本題は風香の話だと思っていたに過ぎない。けれどわざわざ飲みの席まで設けられたら、そういう展開を期待するものじゃないだろうか。第一僕の頭の中にあるとかなんとか言ったじゃないか。


「暇でしょ?」


 しかしそんな僕の思いなどお構いなく彼女は突き進む。


「それは否定できないけど」


「じゃ、10時に駅前ね」


「いやあのさ。僕は風香の話を聞きたいんだけど。ほら、この間の続き・・・・・・」


 うまく回らない舌で、必死に僕は抗議をする。


「まずは、これるの、これないの」


 鈴野は声に不満をたっぷり滲ませて、弛んだ目を細める。


「いける、けど」


「良かった!」


 鈴野はぱっと笑顔を咲かせる。対照的に、僕は萎んでいく。


「うん、だから、それでさ」


 気を取り直して、今度こそ本題に向かおうとしたところで、僕の動きを察したのか、鈴野が遮るように口を開く。


「あーのねえ、前にも言った気がするけど風香のことでもう話すことなんてないよ? 言ったでしょ、君に関することは君と仲良くしてほしいって言われたことだけだって。それともなに、ガールズトークを暴露しろって? そんな変態と風香は仲良くしてたっての?」


 何を言ってるんだお前は。と出かけた言葉を飲み込めるくらいに、僕はまだ正気を保っていた。

 

 正直なところガールズトークでもなんでも話してほしいと思っているけれど、今の彼女に言えば非常に面倒なことになりそうで切り出せなかった。打つ手はなく、僕は肩を落とす。


「悪い冗談だと言ってほしい」


 何が面白かったのか、僕の嘆きに鈴野は腹を抱えて笑った。相当酔いが回ってきたらしい。そうだ、彼女はもう8杯も飲んでいるんだ。


「うるさいな」


 何か仕返しをしてやろうと、僕は言った。


「ひどいなあ」


「ひどいのは君だよ。僕を弄んで」


 僕は何を言っているんだろう。酔いが覚めたらひどく後悔しそうだ。


「本当に何もないんだけどなあ・・・・・・何もないっていうのが良かったんだよ」


 ジョッキを傾けながら鈴野が小さく呟いた。その言葉は僕に向けられたものではないと直感的に思った。心が溶け出したみたいな声だとも思った。


「・・・・・・それこそ、悪い冗談だ」


 首を横に振った僕を頭痛が襲った。


 そう、そんなはずはないんだ。


「え?」


「それで土曜日なにするの」


 僕はひとまず風香のことを諦めて、彼女の機嫌をとるつもりで聞いてあげた。


「何しようかな。今から考えよっか」


「ぜひそうしよう。会ったばかりの二人が無計画だなんて、無謀だ」


 とは言ったものの、すでに酒がだいぶ進んでしまっている僕たちにまともな計画を立てるなんて不可能だった。自分から言い出したくせになんの案も出さず沈黙する鈴野と、こういう時どこに行けば良いのかまるでわからない僕。結局、話は段々と逸れていった。


