橘風香は一体何者か。


 彼女と出会った日から、僕はずっとそのことを考え続けていた。


 家にいようと、授業を受けていようと、小説を読んでいようと、僕の頭にあるのはいつも橘風香という存在に対する疑問だった。ある日突然僕の前に現れ、幾度となく僕に関わってきて、そしてある日こつ然と世界から姿を消してしまった。


 彼女は何者で、僕と彼女は一体どういう関係なのか。


 彼女が僕に残した、今なお僕を悩ませ続ける問い。


 その答えを見つけることこそが僕の生きる意味であると言っても、大げさではなかった。


 もし答えを得られるのならば、僕はどんなことだってするだろう。



 ※



 僕と鈴野は大学近くにあるカフェに入り、向かい合って座っていた。窓の外を見ると、まだ雨は降り続いている。店内には数人の店員が忙しそうに動き回っていて、僕と同じように講義をさぼったのであろう学生らしき男女でにぎわっていた。


 僕が店の内外を観察していたのは、そうするほかなかったからだった。無言でカフェまで歩き、空いていた席に案内され、まず何から聞いたものかと思案する僕に「腹が減った」と鈴野は言った。つまりあれこれと話す前に、まずは腹ごしらえをさせてほしいということだった。僕は仕方がなく了承した。会話を中断されるよりはましだと思ったからだ。


 鈴野はあまりこういう店に来ないのか、メニューを珍しそうに時間をかけて吟味した後、チョコレートパフェを注文した。腹が減って甘いものを食べるということが僕にはまるで理解できなかったけれど、人それぞれだし、あえて口にして雑談を繰り広げる必要もないだろうと放っておいて、僕はオレンジジュースを堪能していた。およそ15分くらい僕たちはそれぞれの時間を過ごした。


「あのさ、そろそろ話を聞かせてもらえないかな」


 かちゃかちゃと音を立てて、底に溜まったチョコレートを掻き出そうとしていた鈴野はその手を止めて、上目で僕を見た。


「あー、うん。そうね。何が訊きたいの?」


「・・・・・・君が僕に会いに来た理由。風香との関係性を詳しく。君自身のことを差し支えない範囲でいろいろと。それから」


「まーったまった、まずどれから答えたらいいの」


 鈴野は困ったように笑う。僕は頭を掻き、ため息をつく。


「じゃあ関係性から」


「うーん、でもそれはさっき言った通りだよ。お友達」


「僕たちと同じ高校だった? 申し訳ないことに記憶にはないんだけど」


「えー、ひどい」


 鈴野は頬を膨らませる。機嫌を損ねてしまっただろうか。


「なーんて冗談。高校、違うよ」


 鈴野はまた笑顔を浮かべる。


「え?」


「私西校だったから。ふっふっふ、安心した?」


 鬱陶しい冗談。とても腹が立ったけれど、我慢しよう。


「ああそう」


「リアクション薄いなあ。ま、そういうわけで別の高校に通ってたんだけど、たまたま風香とは知り合ってね。以来、大親友やってました」


 こんなふざけた人間が、あの風香の大親友だったなんて受け入れたくはないけれど、でも風香ならありえてしまうと思う僕もいた。


「・・・・・・そうなんだ」


「私自身の説明もそれですべてかな。んで、次はどうして樹に会いに来たかだったっけ」


 僕は頷く。


「風香の、お願いだったからかな」


 鈴野は目線をパフェに落としてつぶやくように言った。


「お願い・・・・・・? 僕に会いに来ることが? 何か・・・・・・伝言でもあるの?」


 鈴野は首を横に振った。


「ううん。ただ君と仲良くしてほしいんだってさ」


「・・・・・・僕と?」


「そう。君と」


 僕は言葉を失った。風香の意図が全く分からなかった。ただやはり一つ言えることは、意図を理解できないからこそ、鈴野の言葉はおそらく真実だということだった。


「なぜ?」


「さあ? ただ、きっと仲良くなれるからとだけ言ってたよ」


「僕と君が?」


 風香の大親友だったという事実以上にそれは信じがたいことだった。会って少ししか経っていないけれど、すでに良好な関係を築けるタイプじゃないだろうと思っている。けれど風香には僕と鈴野が親しくしている光景が見えたらしい。


