第37話 矛盾
翌日、沖田は羽衣石を見舞いするため病院を訪ねた。本当なら午前中に来たかったのだが、面会時間が定められているので仕方なかった。空気は冷たいが安心感をもたらす柔らかい日光を浴びての訪問だった。
自動ドアを潜ると、途端に人工的に暖められた空気に包まれた。待合室には、二人座っていた。一人は品の良い老婆で、もう一人は退屈そうにスマートフォンを弄っている二十代の青年だった。テレビから流れる音声以外、よけいな雑音は排除されている。これまで無縁だった場所に身を置くと落ち着かなくなる。
時計を見ると二時を過ぎていた。外来の受付はとっくに終了している。だから、こんなにも空いているのか。
もう少し早く来ても良かったと思いながら、受付に座っている事務員に面会の旨を伝えた。応対してくれた事務員は眼鏡を掛けた小太りの女性で、沖田の顔を見るなり目を見開いた。十二ラウンドを戦い抜いたボクサーのように顔面を腫らしているので、あなたこそ入院した方が良いと思っているのは明白だった。昨日までこの病院のベッドで寝ていたことを知らないのだ。
その事務員の動きが、困惑してぎこちないのが気になった。
「……恐れ入ります。もう一度患者様のお名前を……」
「羽衣石さんです」
事務員はなおもノートを捲ったり、壁に掛けてあるホワイトボードを確認しながら、しきりに首を捻った。
「? あの……?」
「字はなんと書きます? う、いしさん?」
「羽根の羽に衣と石でういしです」
「病院を間違えておられませんか? 当院にそのような方は入院されておりませんが……」
沖田は一瞬、反応するのに遅れた。
「なにを言ってるんですか。昨日、いや一昨日の夜かな? 俺と一緒に運ばれたはずです」
「そう言われましても……」
事務員の要領を得ない言い方に、沖田の心が波立った。ただのざわつき方ではない。自分が未来にいるのを悟った時と同種の焦りが警鐘を響かせ、まだすべてが終わっていないのだと直感が告げた。自分はまだ時間の渦の中に巻き込まれている?
「くっ」
沖田はカウンターから離れて、病棟の奥へと進んだ。
「あっ!? ちょっとっ」
事務員の制止を振り切って、階段を駆け上がった。病室は三階だったが、二段跳ばしで急ぎ、床を蹴る音が折り返し階段に響き渡った。
沖田は扉をノックして来訪を伝えた。とても見舞いに来たとは思えない乱暴なノックだった。まるで家宅捜索にやってきた厳つい捜査員のような勢いだ。
「………………」
返事がなかった。ここでは知人がいない彼女にとって、見舞い客はなにより嬉しいはずだ。悪いと思うより先に扉を開けた。彼女と話し合いたいことは山とあるし、感謝してもしきれない恩がある。感謝の言葉は何度だって言いたかった。
「愛莉さん?」
ベッドはもぬけの殻だった。無人のベッドが目に飛び込んだ瞬間、沖田は胸を圧されたように息苦しくなった。
トイレに行っているとか、診察を受けているとかではない。事務員が言った通りだ。彼女はいなくなったのだと分かった。理由は説明できないが、感覚的に確信があった。数ヶ月を共に過ごし、危機を乗り越えた繋がりが、羽衣石はもうこの世界にはいないと訴えていた。
「きみっ、いったいなんの……」
慌てて追ってきた男性職員に肩を掴まれたが、強引に振り払った。
「おいっ」
沖田は駆け出していた。廊下ですれ違った看護師が驚いて短い悲鳴を上げたが、構っていられなかった。
病院から出ると、寒さなど無視するかのように、瞬く間に汗が吹き出した。不思議と熱いとはあまり感じなかった。ただ、日の光がやたらと眩しく、考えをまとめるのに邪魔だと思った。
「沖田」
ふいに飛び込んできた呼び声に急ブレーキを掛けた。勢いが収まらずに前につんのめる。止まって初めて呼吸が荒くなっているのに気づいて、苦しくなった。
「千晶、さん」
「これから見舞いに行こうと思ってたんだよ。もう退院したんだ。てか、怪我してんのにそんなに走って大丈夫なん?」
関口は飽くまで平常だった。羽衣石がいなくなったことを知らないのだ。それでも、事件解決まで協力してくれた功労者だからこそ、共有している経験がある。
「桜庭がウタちゃんだったなんて、もう学校中が大騒ぎ……」
沖田は関口の話を強引に遮った。
「千晶さん、愛莉さんがいなくなった」
「愛莉さん? あのおばさん? ん? おばさんって……誰だっけ……?」
衝撃が全身を貫く。何度も行動を共にした。その過程で諍いも共闘もした人だ。知らないはずがない。
「羽衣石愛莉だよ。桜庭を捕まえるのに一緒に協力したじゃないか。あんな大怪我まで負って、俺を守ってくれた人だよ」
沖田の勢いに気圧されながらも、関口は首を捻った。
「う、ん。知ってる。知ってるよ。愛莉さん、だよね。知ってるはずなんだけど、なんかこう……靄がかかってるっていうか。……どんな人だっけ?」
「そんなことって……」
「あっ、沖田っ」
関口の声を振り切って、沖田は再び走り出した。目指すべき場所など分からない。ただじっとしているのがたまらなく怖かったのだ。あれだけショッキングな事件を一緒に乗り越えた関口の記憶すらも改竄されつつある。
「……タイムパラドックスだ」
羽衣石は言っていた。沖田を助けるためにやって来たのだと。ここは沖田が死の運命を回避できた世界だ。つまり、羽衣石が時を越えてくる必要などないのだ。羽衣石が流れを変えたことで生じた、時間が織りなす矛盾に頭がこんがらがる。
「考えろ。考えろ」
自分は今どこに立っている? 羽衣石はどこに移動した? 彼女はたしかにいた。一緒に病院に運ばれたのだ。それは曲げようのない事実だ。時越えを経験した影響か、自分は記憶が鮮明に保てている。俺は覚えている。知っているんだ。いつから流れが修正された? 自分が未来から帰ってきた時と重ね合わせてみる。彼女の言葉が甦る。
「目的は果たされた」
おでこに当てた指先から電流を流されたように、衝撃を伴った天啓が閃いた。
「……そうか。そうかっ!」
時越えの森を通って時間を飛んだ者は、目的を果たしたら自分の時代に戻されるのだ。自分の時はわけも分からず現代に帰ってきていた。だが、そう思っていただけで、未来でやるべき目的を果たしたから帰ってこられたのだ。
「俺はなにをした……? 自分が死んだことを知り、図書館に行って……」
おそらく、あそこでの沖田の目的は、自分の死因を知ることだったのだ。
本来の入り口とは逆から入ってしまった沖田は、過去ではなく未来に飛んだ。未来ではすでに起きたことに対処できない。だから、現代に戻った際に対処できるよう死因を特定することが、あそこでの目的に設定された。自覚がないままに実行したから、自然に帰れたと勘違いしていたのだ。
「愛莉さんは未来に帰ったのか……?」
それなら悲しむ必要はない。運命の糸に手繰り寄せられ、再び会えるはずなのだから。
「………………」
頭では納得しようとするが、気持ちを抑えることはできなかった。過去でも未来でもない、現在で彼女と顔を向き合わせて話がしたかった。
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