「君って、結局普段は何してるの」


 僕は美味しそうに刺身をほおばる鈴野に言った。


「どしたの樹」


 鈴野はなぜか目を丸くした。


「はい? どうしたとは」


「樹が私に関する質問をするなんて。どういう風の吹き回し?」


「だって君、仲良くしたいんでしょ。だから仕方なく、本当に仕方がなく君のことを知ろうとしてあげてるんだよ」


「うーわー。腹立つけどありがとう」


 鈴野はけらけらと笑ったかと思えば、急に真顔になった。


「あれ? でも結局それも風香のためか。君はどうせ風香のことを私から聞き出そうとしてるだけだもんね」


「あのねえ僕は」


 せっかく僕が話を変えたのにこいつは。


「やっぱり、私のことなんて」


 いじけた様子の鈴野はそのお手本の様に人差し指をくっつけて、芋虫みたいに動かした。


「聞けよ。風香のこともあるけど、僕は君と仲良くする意思はあるって。いわゆるその、友人になる気はあるよ」


「本当に?」


 上目で見てくる彼女に、僕はしっかりと頷く。


「本当です。だから君は僕の質問に答えてくれ」


「わかった! えーとなんだっけ、あ、普段か。なんにもしてないかな! サークルとかバイトもしてないし」


「・・・・・・何か好きなものとかないの」


「今、会話弾まないって顔した」


「してない・・・・・・はず」


「はあああ。私のこと聞いてくれるのは嬉しいけど、よく考えたらあれだ。私、樹に話すようなことなんにもないや」


 てっきり冗談まじりだと思ったけど、鈴野の表情は本当に曇っているように見えた。人を容易に惑わすアルコールと、出会ってからの日の浅さで、僕の感覚は全く信用できないけど。


「別に僕だって大した話は何もないよ。ああ、いや、そういえば最近あったな」


「なになに、聞かせてよ」


「ある日ね、突然街中で見知らぬ女性に話しかけられてね。この人がまた失礼なことばかり言ってくるんだ」


「・・・・・・うん。なぜか私、その話知ってるわ」


「これが全く困った人でね。食べられもしないのにパフェを大量に注文するし、そのパフェの趣味もたこ焼きを乗せたいとか意味のわからないことを言うような人なんだ」


「樹、やっぱり仲良くする気ないでしょ」


 睨む鈴野を見て僕は笑った。これが打ち解けるってやつだろうか。


「ところで、なんで今日は居酒屋にしたの?」


「へ? あー、私きたことなかったから?」


 僕は内心驚いたけれど、それを表に出すことはしなかった。そういえば、初めてのお酒なんだっけ。


「そっか」


「うん。だからまあ、来てみたかったの。お酒もほら、さっき言った通りだし。あれ、さっき言ったよね」


「うん。多分ね」


「そう、で、うん。そんな感じ」


 また鈴野の顔が曇った、ような気がした。すぐにけらけらと笑っていたので、やはり勘違いという可能性は大いにある。


 僕たちはそれからもひたすらどうでもいいような話をして盛り上がった。


 絶対に口には出さないけれど、結構楽しかった。



 クレーンゲームのようだと言ったのは僕で、二階から目薬を狙う人のようだと言ったのは鈴野だった。僕達は帰宅中の自分たちの状況を、それぞれそんな風に例えた。


 鈴野は突然怒ったかと思えば、次の瞬間笑っていたりして、僕の右肩に何度もぶつかってきた。鈴野は、僕が彼女の左肩にぶつかってきているのだと主張していた。地下鉄では二人とも眠りかけて、危うく乗り過ごすところだった。


「さてー、今日は楽しかったー」


 外気に当てられて少し酔いも収まってきたのか、別れ際、鈴野はしっかりとした口調で言った。


「土曜忘れなかったら行くよ」


「んー、ふっふっふ。君は来るよ」


「随分と信用されたね」


「なんとなく、そう思うんだあ。君は来る、間違いなく」


「ああ、そう」


「あれえ、不服そう。もー、友達の約束は破らないでしょ」


「まあそうだね」


 僕の肯定に鈴野は笑顔で頷き、手を振って軽快な足取りで帰って行った。お手本ような表情に、お手本のような反応だった。僕もお手本どおり彼女を家まで送っていこうかと思ったけれど、その考えに至る頃には彼女の姿は見えなくなっていた。



 翌日、講義をさぼろうと思いながらも僕は気が付けば大学へ向かっていた。幸いなことに今日は午後からの講義しかなかった。もし午前中の講義だったなら、僕は間違いなくさぼっていただろう。


 ただ出席はしているものの、講義の内容はまるで入ってこなかった。久しぶりの二日酔いでそれどころではなかったのと、僕の携帯に鈴野からの連絡がひっきりなしに届いていたからだ。


 どうやら偶然にも僕と彼女は同じ講義を選択していたらしい。真面目に出席した僕と違い、彼女はさぼることを選んだので、講義の資料を届けてほしいと何とも身勝手でずうずうしい要求をされていた。