「まあ風香人を見る目は確かだってよく言ってたし? そうなんじゃない」


 鈴野はどこまでも他人事のようだ。


「・・・・・・君、趣味は?」


 僕の問いに、鈴野は目を瞬かせる。


「え、趣味・・・・・・まあ、いろいろと」


「曖昧」


「むー、そういう君はどうなの」


「・・・・・・読書とか」


「あ、読書は私も好きかも。小説?」


「うん」


「へー、好きなジャンルは?」


「まあ、それはいろいろと」


「曖昧じゃん」


 鈴野は笑ってそう言った。僕は腹が立ったので、何か適当に口にすることにした。


「・・・・・・ミステリー」


「あれれ合わないかも。私さあ犯人とかトリックとか動機とかすぐにわかっちゃうからだめなのよ」


 鈴野はつまらなそうに口をとがらせた。コロコロと表情の変わる奴だった。


「そんなことある?」


「もしかして、信じてない?」


「・・・・・・まあ、それはいいとしても」


「あー、誤魔化した」


「誤魔化してない。あのさ、やっぱりどう考えても、僕と君が合うとは思えないんだ」


「ひどいな」


「いや、君も言っただろ」


「小説のジャンルだけはね。ねー、仲良くしようよ。風香のためにさ」


「・・・・・・そもそも、それって仲が良いことになるの? 誰かのために仲良くするっておかしくない? 仲良くってしようと思ってすることなの?」


「・・・・・・知らないよ。あ、すみません。これもう一つ」


 僕の質問を面倒くさそうに放り投げ、鈴野は傍を通った店員を捕まえてあろうことかパフェのお代わりを頼んだ。


「え、まだ食べるの?」


「今日朝から何も食べてなくて腹減ってんの。ほっといてよ」


「・・・・・・そもそも飯がパフェ?」


「あ、言った。ほっとくようにお願いしたのに。やっぱり仲良くする気ないんだ」


「ああはいはい、そりゃ悪かったね」


 僕は苛立ちを流し込もうとオレンジジュースを飲んだ。


「ところでさ、樹こそ風香とどういう関係だったの?」


 当然の質問だった。でも僕は何も答えることができない。ただ胸の奥が締め付けられるような嫌な感覚に襲われる。


 答えられないのは、僕がその答えを持ち合わせていないからだ。答えを、僕たちの関係を、一番知りたいのは僕だ。


「・・・・・・風香は君に、僕と仲良くして欲しいってこと以外は本当に何も言ってなかったの?」


「うん、そーだよ」


「・・・・・・そう」


「君に会って仲良くしてほしい。きっと二人は合うはずだから。ただ、それだけ。続きは、聞けなかったな」


 答えた鈴野の表情は悲しみの色に染まっているように見えた。


 胸中には安堵と落胆があった。風香が僕たちの関係性について鈴野に打ち明けていなかったという安堵と、一方でもし打ち明けていたならば答え合わせができていたかもしれないという落胆。


「それで? 樹は風香とどういう?」


「僕たちは・・・・・・」


「もしかして恋人とか!」


 大声で身を乗り出す鈴野に対し、僕は身を引いた。


「それは、違う。まあ恋人の定義なんて知らないけどさ。例えば、付き合ってくれと言ったことも、言われたこともない。手をつなぐとかデートするとか、そういうことも一度もない」


