第34話 闘争

 突然の反撃に桜庭は不意を突かれた。それでも反射神経が刺激され、遅れを取ることはなかった。


「のろまめっ。日頃から運動してないから、こんな時にさえキレがないんだっ」


 桜庭はダンスのアクションみたいな軽快なステップで避け、そのまま攻撃に転じた。沖田は滑稽なくらいバランスを崩しており、なんとか転倒を堪えている状態だ。前屈みになっている沖田の背中に、ナイフを深く突き立ててやるつもりだった。

 唯一の目撃者である沖田を始末し、協力者である羽衣石とかいう女も片付ける。関口が残っているが、あんなデキの悪い生徒は物の数ではない。むしろ上手い具合にウタちゃんの犯行だと思ってくれれば、鵜高仁美に警察の目を向けることができる。そういえば、自分も立ち会うと言ったことは関口は知っている。それでも、約束はしたがギリギリになって行くことができなかったことにすれば良い。どうとでもごまかせる。それとも、予定通り彼女も殺ってしまおうか? 警察は無能だ。現在に至るまで自分には一歩たりとも近づいていない。

 心の堤防が決壊した。積もりに積もったストレスからの解放を切望するあまり、見境がなくなっていた。柳井明日菜殺害の成功が桜庭を大胆不敵にさせた。沖田が指摘したように、桜庭はすでに壊れかかっていた。

 これで、また元の生活に戻れる。カスのために将来を棒に振るなんて、自分の人生にあってはならないことだ。

 濃霧の中に光を見つけた。安堵を伴った勝利感が脳天を貫いた時、桜庭の腕に力が加えられ固定された。


「なっ!?」


 羽衣石が腕に絡んでいた。苦悶の表情で歯を食い縛り、必死に桜庭にしがみついている。


「こいつっ、まだ生きてるのかっ」

「やらせない。昌宏は私が守る」

「愛莉っ」


 桜庭が驚愕するのは無理なかった。急所を外したとはいえ、背中を刺されて動ける者など、どれほどいるのか。

 沖田は態勢を立て直したが、桜庭は素早かった。

 ナイフを左手に持ち変え、羽衣石の太ももに突き刺した。


「ああっ!?」


 苦悶の表情がさらに歪む。苦しむ羽衣石の姿が目に焼き付けられ、沖田の起爆剤となった。


「桜庭ぁっ!!」


 沖田は、桜庭の顔面を思い切り殴った。壺が割れたような嫌な感触が拳を伝わる。軌道もバランスも滅茶苦茶なパンチだったが、鼻に直撃したのでダメージは大きかった。


「ぎゃあっ!」


 桜庭は、堪らずナイフを離した。羽衣石に刺さったままで、彼女は苦悶のままその場に転がり倒れた。


「うおおっ!」


 沖田はがむしゃらに突っ込んだ。無様な体当たりだったが、鼻を折られてうずくまっている桜庭は避けられず、二人は揉んどり打って重なった。


「おまえはっ! おまえだけはっ!」


 沖田は完全に冷静さを失っていた。これまで経験したことのない感情の激流に飲み込まれて、我を失った。羽衣石を助けたい一心が恐れと入れ替わり、桜庭に馬乗りになって拳を振るい続けた。

 肉と骨を叩き潰す衝撃が拳から脳天に突き抜けていく。自身の手にも痛みを感じたが、意に介する余裕など吹き飛んでいた。


「いい加減に……」


 桜庭が腰を浮かせながら足を絡ませ、そのまま体ごと回転させた。


「しねえかっ!」


 一連の動きが瞬時に行われたため、沖田はバランスを崩した。力任せではなく、筋肉をバネのようにしなやかに使わなければできない動作だ。

 態勢が完全に入れ替わった。反撃する暇もなく、今度は沖田が地面に強く押し付けられた。


「よくも……よくも私の顔を……よくも、きさま……」


 一人称が僕や私とごちゃ混ぜになっている。ひょっとして多重人格者なのか。度重なる女装による現実逃避が、彼の中のバランスを壊したのか。

 呪詛のように呟く桜庭の下で沖田は必死に足掻いたが、彼のよう上手くいかない。重心を押さえられてしまって、力が腰や四肢に伝達できなかった。


「うーっ!」


 顔を紅潮させ抵抗する沖田を、桜庭は文字通り見下して冷笑を浮かべた。沖田の拳で顔面が血に染まっているので、ひどく禍々しく映った。


「おまえは……人殺しだ。こんなことをして、捕まらないとでも思っているのか?」

「捕まらないさ。警察なんて無能の集まりだ。現に柳井の件から二ヶ月も経っているのに、奴らは僕に近づいてさえいない」


 優位に立ったことで余裕を取り戻したのか、先ほどの咆哮などなかったように説き始めた。


「最近の若者は本当に呆れるね。怠惰に過ごしてるくせに、結果だけを得ようとする。そんなんだから、Z世代なんて揶揄されるんだ」

「………………」

「世界中に向けて簡単に情報を発信できるから注目を集めたくなり、善悪の区別もなく平気で不愉快な行為に出る。それ自体が嫌悪される理由になるとも理解しない」

「……いきなり、なんの、話だ」

「デジタルネイティブ世代ってのは馬鹿ばっかりって話だよ」

「なんだと?」

「日頃の努力こそが実を結ぶんだ。低次元なやつほど、他人を見下したがる。その分、自分が大物だと勘違いできるからな。柳井のように人の弱みにつけこんで調子に乗るアホまでいる。他人を貶める前に、自分を高める努力をしろ」

「……人の命を奪っておいて、まだ教育者のつもりか? 頭がいかれているのか?」

「おまえも僕を見下すのかぁっ!」


 桜庭は両手で沖田の首を掴み、力を込めた。


「ぐええっ!?」


 華奢な指先からは想像も付かない凄まじい力だった。沖田は桜庭の手首を掴んで必死に引き剥がそうとしたが、万力で固定されたようにびくとも動かない。

 抵抗している間にも桜庭の指は喉を圧迫し、呼吸はもちろん血流まで停止させた。脳が熱を帯び額から脂汗が滲み出る。

 なんとか食い込む指を押し返そうと歯を食いしばって喉の筋肉を硬直させるが、桜庭の無慈悲な怨念が蓄積された腕は、沖田の生存本能さえ潰してしまいそうなほど強かった。混じりけのない純粋な悪意に、反抗する心が折られそうになる。


「教師に楯突く生徒など、この世にいらないんだよっ」

「うおおおっ!」


 沖田の雄叫びと桜庭の勝利宣言が重なった時、心臓を粟立たせる甲高い音が鳴り響いた。木々の合間を縫ってパトカーのサイレンを浴びた。


「あ?」


 桜庭が視線を巡らすと、いくつものパトライトが毒々しいまでの赤を放っている。


「なんだ? いったい……?」


 愕然とする桜庭の傍らで、緊張した場にそぐわない美しい旋律が流れた。聞き覚えがある。G線上のアリアだ。桜庭のスマートフォンが着信を報せているのだ。


「なんだ? なにが起きている?」

「出た方が良いよ……。あんたの未来のために」


 羽衣石の不敵な言い方に、桜庭は形容しがたい不安を抱いた。

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