 しかし鈴野の選択は全く理解できないでもない。仕方がなく、僕は例の土曜日にジュースをおごってもらうことにして、わがままな友人の頼みを了承した。


 彼女はどうやら退屈らしく、交渉が成立してからも僕たちはやりとりを続けた。例えばなぜビールはあんなにまずいのか、とか。なんやかんやで僕も付き合ってしまって、昨日のアルコールがその言い訳になるかということについて考えを巡らしているうち、講義が終わっていた。



 ※



 遅刻ではないと鈴野は言った。


 僕は丁度時間通り、午前10時に待ち合わせ場所である駅前に来たけれど、鈴野はそこにいなかった。


 適当に暇をつぶしていると、10分くらい経って鈴野が現れた。彼女によると、ちゃんと10時前に到着していたけれど、僕を待つ時間が暇だったので近くの本屋で時間をつぶしていたらしく、つい夢中になり待ち合わせ場所に戻ってくるのが遅れたとのことだった。


「つまり、遅刻だね」


 僕の指摘に鈴野は思い切り首を横に振った。


「いやいや違うよ。セーブしてたもん」


「何だよそのルール。聞いてないんだけど」


「確認しなかった樹が悪いよ。さて、どこに行こうか」


「横暴な。って、決めてないの?」


 そういえば前に飲みに行った時、そんな話になりかけて結局やめたような気がする。


「うん。ほらこういうのは二人で決めないと」


 彼女は全く覚えていないようだった。


「いや。そもそもそういうのは前もって決めないと」


 駅前で馬鹿みたいに言い合っているうちにお腹が空いてきて、何の計画も立ててない僕達は欲求のままとりあえず近くのバーガーショップに入った。


「本当に何をしよう」


 そんな僕の言葉を無視して、鈴野はポテトを食べている。内心呆れつつ、僕はモーニングコーヒーを啜る。


「うーん、樹の腕の見せ所だね」


「あのねえ」


「こういう時何したらいいのかわからないのよ。誘うところまでは良かったんだけどなあ。いやー困った困った」


 呑気な彼女の言い草に僕は呆れるしかなかった。


「あ、そういえばこの間の資料は?」


 僕は一瞬何のことかと考え、すぐに思い出した。


「君がさぼったやつね。あるよ」


 嫌味には反応せず、僕がリュックから取り出した資料を鈴野は笑顔で礼を言って受け取った。それからリンゴジュースを飲みながら目を通し始めた。ちなみに彼女は今週もさぼったので、資料は2回分になる。


「ふーん、まあ、やっぱりでなくて正解かも」


 鈴野はつまらなさそうに資料をテーブルに置いた。


「多分、そんなことはない」


「もう今度から全部任せていい?」


「だめ」


「ケチ」


「まだキャンパスライフ1年目でしょ。くたびれるのは早いって」


「別にー、もともとモチベーションないし。樹がいるっていうからきただけだもん」


 鈴野は頬を膨らませた。


「僕がいなくなったらどうするのさ」


「やめる、ついて行く」


 もはやそれは友人ですらないような気がする。


 食事を済ませた僕達は、座っていても仕方がないということでとりあえず店を出て、ぶらぶらと歩くことにした。


「太陽が鬱陶しい」


 散歩をするにあたり快晴なのは都合が良いけれど、5月にしては少々暑かった。夏を待ちきれない人が大勢いて、何者かがその願いを叶えているのかもしれないなんて、暑さにやられてかくだらないことを考えた。


「えー、いいじゃん太陽。元気でるよ」


「そうだけど、限度があるよ」


「これくらいでへばってたら夏どうするの?」


「お節介だなあ。放っておいてよ」


「ダメだよ。夏もたっぷり遊びに付き合ってもらう予定なんだから強くいてもらわないと」


 どうやら涼しい家にこもって優雅に過ごすという僕の計画は打ち砕かれたらしい。


 目的地が決まっていない僕たちはひたすら歩き続けてどんどん駅から離れていった。気がつくと自然と僕たちの通う大学の方へと足が向いていた。


「樹はどうして大学受けたの?」


 唐突に、鈴野はそう聞いてきた。


「特に理由はないよ。君と同じくモチベーションがあるわけでもない。ただモラトリアムを求めて。それから就職には困らないって聞いたから受けた」


「ふーん、じゃあ何になりたいとかもないのね」


「ないね。君は・・・・・・僕がいるからか」


 正しく言うのなら風香の願いを叶えるため、なんだろうけど。


「うん、そもそも大学に行く気もなかったし」


 鈴野に一年の空白があることを思い出した。けれど、その部分を深く聞くことはしない。答えは知らないし、今後知ろうとも思わない。僕にとって大切なのは彼女のこれまでではなく、今こうして僕の隣いるという結果。風香が彼女を僕に引き合わせたという事実だ。