「ふーん、じゃあ友達?」


「友達」


 それもしっくりこなかった。友達以上恋人未満という言葉もあるらしいけれど、それも違う。


 僕はゆっくりと首を横に振った。半分くらい減ったオレンジジュースを見ながら、僕は続ける。


「僕が知りうる言葉の中に、僕達の関係を表せるものはないよ」


「わけわかんないこと言わないでよ」


「しかたないだろ、そうなんだから」


「でもさあ、毎日のように会って話してたんでしょ」


「まあ、それなりには」


「好きとかいう気持ち、全くなかったの?」


「・・・・・・さあね」


「意味ありげな感じやめてよ。気になるなあ、私たち仲良しの間に隠し事はなしよ」


「スプーン向けんな。わからないって言ってるだろ。第一、僕と君はまだ仲良くなんて」


 僕が言いかけたところで、店員がパフェのおかわりを持ってきた。


「ありがとうございまーす」


 会話を強引に終わらせて、鈴野はまたパフェを頬張りだした。見ているこちらが胸やけをおこしそうだった。そして困ったことに、一度パフェを食べ始めると鈴野はまるで僕の言葉を受け付けなくなった。


 結局、大して何もわからなかった。むしろ疑問が増えたくらいだ。


 ふと、風香がどこかから僕を見て笑っているんじゃないだろうかと思った。風香はよく僕を困らせては笑っていた。もしかすると、彼女は今またそうして、いなくなったふりをして、このおかしな女を僕に引き合わせて楽しんでいるんじゃないだろうか。


「うう、さすがに二個目はきつい」


 鈴野の食事シーンを見ていても何も面白くないので、携帯でニュースを見ていると、苦しそうな声が聞こえてきた。僕がため息をついて顔を上げると、満腹と甘味にやられたたらしい苦悶の表情があった。


「そりゃそうだろうね」


「ねえ食べてくれない?」


 鈴野はスプーンを差し出してきた。僕はクリームやチョコレートやのついたスプーンの先端を見ながら、もう一度ため息をつく。


「いらない」


「なんで? パフェ嫌い?」


「パフェは大好物」


「あら、合うところもあるじゃーん。じゃあ食べてよ」


「いらないってば。腹いっぱいだし。お金半分出せとか言いそうだし」


「君、やっぱり仲良くするつもりないらしいね」


 文句を垂れつつ懸命に生クリームと闘う彼女は、お門違いも甚だしく恨めしそうに僕を睨む。


「魚心あれば水心っていうでしょ。君が僕に不快なことをしてこないのなら、あるいは、君の望むとおりになるんじゃない」


 鈴野に合わせるように僕は軽口をたたいたのだけど、一向に返事がなかった。のみならず、鈴野はまた見たことのないような表情をして、気まずそうにこめかみのあたりを指で触っていた。


「あの・・・・・・なんか私、失礼なことした、かな」


 予想外の反応に僕は驚く。これも冗談、でなければ説明のつかないような奇妙な問いかけだ。


「え、いや。冗談だけど。不快だとまでは思ってないよ」


 咄嗟に口をついた言葉だった。鈴野は見る見るうちに表情を変化させて、不満そうに口をとがらせる。


「意地悪だね」


「いやいや、どの口が」


「やれやれ前途多難だなあ」


 項垂れる鈴野に僕は頷いた。


「・・・・・・同感だね」


 僕なりに彼女の要望をかなえるつもりでそう言ったのだけど、果たして伝わったのかは定かじゃない。けれど彼女の様子を見るに、これからも無理矢理僕に関わってきそうだからあまり考えなくてもよさそうだ。


 僕はポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。気が付けば結構な時間が経っていた。そろそろ帰宅しようということになり、パフェを鈴野が気合で平らげるのを見届けて少し休憩した後、僕達は一緒に店を出た。


 てっきりそこで解散だと思ったのだけど帰り道が同じ方向だったので、僕は彼女と一緒に帰ることにした。



 帰路、風香の話にはならなかった。それはとても自然にならなかったのだと思う。僕たちは究極のパフェについてという果てしなくどうでもいいテーマについて話し合い、もとい口論をしながら、薄暮の中を歩いた。そんな暇があったのなら聞くべきことが他にあるようにも思えたけれど、不思議とそうしようとは思わなかった。ただ何も考えず適当にくだらない話に終始した。ついでに、連絡先を交換した。自分でもよくわからないけれど、その頃には彼女に対する拒絶の心も無くなっていた。全く不思議なことだった。


 交差点に差し掛かったところで、鈴野は立ち止まった。


「私こっち。樹は?」


「僕はまだまっすぐ」


「じゃ、今日はお別れだね。あーあ、講義さぼったの初めて。まだ入学して一か月なのに」


「まあそういうこともあるんじゃない」


「うわー適当。ちゃんと仲良くしてくれる気あるの?」


 鈴野は詰め寄ってくる。僕は少し体を引いた。


「あるよ」


「ほんとうに?」


「本当に」


 嘘じゃなかった。仲良くするという定義はよくわかっていなかったけれど、会うのを今日これきりにするとかそういうつもりはなかった。無論、風香の真意を探るためというのが最も大きな理由だ。


「それはうん。良かった」


 鈴野は満面の笑みを浮かべた。


「それじゃあ、そろそろ」


「うん。またね」


「うん」


「連絡するからちゃんと返してよー」


「はいはい」 


 僕達は互いに手を振って別れた。記憶の中の少女が微笑んだ気がしたけれど、きっとそれも気のせいだ。



 ※



 橘風香は本人が全く意図せずとも常に話題の中心になるような存在だった。


 例えば高校生の評価を決めるもの、つまり勉強や運動において、常に周囲の人間を驚かせるほどの結果を残していたことが要因の一つだろう。


 しかし風香は勉強熱心というわけでは無かったし、部活動をしていたわけでもない。進学や就職の目標などを聞いたこともなかった。つまり彼女は何かに縛られる事もなくただ生きていたに過ぎない。ただ生まれ持った才能によって気ままに振る舞っていただけなのだ。


 才能の代償に人に妬まれたり恨まれたりするというようなこともなかった。むしろ橘風香という圧倒的な存在の放つ強烈な光に誰しもが目を奪われ、彼女の持つ温もりに心を惹かれた。


 もしかしたら僕も隠れ家での邂逅がなければ、その他大勢の人間たちと同じく、ただ彼女の信奉者となっていたかもしれない。


 しかし僕は観察者となった。盲目的に光に従うのではなく、温もりを欲するのではなく、橘風香という神秘を解き明かすための存在になった。


 今もなお僕だけがひたすらに、彼女の姿を追い続けているのだ。



 ※



 僕は黒いノートを閉じた。


 時計を見ると、時刻はもう0時を回っている。


 体を思い切り伸ばして、背を反らし、天井に向かって息を吐く。姿勢を戻して、黒いノートの表紙に目を落とす。どこにでもある黒いノート。しかしこの中にはこの世に二つとない存在について記してある。


 風香が世界から消えてしまったあと、僕はこのノートに、彼女のことを書き留めることにした。何もかもずっと忘れない、というような便利な能力でもあれば良かったのだけど、生憎、僕には備わっていなかった。だから彼女と過ごした時間を決して忘れないようにと、できる限りを記すことにしていた。


 そうして出来上がったものを僕は時折見返して、橘風香という人間を思い返す。正体に至ろうと必死に記憶を辿る。


 けれどもやはり、あの中途半端な空間に佇む少女は何も答えてくれない。


 風香、君は何者なのだろう。


 今日はいつも以上に胸が苦しい。原因は分かりきっている。彼女の残した言葉、鈴野凛に託した願いのせいだ。


「君は僕のことをどう思っていたんだ? どうして、鈴野凛を引き合わせた?」


 真っ暗な部屋に僕の声は溶けていく。


 答えが返ってくることはなく次第に僕の心も夜の下へと沈んでいく。


 誰かが僕を憐れんでいるような気がした。

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