「そうしたら当然何になろうとかもないわけだ」


「ないね。想像もしてない。するだけ無駄だしー」


 虫を払いのけるように手をひらひらとさせて、鈴野は言った。


「だめ人間だな」


「ね、ブーメランって知ってる?」


「知ってるよ。大学生だよ、僕」


 それから僕たちはなぜか、最強のブーメランについてという果てしなくおそらくこの世で最も無意味な議論を繰り広げた。その議論に飽きてきて、足の疲れを感じた頃ちょうど河川敷が見えた。鈴野は一度休憩をしようと、半ば強引に僕の腕を引っ張って土手を下った。どうやら疲れていたのは僕だけじゃなかったみたいだ。


 僕たちは土手の中腹に腰かけた。そして吹き抜ける風に促されたように鈴野は仰向けに寝転がった。依然、快晴。雲一つない青空が、やはり僕には鬱陶しかったけれど、鈴野は植物のように力を得ているのだろうなと想像した。


「あー、眩しい。ちょっと雲呼んできてよ」


 さっきまでの彼女はどこへ言ったのか。僕の想像は一瞬にして霧散した。


「無理がある」


「喉乾いた。ね、じゃんけんしよう」


「それとそれが、どうつながるのか説明してくれるかな」


 じゃんけんの結果僕は負けてしまったので、近くの自販機に向かった。代金は講義の資料を渡す交換条件に従い彼女持ちだった。僕は彼女に命令された炭酸ジュースと、自分用の缶コーヒーを買った。


 飲み物を持って鈴野の元へと戻ると、体を起こして光る川をじっと見ているようだった。僕は一体何を考えているんだろうかと、真剣な横顔からあれこれと想像してみたけれど、どうせどれも違っているような気がした。あるいは素直に尋ねてみても、何にも考えてないけどと拍子抜けさせられるかもしれないと思った。


「ほら、買ってきたよ」


 彼女はぱっと顔をこちらに向け笑顔になった。


「ありがと。え、またコーヒー?」


 鈴野は驚きながら炭酸ジュースのプルタブを引っ張り、缶に口をつけた。


「うん」


「コーヒー好きだねえ」


「まあね。それに僕の血液は多分コーヒーと・・・・・・」


 言いかけて、しまったと思った。僕は風香の話を聞いても、彼女に対して僕と風香の話をする気はなかったからだ。不誠実とも思えるけれど、僕と違い鈴野は自分からほとんど風香の話をしようとしていなかったので、問題ないだろうと考えた。


「コーヒーと?」


 僕は逡巡した後、観念して素直に答えることにした。


「・・・・・・バナナオレでできてるんだよ」


「なにそれ」


 鈴野は不思議そうに首を傾げてクスリと笑った。その仕草や笑い方が妙に僕の心を揺らした。日記の中の少女もまた、笑っているような気がした。


「それくらい、飲んでるって話」


「バナナオレ飲んでるところなんて見たことないけど」


 もっともな指摘だった。僕はこの先もバナナオレを飲むことはおそらくない。風香が世界から消えたと同時に、あのバナナオレも消えたのだ。それだけじゃない。あの場所も、一緒に見た景色も、当時の何もかも全てが消えてしまった。


 橘風香と過ごした日々は、彼女がもたらした数々の不思議は、僕の黒いノートの中にしかない。


「ごめん、適当言いました」


「何それ。樹ってなんか変わってるよね」


 横目で見た鈴野はイタズラした子供をたしなめるような笑顔を浮かべていた。


「でも、だから」


「だから?」


「ううん。なんでも」


 鈴野が炭酸で流し込んだ言葉の続きを僕はいくつか思いつく。願望にも近いそれらは、必死に外へと飛び出したがっていた。けれど彼女に倣い、僕はコーヒーで流し込んだ。苦味がひどく強烈に感じられた。


 なんだか微妙な空気になって、僕らはそれきり沈黙した。僕はまた横目でちらりと鈴野の顔を見ると、表情が消えていた。真顔とも違う。真っ白な顔、とでも言えば良いだろうか。


 鈴野はそんな顔をしたまま機械のように腕を動かしジュースを口元へ運んだ。しかし缶を早くに傾けてしまって、勢いよくこぼれ落ちたジュースが彼女のズボンを濡らした。


「冷たっ!」


 鈴野は飛び上がり、空いていた方の手でズボンを叩いた。その一連の動きの中で残っていた中身もすべてこぼれてしまった。突然の惨劇に僕達は二人で天を仰いだ。


「覆水盆に返らず」


 鈴野は悲しそうに呟いた。濡れたまま帰るわけにもいかないので、ズボンが乾くまで仕方がなく土手にとどまることにした。鈴野は寝転がりひたすらに乾くのを待っていた。僕も座っているのが辛くなってきたので、彼女と同様に寝転がった。思いのほか気持ち良かった。


「やれやれ。僕達は今日、一体何のために朝から駅に集合したんだろう」


「本当にねー」


「ところで、だけど」


「うん?」


「君と風香はどうやって出会ったの?」


 名前を出せばしつこいと思われるだろうかと心配だった。けれど、やはり聞かないわけにはいかなかった。


「んーと偶然、公園で」


 鈴野は意外にもあっけらかんとして答えてくれた。


「と言うと」


「公園に私がいたら、風香がやってきて、話して。それが何度か続いて、気がつけば仲良くなってた」


「ちょっと、省きすぎ」


「え、どこが?」


 鈴野の様子を見るに、面倒で適当に話したというわけではなさそうだった。


「いや。まあ、そう、か」


「ねえ、樹」


「なに?」


「どうして樹は風香のことをそんなに知りたいの? 気を悪くしたら謝るけど、すごく必死な感じ」


 鈴野の指摘に僕は黙した。否定できなかったけれど、認めてしまうのも嫌だった。必死という言葉が気に食わなかった。


 どうして風香のことを知りたがるのか。それは風香という存在に答えを出すため。ではなぜ、答えを欲するのか。僕はそのことについて考えたこともなかった。


 とても不思議なことだ。答えを得たくて仕方がないのは間違いないのに。そのために突然現れた怪しい女と友人になり、こうして時間を過ごしているのに。


 僕はどうしてこんなにも風香のことを考えてしまうのだろう。それがわからない。


 ――友情? 違う。


 ――恋? 違う。


 ――では、どうして? 


「・・・・・・なんでだと思う?」


「・・・・・・いや私に聞かないでよ」


 間を置いて、ぷっと鈴野が噴き出した。僕も誤魔化したかったから一緒に笑っておいた。元々大して興味もなかったのか、それきり鈴野は追求してくることもなかった。


 しばらくして、そういえば僕達は鈴野のズボンを乾かすために河川敷にいたということを思い出し、その目的が大体達成されたので、再び歩き出した。


 もう風香の話はしなかった。



 帰宅した僕は筋肉痛に襲われた。普段の運動不足がたたったようだった。結局河川敷を後にしてから大学まで歩き、そのまま解散した。本当に何のために集まったのか、最後までわからなかった。


 僕は疲れ切った体の悲鳴に従って、風呂上がりすぐにベッドに倒れ込んだ。


 僕の頭には、たった一つの質問だけが残っていた。そしてそれを忘れさせまいとでもするように、ずっと頭痛がしていた。体はひどく疲れているのに眠気はなかった。僕は携帯を取り出し、適当にネットニュースを眺めることにした。


 けれどいくら気を紛らわせようとしても、頭痛はいつまでも治ってくれなかった。

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